08 フェルナー
月の光が、冷たく部屋に射し込んでいた。
居心地の悪い沈黙が、辺りを支配した。
「お前……」
ごくり、とタイオスは生唾を飲み込んだ。
「頭、大丈夫か?」
ようやく戦士の口から出てきた台詞は、それだった。少年は顔をしかめる。
「どうだろう」
「何」
「よく、覚えていない。リダール……そう、リダールのいる町に向かっていて」
彼は真剣な顔で考えた。
「山賊が、襲ってきた。御者は必死で逃げたけれど、そのせいで、馬車が崖から――」
「お、おいおい」
「そのあとのことは、よく判らない。僕はもう死ぬと思ったけど、生きていたんだな。お前はもしかしたら、父上の命令で僕を探しに?」
「いや、その、まあ、そうだが」
「そうか。父上とは言い争いをしてしまったが、僕を心配してくださったのか。リダールを驚かせたかったが、帰るべきなんだろうな」
彼は周囲を見た。
「ここは?」
「あー……」
「立派な部屋だ。誰かが僕を助けてくれたのか。御者は?」
「あー……その」
「死んだか。運が悪かったな」
勝手に話を進めると、少年は首を振って追悼の仕草をした。
「こうなっては仕方ない。キルヴン行きは中止だ。帰ろう」
「……帰ることには、何も反対しないんだが」
いったい――少年がどうしてしまったのか。
全く判らない訳でも、なかった。
(フェルナーが、戻ると)
(じゃ、こいつはリダールに見えるが……フェルナー・ロスムなのか?)
六年前に、事故で死んだと言う。
(そんな……)
「馬鹿な」
「何だって。僕が馬鹿だと言いたいのか。失礼な男だな」
少年はむっとした。リダールとは思えない反応だ。
「いったいここはどこなんだ? どなたか、名のある方のお屋敷か。それにしても、夜中のようだが」
「……リダール」
「何を言っているんだ」
少年は苛ついたようだった。
「ここはキルヴン邸ではない。あの館は居心地はよいが、ここまで広い客間はなかった」
「いや、リダールの家だと言ったんじゃないんだが」
うう、とタイオスはうなった。
「……フェルナー」
「気安く呼ぶな。お前は父上の部下なのだろう。ならば、僕にはきちんと敬称をつけるべきだ」
リダールの言葉ではない。どこをどうしたって。
「何なんだ、いったい」
タイオスは額に手を当てた。
(リダールとフェルナーの外見がそっくりだなんて聞いたことがない)
「似ている」という段階ではない。別人だとしたら双生児としか思えない。だが、同じ日に生まれたからと言って両親が違う以上はそんなことのあるはずはなく、万一にも有り得ないほど似ていたのならば、ハシン辺りが彼にそう告げたはずだ。
(絶対に、これは、リダールだ)
(となると……)
戦士は考えた。
もしや何らかの魔術で、リダールは「自分はフェルナーである」と思わされているのではないか。
タイオスはかつて、ある魔術師が、山賊に家族を殺され、輪姦された少女の記憶を作り替えてしまうのを見たことがある。協会の指針ではあまりよいこととされないが、必要とされる場合もある、などと言っていた。
そんなふうに、魔術でどうにかされているのでは、と。
「おい、しっかりしろ」
タイオスは少年の両肩を掴んで揺さぶった。
「思い出せ、自分のことを」
「何を言っているんだ!」
少年はタイオスの手を押しのけた。
そこで、戦士は驚く。
(リダールには、こんなことはできない)
訓練用の木剣すら持ち上げられない、非力な子供なのだ。
もっとも、記憶を作り替えたって腕力はつかない。いや、同じ細腕に見える以上、筋肉が増えた訳でもないだろう。
だが目前の少年は、リダールが知らぬ力の使い方を知っている。それは「経験」だ。「記憶」でどうにかなることではない。
そうと気づいた戦士は、薄ら寒くなる思いがした。
「それじゃ、リダールは、どこに行っちまったんだ?」
彼はそんなことを呟いた。
「何? お前は僕ではなく、リダールを探しているのか?」
「ああ、ええと、どう答えりゃいいんだよ、それには」
戦士は頭が混乱しそうだった。
リダールだ。どう見たって、これはリダール・キルヴン少年だ。
だが同時に、断じて違う。これが演技なら、リダールは伯爵ではなく役者になるべきだ。
人は、知る相手を見たときと見知らぬ相手を見たときとで、表情に、隠しきれない絶対的な差が出る。
目前の少年はヴォース・タイオスを知らない。タイオスはそのことに、彼の愛用の剣と〈白鷲〉の護符を賭けてもよかった。
「フェルナー」
仕方なく――実に仕方なく、タイオスは彼をそう呼んだ。
「様、とつけろ」
「つけるか! このクソガキが!」
「何を」
「鏡を見ろ! ええい、ないな。立て、窓辺に立って、硝子でも覗き込め。お前も混乱しろ!」
「何をする、放せ、この乱暴者が。誰か、いないのか、誰か――」
喚き散らしかけた少年は、無理矢理に窓の前に立たされて、そこで口をぽかんと開けた。
「な、何……」
「ほら見ろ」
「え……」
彼は硝子に触れた。硝子の向こうのリダールも、同じようにする。
「これは、誰だ? リダールに……似ている。だが、もっと年上のような……」
「六年」
苦々しく、タイオスは言った。
「フェルナー・ロスムが死んでから、六年経っている。お前は、十八のリダールの身体のなかにいるんだよ」
タイオス自身、納得できない。だが、そうとしか思えない。
「何を……訳の判らないことを」
「俺だって判ってる訳じゃない」
納得もしない、と彼は声に出した。
「ええい、どうすりゃいいんだ、俺は!? こんなのを連れて帰っても、混乱を招くだけじゃないか」
「リダール……六年? 十八? 僕が……死んだって?」
「あー……」
軽率だったかな、とタイオスは頭をかいた。
「――死んだ友人が」
三つ目の声がした。どこか金属的な響きを思わせる、聞き覚えのない、高い声。
「帰ってくると聞いて、リダール・キルヴンは自身の身体を提供した。フェルナー・ロスムよ、その身体はもはやお前のものだ。父親のもとに帰るといい」
「誰だ!」
タイオスはとっさにリダール、それともフェルナーをかばって、少年の前に立った。
暗い。月明かりの届かぬ、部屋の反対側に、誰かがいる。
「エククシア、じゃねえな。ヨアティアでも。それなら……」
誰なのか。
カヌハには、それなりに大勢の人数が暮らしているはずだ。タイオスが知るのはエククシア、ミヴェル、ヨアティアまで入れても、それだけ。判るはずはなかった。
だがもしやとも、思った。
ライサイ。
そこにいるのは、ソディの宗主なのでは、と。
戦士の全身に緊張が走った。