01 医師見習い
わずか半月もない間に、二度に渡って大きな負傷をすれば、さすがの天才剣士も思うように身体を動かせなかった。
と言っても、タイオスの言うようにのんびり療養をする気分にもなれない。
ルー=フィンは、口うるさい医者のいなくなった隙に寝台を下りると、ゆっくりと手足を動かし、身体を屈伸させて、自らの体調を把握しようとした。
「――ああっ!? 何をしてるんですか!」
そうして少ししたときである。扉が開いたかと思うと、悲鳴のような声が飛んできた。
「駄目です、横になっていてください、ルー=フィン様!」
医者のような白衣を身につけた娘が若者のところに走り寄る。
「少し様子を見ていただけだ」
彼は手を振った。
「結論として、日がな一日、横になっている必要はないと判った」
「必要、あります」
娘は衣服のようなものを抱えて、厳しく言った。
「どうして剣を振るう人たちはそうやって、自分を過信するんでしょう。それとも、強がりなのかしら? 無理をすれば格好いいというものでもないのに」
「格好をつけている訳ではない」
ルー=フィンは肩をすくめた。
「ただ、自分の身体のことは」
「自分がいちばんよく判る。ええ、みんな言いますけどね。勘違いです、そんなの」
娘は彼の言葉にかぶせるようにしながら台詞を取ると、神妙な顔つきで首を振った。
「お前は? 医者の助手か?」
「見習いです」
娘は答えた。
「先生はお忙しいので、私が代わりに、ルー=フィン様のお世話を承りました」
「成程。医者はよく判る」
ルー=フィンは呟いた。
「え?」
娘は目をしばたたいた。
「『見習いで充分だ』。つまり、大した怪我ではないと」
「とんでもない」
眉をひそめて、娘は首を振った。
「私は見習いとは言っても、その辺の町医者より腕が確かなんですよ。先生がお休みのときには、代行することもあるんですから」
「なら何故、見習いなんだ」
ルー=フィンはもっともなことを尋ねた。
「年齢です。若すぎて、信が置けないからと」
娘は笑って答えた。
「早く寝台に戻ってください。包帯を替えます」
それから彼女は真面目な顔をすると、ぱしんと手を打ち合わせた。
「さあ、おとなしくなさってください。わがままばかりでは治るものも治りません」
娘はほらほらとルー=フィンを寝台へと追い払う仕草をした。
「わがまま……」
意地だの強がりだのと言われたことはあったが、聞き分けのない子供のように扱われるとは。銀髪の若者は目をしばたたいた。
「わがままでなければ何なのですか? どうしても寝台が嫌ならそこの椅子でもいいです。とにかく座って。診察をします」
きっぱりした調子で彼女は命じ、仕方なく彼は従った。
改めて見てみれば、娘は彼と同年代のようだった。少し下に見えるほどだったが、まさか十代ということもないだろうと彼は考えた。「若すぎて任せられない」にしてもほどがある。
編み上げた薄い茶の髪は健康的に艶やかで、苦労のない暮らしを思わせた。向かい合って座れば、ずいぶんしっかりと化粧をしているようだと判る。派手だと言うほどではないが、医療に携わる者としては珍しかった。病人というのは敏感で、化粧粉の匂いを嫌うことがある。一部の化粧具はある種の薬草と相性が悪いことも、薬草師や医師の常識だ。もちろん特定の組み合わせを避ければよいのだが、患者に危険を招く可能性を高めたい医者も普通はいない。
ルー=フィンはそんなことを知らなかったが、ただ、医療の神の信奉者にしては少し珍しいだろうかとは思った。
「上を脱いでください」
「何?」
「包帯を替えます」
じっと彼の緑眼を見ながら、医師見習いは言った。
「先ほど、使用人が替えたが」
「まあ、使用人が?」
娘は顔をしかめた。
「彼らは上手くないのです。私がやり直してあげますから」
「いや、なかなか手慣れた様子だった」
ラッシンという年嵩の使用人は、以前にそれこそ宮廷医師の助手をやっていたとかで、手早く確かに包帯を巻いた。
「ルー=フィン様」
娘はじろりと彼を見た。
「女で見習いだからと私を馬鹿にしていますか」
「そうではない。ただ、不要だと」
「要不要は私が決めます」
やはりきっぱりと彼女は言って、彼の上衣に手を伸ばした。判った判った、と彼は上を脱ぐ。
「きちんと巻かれているだろう?」
上半身に包帯だけという姿になると、若者は肩をすくめた。
「……ずいぶん、大きな傷を負ったのですね」
神妙な顔つきになって、彼女はそっと包帯に――彼の胸に触れた。
「痛い、ですか」
「いくらかは。だが、調子を見ていたと言った通り。剣を振り回すことは難しいが、起き上がって歩けないとは思わない」
「すごい……立派な身体」
「……鍛えているからな」
「剣士と聞いたけれど、そうは見えなかった。着やせするのね」
「さあ、あまり考えたことはない」
返しながらルー=フィンは戸惑った。
「お前……医者殿」
名前を知らないなと思いながら、彼は中途半端に呼びかけた。娘ははっとした顔を見せる。
「アギーラ。私のことは、アギーラと」
微笑みを浮かべて医師見習いは名乗ると、彼の手を取った。
「ルー=フィン・シリンドラスだ」
何となくその手をすぐに放して、一応、彼も名乗り返した。
「ねえ、ルー=フィン様」
「何だ」
「髪、触っていい?」
「……何?」
「きれいな銀髪……憧れちゃうなあ」
返事を待つことなくアギーラの手は伸びた。
「凄腕の剣士と聞いたわ。若くてきれいで……ねえ、遠い田舎に帰るなんてしないで、ここで暮らしたら?」
「アギーラ?」
何を言っているのかと、彼が顔をしかめたとき、娘は身を乗り出して怪我人に抱きついた。
「な……!?」
「気に入ったわ!」
彼女は朗らかな声を上げた。
「顔だけでも身体だけでも若さだけでも駄目。一点でも突出していれば、ほかは無難でもいいわ。でもあなたは全て、平均以上ね」
「……何の話だ?」
「だから」
アギーラは微笑を浮かべ続けていた。
「お爺様より、私に仕えない?」
「――はい、そこまで」
ぱしん、と娘の手の甲を叩いたのは、木製の杖だった。
「いい加減になさい、アギーラ様。お客人を困らせるんじゃありません」
イズランが厳しい目で、娘を睨んでいた。
「全く、ここはどういう血筋なんでしょうね。王子殿下はご立派でいらっしゃるのに、その父と娘は奔放すぎる。いったいその衣装は、どこから調達したんですか」
「あら、イズラン。見張りなの? ご苦労ね」
アギーラは唇を歪めると、手の上に乗せられたままの木杖をもう片手の指で弾いた。
「……つまり?」
若い剣士が顔をしかめれば、魔術師は自ら謝罪の仕草をしながら、アギーラの頭を押さえて下げさせた。
「うちの姫君がご迷惑をおかけしまして、と」
姫。
ルー=フィンは目をぱちくりとさせた。
王子の、娘。つまりこれは、オルディウスの孫娘か。
「では、医師見習いというのは?」
「嘘八百というのはまさしくこのことで」
イズランは息を吐いた。
「ほら、激しい頭痛に襲われたという名目でルーティル夫人の茶会を欠席した人は、お部屋にいなさい。うろうろするようですと閉じ込めますよ」
「イズランが言うと脅しじゃないから困るわ」
「困るのはこちらです。全く、どうせ陛下に似るのでしたら、もう少し役に立つところが似ればよかったですのに」
「いつもながら失礼ね、宮廷魔術師」
「率直な感想です」
ぱんとイズランは手を叩いた。
「たれか。アギーラ姫をお部屋へ」
やってきた使用人は余計な質問ひとつせず、イズランとアギーラの機嫌をうかがった。と言うのも、宮廷魔術師と王の孫娘とでは、発言権にほとんど差がないからだ。
身分上では、王族たるアギーラの方が上だ。だが現実問題として、イズランの方が影響力を持つ。使用人は魔術師に向かって礼をすると、アギーラを促した。
「仕方ないわね、これからがいいところだったのに」
「アギーラ様」
「判ったわよ、いまは戻るわ」
姫は肩をすくめた。
「またね、ルー=フィン」
陽気にひらひらと振られた手に釣られ、ついルー=フィンは手を上げてしまった。こほん、とイズランは咳払いをした。
「困った姫様でたいへん、申し訳ない。もうここには入らせないようにしますから、忘れていただいてけっこうです」
イズランはぴしゃりと言った。
「調子は、いいようですね」
「神のご加護だ」
姫君については彼もそれ以上触れず、淡々と答えた。