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墨色の満月―シリンディンの白鷲―  作者: 一枝 唯
第3話 異国 第2章
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02 落ちこぼれ

 月が、満ちる。

 女は窓辺で、ぼんやりと夜空を見ていた。

 生と死。

(……生きるとは何なのか)

(死ぬとは)

 何も彼女は、哲学的な命題を考え込んでいた訳ではない。ただ人は生まれ、そして生きて、やがて死ぬ。その事実に改めて、驚かされていただけだった。

 彼女も、生まれた。そして生きている。やがて、死ぬだろう。

 あれはもう遠い日。

 その日も、月は黙って、彼らを見ていた。

 彼女自身は、その日のことを何も知らない。

 それは、およそ二十五年ほど前のこと。

「――でかしたぞ!」

 男は大声を張り上げて、部屋に入ってきた。寝台に身を起こした女は、びっくりした顔をする。

「あなた……」

「やったな! はは、よくやった、お前!」

 男は女を抱き締めると、顔中に口づけた。

「あなた……聞いてほしいことがあるの」

「ああ、何でも聞いてやる! 欲しいものがあるのか? そうだ、軽くて暖かい織物を欲しがってたな。何枚でも買ってやるぞ」

 すっかりはしゃいだ様子の夫に、妻は表情を曇らせた。

「そうじゃないの。聞いて。あなたがそんなふうに、赤ちゃんの誕生を喜んでくれて嬉しいわ。でも……」

「聞いたとも!」

 男は目を輝かせた。

「だから、でかしたと言っているんだ。〈しるしある者〉を産むなんて、お前は最高の女房だ!」

「え……」

 妻は呆然とした。

「知って、いたの?」

「ああ、産婆から聞いた。もういまごろは、『館』に報告が――」

「駄目!」

 女は叫んだ。男は目をしばたたいた。

「とめて! 報告をさせないで!」

「お前、何を言ってる?」

 そのときにはもう、ふたりの間には温度差があった。

「連れて行かれてしまう。私たちの赤ちゃんなのよ! なのに、ほんの小さなしるしがあっただけで、引き離されてしまうのよ!」

「お前……」

「お願い、あなた。あの子を守って。連れて行かせないで。お願いよ」

「気でも狂ったのか?」

 男は、妻を突き放した。

「〈しるしある者〉を産むことがどんな栄誉か、判ってるだろう? 祝いという名で褒美はたんともらえるし、ライトリの販売権も回してもらえる。あと五年は、これまでみたいに働かなくても自由な暮らしが送れるんだ」

「五年。そうよ、五年。たった五年のために、私たちの赤ちゃんを売るの? 嫌よ、私の子なのよ、私が産んだの!」

「おい、落ち着けよ。お前、自分が何を言ってるか、判ってないんだ」

 男は冷めた瞳で、女に告げた。母は首を振ると、ふらふらと寝台から降りた。

「おい……何をする気だ」

 ぎくりとして、男は問うた。

「守るのよ、私の子を」

 彼女は枕元の棚に置かれていた小刀を握った。

「小さな、しるしだもの。これで、削ってしまえば判らない」

「ば、馬鹿なことを言うな!」

 男は慌てて、女を捕まえた。

「〈しるしある者〉を傷つけるのか? だいたい、赤ん坊なんだぞ! そんなもんで皮膚を削ったりしたら、それだけで死ぬかも」

「放してちょうだい! それしかないのよ!」

「馬鹿野郎! 誰か、きてくれ、女房がイカレた!」

「放して! 私はあの子を守るの、守るのよ――」

 取り乱した女は、やがてやってきた複数の男たちに取り押さえられ、薬を飲まされ、どこかへ連れて行かれた。

 それから夫のもとに妻が帰ってくることはなかった。

 だが彼は、妻の行方を問い質さなかった。

 充分すぎるほどの褒賞金が、彼の妻子への愛を消してしまった。


 生まれた娘はミヴェルと名付けられ、両親の顔を知ることもなく、カヌハの中心地たる「館」で育った。

 肩に数ファインほどの、小さなしるし。それだけが彼女の支えだった。

 マールギアヌの北方、ウラーズ国の一角にある小さな村カヌハ。そこに生きる、ソディ一族。彼らは伝説の魔術師の末裔ライサイを宗主に、穏やかな暮らしを送っていた。

 身体のどこかに、「しるし」――銀色の鱗のようなものを持って生まれる赤子は、三、四年にひとりいるかどうかというところだった。

 しるしはさまざまな場所にさまざまな形で生じた。片腕全体であったり、両頬であったり、背の全面であったり、いろいろだ。

 ミヴェルのしるしは、肩にほんの少し。ほかの誰よりも、比べなくても判るほど、小さかった。

 それでも彼女は、しるしある者だ。

 「館」で英才教育を受け、数々のことを学んだ。

 彼女はそれらを無難にこなしたが、それだけだった。

 ガンドのような怪力もなければ、スラスのように天才的な射手でもない。ウルハのように新しい色も作り出せなければ、パンファのように魔術書を読むこともできなかった。

 落ちこぼれ。

 ミヴェルにはしるしがあるだけで、ほかには何もなかった。

 いつかはきっと、この名誉に相応しいだけの能力が開花するはずだと、彼女は何にでも果敢に挑んだ。だがことごとく、ぱっとしなかった。

 かろうじて彼女がほかの〈しるしある者〉より秀でていることは、茶の淹れ方くらいだった。何も、とても上手でほかの誰が淹れるより美味いものができると言うのでもなく、失敗をしないという程度だ。〈しるしある者〉は普通、自分で茶など淹れないから、彼女より上手な者がいても判らないだけだったかもしれない。

 剣も習い、ある程度は身につけたが、所詮は女だ。「女にしてはできる」程度では、何もソディのためにならなかった。

 ミヴェルは、しるしある、落ちこぼれだった。


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