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墨色の満月―シリンディンの白鷲―  作者: 一枝 唯
第4話 混沌 第3章
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07 客人

 (あるじ)の戻ってきた部屋は、静かだった。

 熟練の使用人は、音を立てずに磁器の杯を卓に置いた。ふうわりと、カラン茶の香りが漂う。

 リダール少年は黙ったまま、杯から上る湯気をちらりと眺め、興味がないという様子で視線を逸らした。

「――坊ちゃま」

 ハシンは伯爵の息子を呼んだ。

「ご無事の姿を拝見いたしまして、このハシン、胸の熱くなる思いでございます」

「そう」

 リダールは呟いた。

「心配をかけたね」

「わたくしなどより、ナイシェイア様がどれだけ心痛をお抱えでいらしたか……」

「父上にも、迷惑をかけた。ぼくは、子供じみた考えで家出をしたんだ。ぼくが戻ってきたことに、父上はずいぶん驚いた顔をしていたけれど」

 少年は首をかしげた。

「死んだとでも、お思いだったんだろうか?」

「そのようなことは」

 ハシンは首を振った。

「つい昨日のことです、タイオス殿がいらして、ナイシェイア様とお話をされました。私は詳細を存じ上げませんが、タイオス殿が坊ちゃまをお連れすると、ナイシェイア様はそう思っていらしたようです」

「タイオスか」

 リダールは戦士の名を口にした。

「申し訳なく、思うな。ぼくは彼から逃げた」

 リダールはうつむいた。

「でも……」

 そこで彼は黙った。ハシンは少し待ったが、主人の息子からその続きが発せられる様子はなかった。

「すぐ、風呂の準備が整います」

 沈黙を打ち消すように、使用人は言った。

「ゆったりと疲れを癒して、それからお眠りになるとよろしいかと」

「いいや」

 彼は首を振った。

「疲れた感じは、しないんだ。ただ、確かに、汚れた感じはあるかな。さっきまで着ていた服は」

 リダールは肩をすくめた。

「まるで、土の上に倒れ込んだかのようだったし」

「どちらで、あのような立派な衣服を?」

 ハシンは不思議に思っていたことを尋ねた。

「うん。お風呂は使おう」

 聞こえなかったかのように、リダールは問いかけを無視した。

「でも寝台は調えなくていい。考えることがあるから」

「考えること、と仰いますと」

 使用人は答えられなかった疑問を追及することなく、次の質問をした。

「ちょっとね」

 少年は無視こそしなかったが、答えなかった。

「ところで――彼らは?」

「客室を用意しました。お呼びになりますか」

「風呂のあとで、ぼくが行こう。それまで、もてなしておいて」

「承知いたしました」

 ハシンは頭を下げ、その命令をほかの使用人に伝えるべく、リダールの部屋をあとにした。


 最も困惑していたのは、ナイシェイア・キルヴン伯爵であったやもしれなかった。

 戦士タイオスの話は信じ難かったが、彼はそれを信じた。信じようとした。そこに、息子の帰還である。

 タイオスが自分をからかったのだとも思えないが――そんなことをする理由は全く見当たらない――息子はどこからどう見ても彼の息子である。

 どうしていたのかとの問いにリダールはただ謝罪を繰り返し、子供じみた真似をした、もう二度と家出などはしないと誓った。キルヴンは息子を厳しく問い詰めることができず、無事でよかった、今後は大人の自覚を持って行動するように、などというありきたりの言葉を口にするしかなかった。

(それにしても)

(リダールを説得して帰る意志を引き出したと言うあのふたりは、何者か)

 不審な感じはなかった。ごくごく真っ当で礼儀を心得た街びとと見えた。リダールは感謝している様子であり、伯爵は礼をしようと言ったが、謙虚にも断って帰ろうとした。

 それをリダールが引き留め、せめて一日だけでも滞在を、もっと話をしたいからとすがったのだ。

 結果、キルヴン邸ではいま、素性の知れない男女を丁重にもてなしている。

 悪人には見えない。たとえ謝礼の拒絶が格好だけだったとしても、裏の企みごとがあるのではなく、自尊心がそうさせたのだろうと感じられる。金に困っている様子はない。貧困にあえいでいなくとも、金に汚い品性というのは顔や態度に出るものだとキルヴンは思っているが、彼らにはそれがなかった。

 それに、リダールが懐いている。

 ――タイオスのときと同じように。

(タイオス、タイオスだ)

(俺はあの男を信じた、だが)

(……いったい、どうなっている?)

 ヴォース・タイオスこそが何者かに騙されているのだろうか。だがどうしたら、ロスムの死んだ息子がリダールの身体に取り憑いたなどという幽霊譚を信じるようになるものか。

(こんなとき、サナースがいてくれたら)

 彼は嘆息した。サナース・ジュトンとて、幽霊譚について説明はできなかっただろう。材料もなしに真実を見抜くことだって、無理に決まっている。ただ伯爵は、誰かに相談したかった。それとも、愚痴を言いたかった。どうなっているんだと、困惑をそのまま口にのぼせたかった。

「旦那様」

「ハシンか」

 伯爵は使用人の姿に嘆息した。

「リダールは」

「ご入浴を」

「すまんな、お前にも苦労をかける。足止めもしているな。キルヴンの館でもお前の帰りを待っていることだろうに」

「坊ちゃまを連れずに帰ることなど、できるはずもございません」

 初老の男は真剣に答えた。

「本当にご無事で……よろしゅうございました」

「うむ」

 キルヴンはうなずいた。

「リダールは、お前にならば何か話したか?」

「いえ」

 ハシンは首を振った。

「家出の理由も、どこへ行っていたのかも、あのふたりと会った経緯や、戻ってきた理由も、何も仰いません」

「タイオスのことは」

「逃げて申し訳なかった、とだけ。彼が坊ちゃまを追ったこともご存知なのかどうか」

「ふむ……」

 判らないな、とキルヴンは腕を組んだ。

「客人からもう一度、話を聞こう。呼んでくれ」

「承りました」

 ハシンは頭を下げ、踵を返した。

「――アトラフ殿とミヴェル殿をお呼びして参ります」


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