そんなの知らなかったの。
両耳に黒の宝玉が嵌ったという報告書に、これで一安心かと皇太子は安堵の溜息をついた。
世継ぎとして生まれた私の、数少ない対等な友人。その妹君の結婚式に参列したのは、つい先日のことだった。真偽不明な噂が飛び交う渦中の人物を確かめたいと気軽に参加したのだが――ーまったくの無駄足であった。
そもそも相手の女性に近づけなかった。
彼女は基本的に、辺境伯家の当主と次期当主の間か、黒の一族に取り巻かれており、並みの身分では近づけない状態であった。まあ、これでも皇太子なので身分フィルターはどうにかできたのだ。しかし、問題は彼女を懐に隠した次期当主だった。
この次期当主こそが私の長年の友人である。友人であるがゆえに、目が合った瞬間に分かってしまった。本気で近づくなと威嚇されているということに。
怒らせたら怖いタイプの友人と仲違いをするリスクと、彼女と知り合うメリットを天秤に乗せ、勝ったのは男の友情だったという訳だ。いつ死ぬかわからぬご時世なのだ。心残りは少なくするというのが、皇太子のモットーだった。
だから、まぁ、よかったのだ。
黒の一族が庇護者に与える宝玉を、お相手が嵌めたということは、そういうことなのだろう。
次は友人本人の結婚式に招待されるかな、と皇太子は鼻歌交じりに次の報告書を持ち上げた。
夜の寝室に二人分の話し声が響く。寝具に横たわりながら通信具越しに愛息子レオンと話していた時だった。耳につけた通信具のおかげで、前世の携帯電話ぐらいの気軽さでレオンと連絡がとれるようになったのだ。勿論、戦闘の邪魔にならない範囲で、だが。
「母さんとルイス様って恋仲なの」
眠そうな声でレオンに尋ねられた。絶句した後で、違うわよ、と否定する。
―――次期辺境伯当主と平民なんて住む世界が違い過ぎてありえないでしょう。
いきなり何を言い出すのかと思った。今、全く違う話をしていたと思うのだが。なんの話だったか。
―――ああ、そうだ。通信具を耳に入れるために、疑似回路をルイス様に入れてもらった時の、あの激痛の話だったか。
天才型のレオンは、しばしば思考が常人には理解できない方向に飛ぶ。今回もきっとそうなのだろう。どうしてそう思うの、と尋ねた。
「だって、魔法回路を専門の神官でもない一般人に刻ませたんでしょ。それって普通、恋人とか親子とか、よっぽど親しい相手だけだよ。愛情表現の一種なんだから」
お、お母さん、それ、初耳だなー。分かりやすく教えてくれないかな、と震える声でレオンにお願いしたら、とんでもない事実が発覚した。
専門職でも血縁でもない相手に疑似的な魔法回路を刻ませるのは、魔法職種の男女にとって一般的なマーキング行為らしい。
「魔法回路って一度刻んだら、例えば今回なら、母さんの耳を切り落として僕が聖魔法で回復でもしないと消せないでしょ。だから、二度と消せない傷を刻むだけの信頼関係にありますよーっていう周囲へのアピールっていうか」
そもそも、相手の魔力を体内に通す時点で、普通の関係じゃないよね、と常識ある魔法職種の息子が教えてくれるのに気が遠くなる。
「そ、そんなの知らなかったの。え、じゃあ、私がルイス様に魔道具用の穴を開けて欲しいってお願いしたのって、もしかして……」
母さん、と息子が呆れたような声で言う。
「そういうのは、夜に二人きりの時にお願いすることだよ。実際に施術する時は痛みで暴れるのを押さえる役が必要だから、僕もお願いされて同席したことあるけど、仲のいい恋人同士から惚気話として聞かされて鬱陶しかったなぁ」
母さんて変なところで常識を知らないよね、と辛辣な息子に、人生最大の生き恥を更新したばかりの母親は呻くことしかできなかった。
***
「知らなかったのです」
翌日、執務室に入ってすぐに、既に書類に目を通し始めていたルイス様に釈明した。今日も眩いばかりの美貌の美丈夫は目を丸めて、いきなり何の話だ、という表情をする。
「ま、魔法回路を耳に入れる行為が、この国においてそのような意味をもつなど」
ああ、なんだ、と得心した顔でルイス様が頷いた。
「レオン殿と話されましたか。刻んだ回線が上手く繋がったようで何よりです」
分かっていましたよ、と続けて、こちらを安心させるように微笑んだ。
「貴女が世慣れていらっしゃらないことは、初対面の時に身に染みて理解しました。恐らく今回もご自分が何を言っているのか分かっていないのだろうと思っておりました」
分かっていてスルーしたのか。だったらその場で教えて欲しかった。恨めし気に執務机の向こうにいる次期辺境伯を睨めば、書類で口元を隠しつつ、目を逸らされた。
「まあ、たまには役得を頂いてもいいかと思いまして」
は、と声にならない声が漏れる。それってどういう意味だ。私なんぞの耳に魔力回路を刻んだところで、お手を煩わせただけではないか。理解できない、とルイスを凝視すれば、そのまま溜息をつかれた。なんなのだ。
「……貴女は、どうにも知識に偏りがある。ご自分が不要と思われたものに対して無関心すぎるせいでしょう。恐らくは、それが穴あきとなっている常識の原因だと私は考えています」
書類を手でもてあそびながらルイス様が苦笑する。
「私の執務秘書官として人間関係が広がれば嫌でも常識を覚えるでしょうし、そう深刻にならなくて構わないと思いますよ」
思いっきり構うのだが、毎回赤面して、生き恥を思い出しては床を転がりたくなるこちらの身にもなって頂きたい、と黙ったままの私に、大丈夫ですよ、とルイス様は続けた。
「リオン殿が多少の常識外れでも、貴女がこの国の社会に馴染むまで、雇い主として私がフォローします。そもそも、リオン殿の失敗など可愛いものばかりではないですか」
話はここまでだ、とルイス様は書類に視線を戻した。
少々反論したい点もあったが、迷惑をかけたのは本当なので大人しく席に着くことにした。
自身の作業机に向かう私の背に、ルイス様が「ああ、そういえば」と声を掛ける。
「リオン殿は、もう少し人の心の機微を学ばれた方が良いやもしれませんね。ちょうど、歌劇場の招待券を友人の侯爵から譲られたところでして。王都でも話題の恋愛劇だそうですよ。今夜、ご一緒にいかがですか」
私に迷惑をかけたとおっしゃるのならば、お詫びはそれで構いませんよ、と笑うルイス様に冷汗を流す引きこもりの私は気付いていなかった。
『社会に馴染むまで雇い主としてフォローする』という彼の言葉が、『世慣れてきたら手加減せずに口説き落とす』という宣言であったことを。
―――おまえ、それは駄目だろ。
侯爵は友人の次期辺境伯の話にドン引きした。
「意味が分かってない女に魔力回路刻むとか、鬼畜が過ぎるだろ」
酒盃を持ったまま友人を指さして警告する。
「バレたらどうすんだよ。知らないうちに全方向にきっつい恋人宣言してたとか、本人が知ったらマジでド修羅場になるだろ、それ」
うるさい、と珍しく酔った友人が、片手で顔を覆って呻く。
「おまえは言われたことがないから理解できないんだ。当然みたいな顔で言われたんだぞ。『では、どうぞ』って。惚れた相手に。耳まで差し出して、魔力回路を刻んでほしいと」
あれに耐えられるやつは男じゃない、と耳まで真っ赤になったのは、酒のせいかどうなのか。一体、『ナニ』を思い出しているのやら。
はぁ、と溜息交じりに相手のグラスに酒を注いでやる。
こいつは真面目だから、『酔っている』と言い訳しなければ本音を吐けないのだ。
「分かった分かった。骨は拾ってやる」
まだ振られていない! と叫ぶ友人に流石に同情して、妻と行くはずだった恋愛歌劇の特別観覧席を譲ってやることにする。
上手くいくかは、神のみぞ知る、といったところだった。