01 何も知らないままで
月が、満ちる。
女神ヴィリア・ルーは、遥かずっと昔から同じことを繰り返している。
ある神話では彼女は、戦神でもある兄神、勇猛なる太陽神リィキアの傍らに控え、時に先陣を切り時にしんがりを守り、戦を勝利に導く力強い女神として描かれる。
またある神話では、愛してはならぬ兄神を愛し、その罪に苛まれて姿が見えなくなるほどやせ細ったという、恋の虜として。
清純な印象を残す神話もあれば、月傘の女神「復讐の」エリリット・ルーと同一であるとする物語もある。まさしく月は、その満ち欠けによって姿を変えるように、さまざまな伝承を持っていた。
ただ、どの神話にも共通している顔がある。
彼女は決して、自分の意志を曲げない。
それが幸せを招くこともあれば、不幸にしかならないときもある。
強固な意志は美徳であることもあれば単なる頑固の証でもあり、女神は語り手の目的如何で、どんな姿をも見せた。
(今夜の月は――)
(何を思って、下界を見るのか)
月の光は照らす。ソディ一族の暮らす、カヌハの地を。
(不思議だな)
空を見上げて、少年はまばゆさに目を細めた。
(いざとなったら、きっとぼくは怖がって、泣いたりしてしまうんじゃないかと思った)
(でも、落ち着いてる)
騎士に連れられてゆるやかな坂を登りながら、リダールは考えていた。
(どうすればいいのかな。エククシア殿は何も教えてくれなかった)
(ぼくが何かする必要はないのかな)
(物語師の話に出てくる「生け贄」は、裸にされて手足を縛られたりとかするけど)
(……裸はちょっと嫌だな)
どこか的を外したことを思いながら、リダールはただ歩いた。
「疲れたか」
エククシアが尋ねた。
「ううん、大丈夫です」
リダールはにこやかに答えた。
「あの、エククシア殿」
名を呼べば、〈青竜の騎士〉は足を止めて、左右色の違う瞳を少年に向けた。
(ああ、やっぱり騎士殿は、格好いいな)
タイオスが聞けば思わずリダールをはたきそうなことを考えながら、彼は続けた。
「ぼくはどうすればいいんですか」
念のためとばかりに少年は尋ねてみた。エククシアはじっと彼を見て、それからまた歩き出した。
「あ、エククシア殿」
慌ててリダールは続いた。
「つまり、何をすればいいんですかっていうことなんですけど。特に何もないってことですか」
「無い」
「判りました」
簡素な返答に、リダールは素直にうなずいた。
「あの」
「何だ」
今度はエククシアは、足を止めなかった。
「――今夜、フェルナーが帰ってくるってことで、いいんですよね」
「そうだ」
騎士はやはり、簡潔に答えた。リダールは胸をなで下ろした。
「よかった」
「『よかった』?」
「だって、早い方がいいから」
少年が呟くと、エククシアは振り返った。
「……あの、何か?」
「いや」
何でもないと騎士は言った。
「もうすぐだ」
「はい」
実に素直にうなずいて、少年は両足を動かした。
(フェルナー)
(もう一度会いたかったけど、それは叶わないんだな……)
自分が死んで、彼が帰る。残念だが、仕方ない。リダールはフェルナーの六年間を奪ったのだ。わがままを言える立場ではない。
などと彼が考えるのは、やはり的外れもいいところだった。友人の死は、リダールの責任ではない。敢えて誰かの責任とするのであれば、ロスム家の馬車を襲った賊が第一で、あとは護衛もろくにつけずに町を飛び出したフェルナー少年自身か、それを諫めずに主の子息の言いなりになった御者か、息子を管理しきれなかったロスムか、無理矢理に広げてみてもその辺りまでであろう。
リダールに責任などない。ほんの、ひとかけらたりとも。
だがリダール自身は、そうは思わなかった。自分のせいだと感じ続けた。
六年間。
あの日――。
久しぶりにカル・ディアを訪れ、登城して、友人の姿を探した。あの頃はいまほどには同年代の子供たちが苦手ではなく、気軽に尋ねた。フェルナーはきていないのかと。
そこで、知ったのだ。友人の死のこと。
目の前が真っ暗になった。どうしてそんな酷い嘘をつくのかと思った。だがロスム家が喪に服していると聞かされ、こっそり館を遠くから見て、それが事実だったと知った。
(――父上!)
彼は必死で家まで走って、執務中の父親を訪れた。
「父上! 本当ですか! フェルナーが」
「リダール」
そのとき、父がとても困った顔をしたのを覚えている。
「聞いたのか」
それは、肯定だった。
「どうして……」
少年は呆然とした。
「どうして、ぼくに教えてくれなかったんです! ぼく、ぼくは、何も知らないままで」
「お前が登城する前に話をしようと思っていた。だが、カル・ディアに着くなり、私に挨拶をするより先に、行ってしまったようだったからな」
「そうじゃありません。今日の話じゃない。どうして……」
彼の父キルヴン伯爵は、前からそれを知っていたはずだった。
「ぼく……何も知らずに、フェルナーに手紙を書きました」
「ハシンから聞いた」
キルヴンは息を吐いた。
「届ける訳にいかないと、彼が持ったままのようだ」
その返事は、少年には衝撃的だった。
「ハシンも知っていたんですか!? どうしてぼくに何も」
「私が、言うなと命じたからだ」
「どうしてです!」
彼は繰り返した。
「知れば、お前は葬儀に出るとか、墓参りをするとか、言っただろう」
「言ったに決まっています」
少年は泣きそうな顔をした。
「ぼくは、フェルナーの、そ、葬儀にも、出られなかったんだ」
「葬儀」などという言葉を口にするのが嫌だった。
「出す訳にはいかなかった」
伯爵の答えに、息子は納得がいかなかった。
「どうして……」
「あとで話をしよう。お前が落ち着いてから」
キルヴンはそう言って少年を追い出し、リダールは部屋で長い時間、泣いた。
しばらくしてからハシンが茶を持ってくると、黙っていたことを詫びた。父の命令だったのなら仕方ないと少年は使用人を許し、父が話してくれるのを待った。
それから、聞いたのだ。リダールを訪れる途中で、フェルナーが事故に遭ったのだという話を。
ロスム伯爵の感情を考慮すると、リダールにフェルナーの追悼をさせる訳にはいかなかったのだと父親は真摯に説明した。キルヴンはそこまで語らなかったが、彼の案じたことには、ロスムがリダールにどんな言葉を投げつけるか判らなかったということもあった。
その代わり彼は、キルヴン伯爵夫人、つまり彼の妻にしてリダールの母が、息子に知らせたくないと言ったことなどを話した。
「どうせいずれは知れることと思ったが、彼女はお前が泣くのを見たくなかったようだ」
キルヴンとしてはリダールに告げた上で、ロスム邸を訪れることは避けるように話すつもりだったらしかった。だが、妻が納得してからと思う内に、時間が過ぎてしまったのだと。
「先延ばしにして、問題が解決する訳でもないのにな。すまなかった、リダール」
「……いえ」
泣きはらした瞳をして、少年は首を振った。
「父上は、悪くありません。ぼくが……」
彼は呟いた。
「ぼくが、悪かった、です」
そのときの彼の言葉は、取り乱して申し訳なかったという謝罪に聞こえただろう。父は、息子がずいぶん大人になったものだと感心したかもしれない。
だがそうではなかった。リダールは、思ったのだ。
自分が悪かったのだ、と。
どうして、フェルナーは死んだのか。
リダールを訪れようと、したからだ。
それが、子供が短絡的に出した答えだった。
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。六年間、ずっと。
(ごめんね、フェルナー。六年間も)
(でもこれから、ぼくの分も)
(――生きて)
青白い月が、真円に少しだけ足りない姿で、天空に浮かんでいた。