01 はじめまして
女はそっと深呼吸をすると、部屋の扉を叩いた。
「――入れ」
「失礼いたします」
かちゃりと静かに取っ手が鳴り、彼女は室内に入ると深く礼をした。
「お申し付けにより、ミヴェル、参りました」
そうして顔を上げると、四人の人物が彼女の目に入った。
円卓の奥側に、宗主ライサイ。その右隣に、〈青竜の騎士〉エククシア。左に〈しるしある者〉アトラフ。続いて仮面の男。
いや、もうひとり。
ミヴェルは驚いたが、それを顔に出すまいと表情を引き締めた。宗主や騎士の前で、無礼があってはならない。
「どうして子供がここに、と思っているな?」
高めの声が発せられた。ライサイのものだ。ミヴェルはただ頭を下げて、余計な口を利かなかった。
リダール、それともフェルナーは、顔を青くしながら、エククシアの隣でミヴェルを見上げていた。
それはライサイが〈第二十二結界〉と呼んだ場所からフェルナー少年を連れ去った、すぐあとのことだった。ミヴェルがアトラフとともに帰還をしてからひと晩が明けている。
「ミヴェル」
エククシアの囁くような声がした。ミヴェルはわずかに鼓動を高鳴らせながら、それを聞いた。
「新たな任を与える」
「は、はい……!」
喜びを覚えて、彼女は彼女の騎士を見た。仕事を与えられるのだ。この、役に立たない自分が。それはミヴェルを期待に震わせた。
「アトラフと、この子供をカル・ディアへ連れるのだ」
「カル・ディアへ?」
思いがけない地名だった。ミヴェルは目をしばたたいた。
「詳しくはアトラフが知っている。お前は同行し、子供の面倒を見ればよい」
「は……」
承りました、と彼女は深く頭を下げた。
「さっきから子供、子供と」
少年が呟いた。
「僕は子供じゃない!」
フェルナーは並みいる男たちを睨みつけたが、誰も少年を相手にしなかった。
「話はそれだけだ。支度をしてすぐ向かうように」
「は」
アトラフが立ち上がって頭を下げた。ミヴェルは少年の椅子を引くようにして彼を立ち上がらせると、同じく退出の礼をして踵を返した。
「――まどろっこしい」
ぼそりと誰かが呟いた。
「他人に言うことを聞かせるなら、もっと簡単な方法があるはずだ」
「ふふ……」
誰かが笑った。
「我は脅迫などしないのだ、仮面の」
「誘拐と身代金の要求の、どこが脅迫でないと?」
「それは支度に過ぎない。我の相手は、あのような貴族連中ではない」
「――ふん、つまらぬ言い訳をするものだ。俺には判っているぞ、お前は」
ミヴェルはそれ以上、上の者たちの会話を聞いていなかった。
彼女は扉の手前でもう一度礼をすると、アトラフに続き、少年を促して、部屋を出た。
「もう平気なのか、ミヴェル。その、調子が、悪かったようだが」
振り返るとアトラフは、案じるような声で彼女に話しかけた。ミヴェルは手を振った。
「ああ、もう何ともない。ひと眠りをすれば、治った」
「本当か?」
「嘘をついて無理を押し、あなたやエククシア様に迷惑をかけるつもりはない」
「そうか」
アトラフは少し息を吐くと、ミヴェルの肩を抱いた。ミヴェルは少し戸惑った顔を見せた。
「その……アトラフ殿」
「うん?」
「この、手は、何だろうか」
「嫌か?」
「嫌だと言うのではないが」
ミヴェルは少し考えて、続けた。
「歩きにくい」
「ははっ」
アトラフは笑って、手を放した。
「確かにね。少し自重することにしよう。――君にはいずれ、好きなだけ、触れられるようになるんだから」
「それは……あれか。私があなたの、妻になると言う」
「嫌か?」
アトラフはまた問うた。ミヴェルは首を振った。
「ライサイ様の決定ならば、私は従うだけだ」
「君はもちろん、そう言うだろうと思っていた。だがどうだろうか。君自身の気持ちは」
「わ、私の……?」
「ああ。エククシア様と……」
「お前たち」
こほん、と咳払いが聞こえた。
「僕がいることを忘れていないか」
とげのあるフェルナーの声に、アトラフは笑った。
「ああ、これはこれは。こちらこそ済まなかった、フェルナー。ミヴェル、その話はあとにしよう。いまは支度を」
「ああ、判った」
彼女はうなずいた。
「だが、支度とは? 何をすればいい」
「滞在は長期に渡ると思われる。着替えなどの身の回りのものを用意するといいだろう。誰かに命じてもいい。私はそうした」
「成程」
彼ら〈しるしある者〉は、こまごましたことを自分でやる必要はない。彼らは大国の貴族のように、使用人に何でも命じることができる。
「滞在の準備か……」
ミヴェルは考えた。どんなものが必要か、いくつかぱっと思い浮かんだ。
「そうだな。着替えのほかにも、思いもかけず入り用になるものがあるものだ。誰かに任せてもいいが、最終的には自分で整えた方がいいだろうと思う」
「へえ」
アトラフは彼女をのぞき込んだ。
「……まるで、どこかに長く滞在した経験があるみたいな言い方だな」
「え?」
ミヴェルは目をしばたたいた。
「いや……」
彼女は首をかしげた。
「私は、長くカヌハを離れたことなど、ないが」
「そうだな」
アトラフはうなずいた。
「ない、はずだ」
何だか妙だな、とミヴェルは思った。だが何に違和感を覚えたものか、彼女はよく判らなかった。
「それから、神女様のところに行って薬をいただくのも、君自身がやった方がいいだろう」
「薬だって?」
「カル・ディアでまた調子が悪くなってはいけないから」
「大丈夫だ。昨夜のことは、あまり覚えていないのだが」
「私と食事をしているときに、急に目を回したんだ」
ゆっくりと、アトラフは言った。
「そう、聞いただろう?」
「ああ」
彼女はうなずいた。
「そうだ……そうだった。神女様にお薬をいただいて休んだ。今朝は、すっきりとしていた」
「そうだとも」
アトラフはミヴェルの肩に手を置いた。
「だが念のためだ。薬をいただいてきなさい」
「判った。そうしよう」
ミヴェルは答えて、フェルナーを見た。
「少年。こちらへ」
「……ふうん」
「どうした?」
「いいや。では、彼らの言ったことは本当なんだな」
「フェルナー」
「大丈夫」
少年は手を振った。
「余計なことは言わないとも。アトラフ殿」
彼はかすかに口の端を上げた。
「では改めて」
フェルナーは宮廷式の礼をした。
「はじめまして、ミヴェル。僕の名は、フェルナー・ロスム。時に、リダール・キルヴンとも呼ばれるようだ」
「時に……?」
「その話は、おいおいに。きっと、アトラフ殿が一緒のときがいいんだろうね」
「何だか、判らないが」
ミヴェルは正直に言った。
「フェルナーと言うのか。私はミヴェルだ。以後、よろしく頼む」
「ああ、もちろん」
よろしく――と少年は手を差し出し、かすかに笑った。アトラフは黙って、それを見ていた。