02 六年
調子は悪くない。
彼女はそう思っていたが、時折、頭が重い感じがした。
(いろいろな話を聞かされて、混乱しているのだろうか)
ミヴェルはそう考えた。
――〈魔術師の腕〉。仮面の男が手にしたそれをアトラフもまた、手にしたのだと言う。それは驚くべき話だった。
件の儀式には、危険がつきまとうと聞いていた。だからこそ、余所者の男が実験体とされたのだ。
それは成功した。だが、ライサイは慎重だった。すぐさま同じ実験を繰り返すことはなかった。
もっとも「材料」がなかったということもあるだろう。〈魔術師の腕〉を作り出すのに必要な材料――「魔術師」が、すぐには手に入らなかったから。
しかし、材料が揃ったとしても、アトラフが対象になるとは意外だった。彼自身が志願したと言うが、どうしてそんな危険なことをと思った。次期ソディの長と言われるアトラフの地位は不動であるのに。
アトラフはその問いに、はっきりとは答えなかった。ただ「必要だった」と言った。ミヴェルにはその意味は判らなかった。
彼女を困惑させていたのは、アトラフの新しい力のことだけではない。
フェルナー、またはリダールという少年のこと。六年前に死んだ子供の魂が、生きている少年の身体に蘇ったと言う。
その儀式のことは、何となく聞いていた――ような気がした。記憶が、はっきりしなかった。だが詳しく思い出そうとすると頭が痛くなって、追及する気がなくなった。エククシアかアトラフに聞いたのだろう、と考えるしかなかった。
と言っても彼女が〈青竜の騎士〉に必要とされなくなってからずいぶん経つ。いつ騎士と話をしたのかと記憶を遡ろうとすると、やはり、頭が痛くなった。
(私は何かの病にかかったのだろうか)
彼女は気にかかったが、神女は心配要らないと言った。女の身体には不意に思いがけない変化が現れるものであり、頭痛は薬で抑えられると。たくさんの薬を渡され、それを毎晩、飲むようにと。
ミヴェルは神女を信じた。アトラフを信じた。エククシアを信じた。
これまでと、何も変わらずに。
そう、これまでと、何も変わることはない。
(……つ)
彼女は額を押さえた。
(何だろう。何か……引っかかる)
「どうした、ミヴェル」
「あ、いや」
何でもない、と彼女は首を振った。
「まだ少し、〈移動〉の酔いが残っていたのかもしれない」
「キルヴン邸でも言葉少なだったな。そのせいか」
「それもあるが、私に話すことは、特になかったから」
彼女が答えれば、アトラフはそうだなと応じた。
「リダール・キルヴン」をキルヴン伯爵のもとへ送ったとき、彼女はただ驚いて、話を聞いていた。
少年とアトラフの語る話は、事実と全く異なった。だが彼女はそれに驚いたのではなく、少年の様子が全く違うことに驚いたのだ。
「リダール」はフェルナーと違った。キルヴン伯爵に「家出」の謝罪をし、アトラフとミヴェルが彼を助けたのだと語る様子に、フェルナーの影は皆無だった。演技ではない。
少なくとも彼女にはそう見えた。
リダールとフェルナーは別人であるという意味が、ミヴェルはそこでようやく理解できた。
少なくとも、彼女には、そう思えた。
それからアトラフは、リダールを誘い出した。カル・ディアを案内してほしいと言って。
少年は快諾し、彼らと共にキルヴン邸をあとにした。
それから「リダール」は「フェルナー」となって――次の目的地へと向かった。
「どうした。具合が悪いのか」
そう尋ねたのは、今度はミヴェルだった。相手はフェルナーだ。
少年は息を吐いて、頭痛をこらえるように額に手をやっていたのだ。
「いや」
彼は首を振った。
「何でもない。ちょっと、嫌な感じがしただけだ」
「嫌な感じ?」
「何でもない」
少年は仏頂面で繰り返した。
「おかしなことを言う奴だ」
女は肩をすくめた。
「さて」
アトラフが少年を見た。
「心の準備はいいか?」
「――もちろんだ」
彼は胸を張った。それにうなずいて、男は扉を叩いた。
「入れ」
その声に男は取っ手を回し、少年と女を先に入らせて、最後に扉をくぐると振り返って静かに閉ざした。それから彼は部屋の主に丁寧な礼をしたが、主はそれをほとんど見ていなかった。
「ち……父上」
少年は言った。
「あの……」
「――エククシアの言葉がなければ、とても信じられない。いや、正直に言えば、やはり信じられない思いだ。何故お前が、私を父と呼ぶのか」
レフリープ・ロスムは押し殺した声で言った。
「僕も、驚いています」
少年は言った。
「この顔で、この身体で、父上の前に立つことなどできないと思いました。ですが彼らが、父上には話をしたと……帰って会うといいと、言ったので」
それは、タイオスが「リダール」と再会する少し前のこと。
イズラン、サングの密偵である元町憲兵のティージが目撃した通り、少年はロスム伯爵の館を訪れていた。
「……フェルナー」
ロスムは少年を呼んだ。
「本当に、フェルナーなのか? キルヴンの小せがれが、つまらぬ演技をしているのでは、ないと?」
「本当です!」
フェルナーは叫んだ。
「僕は、よく覚えています。父上に逆らって、家を飛び出したこと。子供じみた反抗だったと判っています。『デルカの法書』を読んでおくと約束したのは僕だったのに、読み切れなかったことを指摘されて、腹を立てたんです」
「――そうだったな」
ロスムは呟いた。
「そんな、つまらぬ、話だった」
「僕は、頑張ったけれど難しくて進まないと言いました。父上は、リダール・キルヴンなんぞとつき合っているから頭が悪くなるのだと仰った。僕はそれにかっとなって、家を飛び出したんです。僕とリダールの誕辰が近かったから、彼のところに行って……父上をもっと怒らせてやろうと、思いました」
訥々と彼は語り、伯爵は沈黙した。
「その結果が、あれだ。僕は……」
少年は唇を噛んだ。
「僕は本当に、死んだのですか、父上」
「それは……」
フェルナーの父は黙った。
「そうだと言わざるを得ない。しかし、そのことはもはや問題ではない。そうではありませんか、ロスム伯爵」
声を出したのは、じっと黙っていた男だった。
「失敬。ソディのアトラフと申します」
アトラスは再び、丁寧な礼をした。ロスムも今度は、男を見た。
「エククシア様からお話が行っているものと思いますが、このたびは我ら、アトラフとミヴェルがフェルナー殿をお連れいたしました」
「はじめはあの仮面男が連れると聞いていたが、確かに先ほど、そうした連絡をもらった」
ロスムはうなずいた。
「あのタイオスという戦士がフェルナーを監禁していたが、お前たちが救い出したそうだな」
「その戦士のことは、私は存じ上げません。ただ、エククシア様に刃する、不埒な男とは聞いております」
「その通り。酷い男だ」
フェルナーは大きく首を縦に振った。
「言葉も行動も乱暴で……僕を荷物のように抱え上げたり、僕を疑ったり、僕との約束を破ったり、僕の話をちっとも聞かなかったり」
「確かに、粗暴な男と見えた」
彼らはヴォース・タイオスという人物への評価を一致させた。
「……確かに」
ロスムはまた言ったが、次はタイオスに関する発言ではなかった。
「あの護衛をそのように言うのであれば、リダールとは思えぬな。あの子供はずいぶん、戦士に懐いていたと聞く。だが……」
「父上、まだ信じていただけないのですか」
フェルナーは手を振るわせた。
「何を言えば、信じていただけますか」
少年はすがるように父を見て、それから手を打ち合わせた。
「そうだ、去年の誕辰のこと。父上は、馬を買ってくださいました。すごく嬉しかった」
「――去年」
「それから、剣の師匠を探してくださる約束もしましたね。とても楽しみです」
フェルナーは続けた。
「母上と一緒に、お婆様のお屋敷を訪れた話もしたらいいですか? あの屋敷の蔵はすごくて、僕はあのなかを見るのが大好きでした。お婆様が亡くなったとき、蔵が処分されると聞いて、すごくがっかりした」
それから、と彼は考えながら更に話した。
「僕が五歳のときに中庭の噴水に落ちたこととか、そんな間抜けな話は、リダールにはしてません。リダールは知らない。あと、この前、木に登って降りられなくなった猫のヨークを助けようとして、僕も一緒に降りられなくなったこととか」
話してません、と彼は言った。
「ひと月も前じゃないです。それからリダールには会ってないんだから、彼が知るはずが」
「――六年だ」
ロスムは静かに言った。
「それから六年が経っている。フェルナー」