07 危険な物言い
残されたのは、ひとりの女だった。
風に、血の臭いがする。
ミヴェルは蒼白になりながら、震える自身を叱咤した。
(後処理)
(エククシア様は、後処理をと)
騎士が彼女に何を求めたか、ミヴェルには判っていた。気を失った若い剣士と盗賊にとどめを刺せと、そういうことだ。
「ジョード」
彼女は盗賊のもとに駆け寄った。その名を呼べば、自分の足のみならず、声まで震えていることに気づいた。
「どうしてこんな、愚かな真似を」
このままにすれば、死ぬだろう。既に盗賊は多量の血を流している。放っておけば、大して時間もかかるまい。
「ジョード」
震える声は、意識を朦朧とさせた男に、かすかに届いたようだった。
「ミ、ヴェル……なのか」
「ジョード」
彼女は言葉を覚えはじめたばかりの赤子のように、ただひとつの名前を繰り返した。
「ジョード、ジョード、ジョード――」
「助け……たかっ……おれ、お前、を」
「死ぬな!」
ミヴェルは、気づけば叫んでいた。
「死ぬな、ジョード! こんな……こんなところで、意味もなく!」
「へへ……案外、マキラーラも情け深いもんだ。惚れた女の腕のなかで、逝かせてくれる、なんざ」
盗賊はそんなふうに言って笑った。だが彼の声は彼の思うようには言葉になっておらず、ミヴェルは苦しげな吐息だけを聞いた。
「ああ……!」
女の頬が涙に濡れた。
「助けて、助けてくれ、誰か!」
誰も、助けてなどくれるはずがない。
「どうか、誰か……神でも悪魔でも、何でもいい」
それは、彼女が初めて口にした、「ソディのため」以外の祈りだった。
「ジョードが死なずに済めば、私は何でもする!」
ぐったりとなった男を抱きしめて、女は叫んだ。
「何でも、というのはいささか危険な物言いですよ」
突然の声に、ミヴェルは身体をびくりとさせた。
「言霊は、いつでも人の言葉に耳を傾けていますからね。私がやろうと思えば、いまの言葉であなたを一生、縛れます。まあ、やりませんがね」
「お、お前は……」
ミヴェルは目を見開いた。
「何、落ち着いて観察すれば、もう血は出ていないことがお判りになるかと。まあ、あれです。危ないところであることは変わらないんですが」
黒ローブ姿の男は、肩をすくめた。
「ま、魔術師」
彼女は生唾を飲み込んだ。
「た、助けてくれるのか、ジョードを」
「血は止めました。あとは彼の生命力次第。腕も持っていきましょうか。巧くすれば、くっつきます」
魔術師が指で招くようにすれば、斬り離されたジョードの片腕は宙に浮かび、慣れた鳥のように飛んできて、魔術師の片手に収まった。
「これも縁だ。できる限りのことはしましょう。あなたと、それから」
彼はちらりと、離れた場所を見た。
「ルー=フィン殿のことも」
「何を……言っているんだ?」
「早くここから逃れましょう、と。結界を張りましたし、いくらかの偽装もしていますが、魔術の痕跡というのは完全には隠せない。私は、関わっていると知られるとあまりいいことがないんですよ。その辺りはあなたには関係ないことですけど、とにかく早くあなたも」
「私? 私は……」
「どうしました。ジョード殿を助けたいのでしょう。それは、騎士殿や宗主殿への裏切りだ」
裏切り。その強い一語に、ミヴェルはびくっとした。
「そのような、つもりは」
「なくても、彼らはそう判断します。当然ですね。あなたは私と一緒にくるしかない。さあ」
魔術師は手を差し伸べた。ミヴェルはその手を見つめ、首を振った。
「私は、行けない。どうか、ジョードを頼む」
「殺されますよ」
「――逃げれば、間違いなく裏切りだ。私は、ソディを裏切るつもりなど、ないのだ」
「じゃあこう言いましょう」
男は肩をすくめた。
「ジョード殿が生き延びるには、あなたの力が必要です。彼はあなたを想って、ここまできたのですからね。そういう力は、強いんですよ。あなたが彼をラファランから取り戻さないと」
「だ、だが」
「ジョード殿を見捨てるか、救うか。ふたつにひとつです」
早く、と魔術師は促した。ミヴェルは、身を切られる思いだった。
「――助けたい」
知らず、その台詞が彼女の口から出ていた。
「決まりです」
魔術師は指を弾いた。
「一度に三人はさすがにきついですが、ふたりは意識もないことですし、どうにかなるでしょう。私の手を取って」
「ま、待ってくれ」
ミヴェルは制止し、魔術師は片眉を上げた。
「まだ、何かあるんですか」
「タイオスが……」
躊躇いがちに、彼女は言った。
「ひとりの戦士が、館のなかにいる。彼らの、仲間だ」
彼女は迷った。だが、続けた。
「た、助けるのであれば、どうか、彼も」
「タイオス殿は平気です」
さらりと魔術師は答えた。
「〈峠〉の神の力について、私はよく知っている。いえ、そんなによくは知りませんが、タイオス殿よりも理解は深いと思いますね」
その意味は、ミヴェルには通じなかった。戸惑う彼女の手を魔術師は半ば強引に取った。
「いいですか、呼吸を整えて。吸って、吐いて、吸って……」
知らず、ミヴェルは言われるままにしていた。それでいいです、と魔術師が呟いた瞬間、彼女とふたりの男は、魔術師の術に覆われた。