10 やってみたい
ジョードがどの程度信頼に値するか確かめる、などと言ったのは仮面の男だった。
いくつか仕事をさせ、その様子で雇うかどうか判断すると言うのだ。
ミヴェルはそれでかまわなかった。たまたま見かけた幾人かのひとりだというだけで、厳選した訳でもない。彼女の判断が危ぶまれているなどと反感を持つことはなかった。
ジョード自身はいくらか不満を言ったが、仮面の男には気圧されたと見えて、苦情の相手はミヴェルだった。彼女は、雇用の前に能力を確認するのは別に普通のことだろうと諭した。
「だいたい何なんだ、あの仮面は」
納得いかないように、ぶつぶつとジョードは言った。
「あの奥にゃ、ふた目と見られん醜い顔でもあるってか」
「私は知らない」
ミヴェルは本当のことを言った。
「ただ、顔を見せられぬ事情があると聞いている」
「そりゃそうだ」
細身の盗賊は鼻を鳴らした。
「事情があるから、隠すんだろうよ。あんなもんを着けるのが趣味だなんて奴は、まあ、世界は広いからひとりかふたりくらいはいるかもしれんが、普通はいない」
「それは冗談なのか?」
ミヴェルは片眉を上げた。ジョードは肩をすくめた。
「冗談と言えば冗談だが、本気と言えば本気だ」
「……お前の言うことはよく判らない」
「そりゃ俺の台詞」
「何?」
彼女は心外だと感じた。
「私の言うことの、何が判らない」
「それが判らないんじゃ話にならんよ」
ジョードは話を打ち切ろうと手を振って、懐から何かを取り出すと口にくわえた。
「……何だ、それは」
「何って、瓏草」
紙巻きの一本を口先で揺らしながら、ジョードは答えた。
「あんたも飲る?」
「聞いたことはあったが、見たのは初めてだ」
ミヴェルが言えば、ジョードはぶっと吹き出した。瓏草が飛んで、床に落ちる。
「どんな暮らしを送ればそうなるんだ」
もったいない、とそれを拾い上げながらジョードは言った。
「どうもこうも……私の周りでは、それを……やると言うのか? やる者はいなかったから」
「飲むと言ったり吸うと言ったりするがな。ふむ」
ジョードは戸惑ったようだった。
「……飲る?」
もう一度、ジョードは問うた。
「やるとどうなる?」
ミヴェルは問い返した。
「いや、どうもこうも」
盗賊は苦笑いを浮かべた。
「咳き込む」
「は?」
「最初はな。煙を吸う訳だから」
「意味が判らない」
「〈千の伝聞より一度の目撃〉だな」
ジョードは燐寸を取り出して、煙草に火を付けた。ミヴェルは目をしばたたく。男は笑った。
「こんなことで驚くなんて、面白いなあ、あんた」
「火を付けて煙を出すのか。香を焚くのに似ているようだな」
正直な感想を述べれば、ますますジョードは笑った。
「興味があるなら試しに……と、やめとくか」
もう一本を差し出しかけた彼は、しかしすぐに引っ込めた。
「女は赤んぼ、産むからな。聞きかじりだが、煙はあんまり、よくないらしい」
「よくない、とは」
「ん? よく知らん」
無責任に盗賊は言い放った。
「俺は赤んぼなんか産まないからな」
「――私もだ」
「何?」
「いや」
何でもないとミヴェルは呟いた。
「くれ」
「あ?」
「カァジだ」
「あー、よくないって言ってんのに、試すのか?」
「子供を産むのによくないと言われることをやってみたい」
「……意味が判らんが」
今度はジョードがそう言った。
「ま、試したいならやるよ。ほら」
細い紙巻きを受け取ったミヴェルは、おそるおそるといった体で、ゆっくりとジョードを真似た。
初めての煙はとても苦く、案の定、ミヴェルは苦しそうに咳込んだ。
「大丈夫か? 無理はしなくても……お、おい」
ジョードは焦った顔をした。
「大丈夫だ」
ミヴェルは手を振った。
「これは、煙の、せいだ」
涙が浮かんだのは煙草のためだと、そう言った。
ジョードは試験を何なくこなした。
もっとも、そう大げさなものでもない。伝言を正確に伝えるだとか、約束の時刻に約束の場所にいるだとか、そうした基本的なことだ。
あとは、貴族の子女の動向を観察するという仕事も与えた。隠密行動の技能を見るのだ、と言っておいた。
それらをさらう、という計画については、まだ話していなかった。使えない男と判れば無論、計画を知られている訳にいかないからだ。
そしていざ貴族の子女をさらって金をゆする――などという話を聞いたとき、さすがにジョードは怯んだ。
「お、おいおい。まじかよ」
「断る、か?」
そうであれば残念だとミヴェルは思った。仮面かエククシアか、どちらにせよ、ジョードを殺すだろう。
「あー、いや、まだ死にたかねえな」
男は息を吐いた。
「ここで抜けますと言って、にこにこ見送ってくれるたあ、思わんよ」
「では」
「やります、やりましょ、何でもね」
盗賊はひらひらと手を振った。
「報酬は魅力だし……あんたも」
「私が、何だ」
「いいや」
にやにやと盗賊は笑った。
「まあ、こうなったら何でもやるとも。その代わり、頼むからな」
「報酬か?」
ミヴェルは確認するように言った。
「そのことなら、無論だ。危険に挑む勇気は買う。失敗しなければということになるが」
「失敗して金もらおうとは思わん。ただ、あれだ」
「どれだ」
「成功失敗如何に関わらず。ことが済んだら、金で雇った盗賊なんぞは始末……なんてのは、やめてくれよ、まじで」
もしもミヴェルが――と言うよりもエククシアがそうと定めていれば、ジョードの発言は彼女を困らせただろう。だが幸いにして、そうした指示はなかった。彼女はただ、実行に関わればジョードも町憲兵隊に密告などできないし、いちいち殺害する理由もないだろうと考えた。
「そんなつもりであれば、もっと法外な報酬で気を引く」
彼女はそうとだけ言った。払うつもりがなければ、金貨何百枚と言ったっていい。あまりに現実味がなくても信頼されないだろうが。
「一回につき、経費別で五百ラルだって、充分破格だと思うがね。まあ、犯罪だしな」
気軽な調子でジョードは言った。
「なあ、頼むから」
「お前が有り得ないほどのへまをしなければ、お前の殺害などは考えない。これでいいか」
「有り得ないほどのへまをしたら、処刑?」
「それくらいの緊張感はあった方がいいだろう」
「緊張感、ねえ」
ほしくないなあと盗賊は呟いた。
それからしばらく、計画は順調に続いた。普段、置き引きやかっぱらいを繰り返しているジョードは、何気ない様子で他人に近寄り、隙をうかがうことに慣れていた。人前で、ミヴェルがはらはらするくらい標的に近寄っては、「あのお嬢さんは明日もおでかけだとさ」などと話を小耳に挟んできた。
あとを尾ける手管も悪くなく、むしろミヴェルが教わった。ジョードはカァジを教えたのと同じように、「覚えて得する訳じゃないが」などと言いながら犯罪のコツについて話した。
「――楽しそうにしているな、ミヴェル」
「エククシア様」
不意に訪れた〈青竜の騎士〉にミヴェルは飛び上がらんばかりとなり、椅子から立ち上がると深く頭を下げた。
「順調だな」
「は、はい、努めております」
それは数件の誘拐と金の授受を無事に終えたあとのことだった。貴族たちが警戒してきたので、少し様子を見ようと彼女らがおとなしくしていた間だ。
「お前はよくやっている」
「エククシア様……」
全身がかあっと熱くなった。騎士が認めるようなことを口にしたのは初めてだった。繰り返された夜の間にも、〈月岩の子〉からはただの一度も、余所では春女ですら耳にする優しく甘い言葉を聞かなかった。
女としても、ソディとしても、〈しるしある者〉としても、何も。
「光栄に……光栄にございます!」
「顔を上げよ」
「は……」
「こい」
不意にエククシアは言った。
「はっ」
ミヴェルはもう一度、了承の意味で頭を下げた。
どこへとも何をしにとも訊かなかった。必要のないことだ。
たとえエククシアが突然剣を抜いて、この場で死ねと言ったとしても、彼女は理由も聞かずに従うだろう。その覚悟でいた。
もちろんと言おうか、騎士が彼女に死を迫ることはなかった。
その代わり、ミヴェルはそうされるよりも戸惑うことになった。
「あの……?」
それはずいぶんと明るい店だった。蝋燭などは灯していなかったが、採光と配色に気を使っていると見えて、カヌハの塗料を塗ったかのようにまばゆかった。
「ここは……」
「ただの、食事処だ」
小ぎれいなお仕着せをきた若い男女の給仕たち。客層も若い女性が多く、みんな楽しそうに笑っている。
(これは……何だろう)
息の詰まる感じがあった。
(何だか、とてつもない遠くへやってきたような気がする)
彼女は、友人と語ったり、笑い合うような機会のない少女時代を過ごしてきた。
〈しるしある者〉として隔離された生活を送り、憧れのとは言え、定められたひとりの男に愛情なく抱かれ続ける思春期を送った。
(あの娘たちは、何が楽しくて、あんなに笑っているのだろう?)
(いったい……どんな暮らしを)
「ミヴェル」
「は、はいっ」
女ははっとなった。
「そこへ」
示されたのはひとつの席だった。
「あ、あの」
自分が先に腰を下ろすなど考えられず、ミヴェルは立ち尽くした。エククシアは彼女の様子に気付くのか気付かないのか、彼女を待つことなく座り、ほっとして女も倣った。