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墨色の満月―シリンディンの白鷲―  作者: 一枝 唯
第4話 混沌 第3章
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02 刻み込まれる

 シリンドルの騎士は顔を上げ、まっすぐにライサイを見た

「我がシリンドルを知らぬ者に、〈峠〉の神を崇めよなどとは言わぬ。しかし、我が国の守り神を無闇に貶める発言は許さない」

 繰り返し投げつけた言葉はライサイを興がらせたようだった。

「よかろう、ルー=フィン・シリンドラス」

 ソディの宗主は彼の名を呼んだ。

「そうしてシリンディンを信仰するのであれば、我に神の力を見せてみよ」

「生憎と、それは私の役割ではない」

 ルー=フィンは唇を歪めた。

「それこそは神の騎士〈白鷲〉の成すこと」

「しかし、〈白鷲〉はここにいない。彼の代わりに、お前はやってきた。我はこれを定めと呼ぼう」

 そう言ったライサイの手が、動いた。曲げられた腕にローブの袖口が上がり、ほんのわずかに指先がのぞいた。

「あっ」

 その瞬間、少年の声がした。

「何」

 彼は振り返った。

「フェルナー!」

 ルー=フィンは少年を支えようと左手を伸ばした。

 その左手は、厳しく払われた。

 当の、フェルナー少年によって。

「さわるな! 僕は誰も信じない!」

 考えの結果ではなく、反射的としか思えない台詞が出た。ルー=フィンはフェルナーにそれほど感情は抱いておらず、拒絶に傷つくようなこともなかった。

 だがその代わり、剣士の平衡感は、わずかに乱された。

 サアア――と音を立てて風が吹いた。それはルー=フィンの右手の甲を撫で、鋭い痛みを残した。

「つ」

 一瞬だけ、剣から右手が離れかける。

 それは、よく研いだ刃物を皮膚の上に滑らすに似た。

(魔術か)

 大した術ではない。あのときのヨアティアのように、当てられて致命的なものでもない。それどころか、剣を操る者からすれば、怪我とも言い難いような傷。

 ルー=フィンは改めて剣を握る手に力を入れた。まっすぐな傷口はぱっくり開くことになる。肉が風に触れる痛み。

(だが、ごく浅い。何の真似だ?)

 彼はライサイを見上げ、空中に浮かび上がるローブとの距離を測った。近くにいるようでありながら、巧みに、剣士の剣が届かぬ位置にいる。

(それでも、不可能ではない)

 判断すると、彼は地面を踏みしめた。

 地上数ラクトの空中に浮く人物に斬りつけた経験などなく、ローブの中身がどこからあるのかも判然としない。初撃は全くの空振りに終わる可能性もあった。

 だがこれ以上、迷う必要はない。

 大した傷ではなかったとは言え、攻撃を受けた。たまたま外しただけかもしれず、次に何がくるか判ったものではない。反撃は必須だ。

 下段から上段へ、彼はローブを切り裂くように剣を振るった。それと同時に飛び上がり、続けざまに大上段から振り下ろす。

 細剣に向く動きではない。だが、高い位置にいる相手を引きずり下ろさないことには話にならない。

 手応えはなかった。

 魔術師が魔術で逃げ去った、ということではなかった。

 剣士の一閃は目論見通りローブを裂いたが、それだけに終わった。二撃目は、目標としたライサイの左腕と思しき辺りに確かに振るわれたのに、命中することなく空を切ったのだ。

「――これは」

 ルー=フィンは顔をしかめた。打ち損なったことにではない。彼が振るう剣に合わせるかのように、彼の右足、続いて左腕が、先ほどと同程度に切れたことに対してだった。

 大した傷ではない。剣を合わせていれば、想定できる怪我だ。押して戦うことが容易な程度の。

 だがそれは、そう、あくまでも「剣を合わせていれば」。

 剣をかまえていない相手から、どんな浅かろうと刀傷を受けるとは思わない。魔術に対する警戒はしたが、ライサイはヨアティアやアトラフのように、手を大きく動かすようなことをしなかった。

 袖口のなかでは、印を結んでいたものか。それはルー=フィンには見えなかった。見えていたところで対抗手段はないが、何らかの術がくる、という覚悟は決まる。

 それがなかった。いっさい。

 目に見えぬ鋭利な刃物が作った傷は浅くとも、天才剣士に的を逸らさせるだけの力はあった。

(丁寧に、ひとつずつ、返礼か)

(いや――)

 それは何も、一撃に対して一撃、という訳でもなかった。

 若い剣士は無言で右頬を拭った。ぬるりとした感覚が左手に伝わる。それから、触れたことにより、わざわざ傷口を開いてしまった、痛み。

「そう、その辺りがよい」

 魔術師はうなずいた。

「若さのために、迫力がない。顔に残る傷跡は思わぬ効用をもたらそう。他者に見せつけ、自身にも、文字通り、刻み込まれる」

 ずき、ずき、と切り傷がうずいた。

 どれもこれも、大した傷ではない。怪我とも、言えぬほどの――。

「気短な行動への、仕置きだ」

 ぱちん、と魔術師が指を弾けば、再び、顔面に痛みが走った。次は左のこめかみだった。

「もうひとつ」

 左手の甲。細い筆で書いたように、赤い線が増えていく。

(――なぶる、つもりだな)

 外してなどはいない。ライサイが正確に目指すところを切ってきているのは間違いなかった。

 だが、どれもこれも、浅い。痛みはあるものの、彼は剣を握っていられる。何の問題もなく、立ってもいられる。

 ゆっくりと垂れる血はよい感触ではなく、手の甲のそれが内側に回れば剣が滑るだろうが、素早く拭えばいくらかは保つ。

 そう、保つ。

 魔術師は、もっと深く切りつけることができそうなものだ。頬を狙って頬を切ったのであれば、のどを切ることだって。

 だが、そうしていない。彼の剣技を嘲笑うかのように、浅い傷を作っている。

(私には何もできないと、そう思っているのか)

 彼は歯がみした。

 実際、剣の届きにくい空中にゆらゆらとされては、剣士にできることはない。飛び上がってローブの裾を引っ張ってやれば、引きずり下ろせるものだろうか。判らない。見当がつかない。

 ずきずきと、傷口が鼓動する。

(せめて)

(あのフードを引っぺがして、顔を拝んででもやりたいもの)


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