01 私ごときには
ミヴェルの顔色が悪いのは、ジョードに回復の様子が見えないためもあれば、彼女が彼女の――ソディの禁忌を冒してしまったためもあった。
〈月岩の子〉の命令に背いたのだ。宗主の子たる位置にいる、ライサイの次に権力を持つ、〈月岩〉の子に。
それを思うだけでミヴェルは気が遠くなりそうだった。
(何故、こんな真似をしたのか)
(ジョードを助けたかった、それは確かだ)
(おかしなことばかり言う男だが、死んでしまうなどは気の毒だと思ったんだ……)
ミヴェルは自分の判断について考えた。
(それだけだ。本当に、それだけなんだ)
(だが、そうは見えないだろう。イズランというあの魔術師の言った通り、私はソディを)
(ライサイ様を)
(――エククシア様を裏切ったことになる)
黄色と青の両眼が、彼女を蔑んで見つめるだろう。これまでの冷淡さすら、温かく思えるほどに。
そう思うと、ミヴェルの胃は恐怖に縮こまった。或いは、哀しみに胸が痛くなった。
彼女がかの騎士の腕に抱かれることはもうないと、それはもう決まったことだった。だが、女ではなく、手駒としてでも、近くにいることはできた。
それももう、できなくなるのだ。
(あの方は私を殺すだろうか)
(それとも、その価値すらないとお考えだろうか)
自分は何を捨てたのだろう。いったい、何のために。
「こっちはどうだ」
張りのある声が、彼女をびくりとさせた。
それはタイオスがアル・フェイドの城をあとにする少し前のことだった。
「まだ意識を取り戻さぬようだな」
「は……呼吸も、浅く」
魔術師イズランは、斬り落とされたジョードの右腕をつけようと試みたようだが、成功したかどうかは判らなかった。見た目には斬られたことなどなかったように見えるものの、触れれば温度は低く、血の通っている様子が感じられない。
「ときに、女」
「は、はい」
ミヴェルははっとすると、立ち上がった。改めて、深々と礼をする。
「よい、そう堅苦しい態度を取るな」
訪問者はは手を振って彼女を座らせた。
「ジョードとやらの目は、何色かな」
「は……?」
「いや待て。言わずともよい。目を覚ましたときの楽しみとしておこう」
オルディウスはにやりとして片手を上げた。どうしてよいものか、ミヴェルは目をしばたたいた。
この人物が何者であるか、それを彼女はこのときまだ知らなかったが、彼女を救った魔術師イズランがかしずいていたことは理解できた。
救出者の、主。
それがどのような地位についている存在であれ、仮に、地位も何もないのだとしても、ミヴェルが彼に頭を下げる立場にいることは間違いない。
「お前も休むといい。看護には侍女を寄越してやる故」
彼女の隣までやってくると、その肩に手を置いて、オルディウスはそう告げた。
当人には自覚がないが、彼女の顔色もそれはそれは酷いものだった。知らぬ者が見れば、これが伝説に言う動く死体〈蘇り人〉だろうかと思いかねないほど、生気のない。
「私は……」
「愛しい男の傍を離れはしない、か?」
にやりとしてオルディウスは問うた。
「いっ……愛しいなど、それは、誤解です、殿」
ミヴェルが目をぱちくりとさせて主張すれば、オルディウスは笑った。
「十代の娘っ子でもあるまいに、照れ隠しか」
「ジョードは私の……主の指示で私が雇っただけの人物であり、個人的な感情などは、何も」
「やめておけ」
老王は手を振る。
「俺の前で、そのような建て前を口にする必要はない」
「建前などではありません、本当の……」
ミヴェルはなおも抗弁したが、オルディウスは相手にしなかった。
「どうしても離れたくないと言うのであれば、簡易式の寝台を用意させよう。隣で眠るといい」
その提案に、ミヴェルは礼をした。
「ただし」
オルディウスは白い顎髭を撫でた。
「俺の質問につき合ったあとだ。よいな、ミヴェル」
「は……」
何を訊かれるのだろう。ミヴェルには見当もつかなかった。
「まずは、ライサイの目的だ」
その名に彼女は、びくっと身を震わせた。
「案ずるな。あの化け物とて、ここの話に聞き耳を立てられやせん。イズランとラドーという、我が国切っての最強の魔術師ふたりが守りを固めているのだからな」
カヌハの屋敷の前に魔術師が現れたとき、似たようなことを言っていたのをミヴェルは思い出した。結界というものがどのようなものであるかぴんとはこなかったが、そう呼ばれるものの存在は知っていた。
「彼奴はアル・フェイドのみならず、カル・ディアでも子女をさらったようだな。目的は金と見えたが、本当に金か。そのような手段を使ってまで金を集めるのであれば、理由は何だ。異なる目的があるのであれば、それは何か」
「わ、私は、存じ上げません」
ミヴェルは目を伏せて答えた。
「あの方の……お考えなど、私ごときには」
「ならば誰が知る。〈青竜の騎士〉か」
それもまた、ミヴェルの胸を突く呼称であった。
「連中は神秘を集めると、イズランはそうしたことを言っておった。俺にはよく判らん。だが、判らんからと言って放っておける立場でもない。必要とあらばカル・ディアル王やウラーズ王にも親書を送って、警戒に当たらなければならん」
「――カル・ディアル王」
思いも寄らぬ高い地位の話になって、ミヴェルは驚いた。
「あなたは……」
「うん?」
「あなた様は、いったい、どのような方なのですか」
「どのようなと言われてもな」
オルディウスは肩をすくめた。
「アル・フェイルという国で、長いこと王をやっておる」
「お……王陛下!」
ミヴェルは目を見開き、慌てて立ち上がると――椅子ががたんと倒れた――数歩退いて、ひざまずいた。
彼女はソディ一族の誇りを持っており、ソディ以外の者をレダクと呼びならわして見下す習慣に染まって生きてきたが、それでも国王となればソディ一族におけるライサイのようなものである。彼女の一族、殊に〈しるしある者〉のなかには「所詮、レダクの王」と鼻で笑う者もいるものの、ミヴェル自身の場合、地位ある者に恭順を示すのもまた、習慣の一種であった。ましてやいまや、恩人だ。
「そこまでおののかんでもいい。いままで見せていた敬意程度で充分だ」
オルディウスは手を振ったが、顔を伏せたミヴェルは見ていなかった。
「我が国は広大だが、広ければ偉い訳でもない。国土がでかいのは、建国の頃の祖先が偉かっただけだからな。数代前にはオル・アディルに領土をくれてやったくらいであるからして、でかければ偉いのであれば、俺は数代前の父祖より偉くないことになる。うん? 何の話だったかな?」
老王は両腕を組んだ。
「そうそう、イズランを見ろ。あれは俺に敬意を示しながらも、言いたいことを何でも言う男だ。俺はああいうのが好きだ。お前もそうしろ」
そう言われて、はいそうしますと言えるものではない。ミヴェルは平伏したままだった。顔を上げろ、とオルディウスが命じてようやく、それに従う。
「死んだ子供の魂を呼び戻すことが、ライサイの求める神秘なのか? 呼び戻して、どうするのだ。ライサイに何の得がある」
「神秘は……」
ミヴェルは迷った。このことは、ソディでは秘密ではない。誰もが知ることだ。だが他人に気安く話してよいものか。その重要性云々はともかく、他国の王に求められて求められるままに語ることは、ジョードを救いたいと考える比ではなく、裏切りになるまいか。
「そう固くなるな。世間話だと思え」
オルディウスは口の端を上げたが、青い瞳は笑っていなかった。