PM3:00
思えば、朝から何も口にしていない。わたしはシャワーを浴びて、近所のスーパーに出かけることにした。新しい下着、お気に入りのワンピース、春色の軽いコート。そして丁寧に施したメイク。
「これが最期だから」という気持ちが、不思議とわたしをいつもより輝かせてくれるようだった。近所のスーパーに行くにしては、ちょっと勿体ないくらいイケている。折角だしどこかオシャレなカフェにでも行ってみようか。綺麗なアパートで優雅に暮らす、オシャレな女子のオシャレなカフェランチ。アサイーボウルとローズヒップティーなど、相応しいかもしれない。
最期だからと、後先考えず暴飲暴食することだけは絶対に控えよう。死後、腹部が膨れ上がっているみっともない姿を晒すことは、嫌だった。
わたしは歩きながら、スマホで近くのカフェを調べる。
最寄りの駅名と「女子 人気 カフェ おしゃれ」のキーワードを入力すると、想像以上に多くの検索結果が表示された。画面をタップ・フリックし、店名とメニュー内容、写真をざっくり流し見ていくわたしを、聞き慣れた日常の音が足止めする。
カンカンカン、という
線路の、踏切警報機の音だ。
ちょうど良い。電車が通り過ぎるまでの待ち時間に、カフェの候補を絞ろう。そう決めて手元の画面に集中しようとしたわたしの横を――
さっと、風が通り過ぎた。
その風は白くはためいている。スマホから顔を上げると、既に下りきった遮断機の向こうで、その白は揺れていた。
春風に舞う白いトレンチコート。細く長い体。太陽の似合わない青白い肌に、癖のない直毛の黒髪。理知的な切れ長の、一重瞼。
そこに居たのはたった今白昼夢から抜け出てきたような、生きている人間らしさの薄い、儚げで朧な男だった。
彼を儚く見せているのは、この状況のせいかもしれない。儚いというより危うげ……単に危ない。彼は遮断機と遮断機の間、間もなく電車が通り過ぎる線路の真ん中に立っていた。そして、きっとそこで電車を待っている。
「あの……死ぬのですか?」
わたしは、殆ど無意識にそう問いかけていた。神聖な雰囲気の彼は、わたしの姿を認めるとその口元を思い切り歪める。
「お前には関係ないだろう」
その口調と表情は、見た目の印象とはあまりにかけ離れた、粗暴なものだった。(初対面の人に“お前”だなんていう人、漫画やアニメくらいでしか見たことない!)
「それとも何だ?一緒に死んでくれるとでも言うのかよ」
男はそう言ってまた口元を歪める。先ほどのへの字とは逆に、今度はその口角は釣り上げられていた。しかしとても笑顔とは言い難い、下衆染みた嗤いだ。
「見ず知らずの他人と、一回限りの最期を共にしたいと思いますか?」
男の言葉は、わたしを遠ざけるための脅しだったのだろう。しかし死に対して悟りを開いているといっても過言ではないわたしは恐怖心を抱くことなく、ただ、浮かんだ素朴な疑問を返す。
それが意外だったのか、男は一瞬呆けてから、バツの悪そうな顔でわたしから視線を逸らした。
「誰がそんなこと、思うものか。特にお前みたいなうるさい女は願い下げだ」
「良かった。あなたのこと、全く理解できないわけではなさそうです」
「は?」
電車の姿はまだ見えない。
今この時間、この線路には、わたし達以外誰も居ない。
――彼を、止めることはできるだろうか?
それは自分を棚に上げての偽善か、はたまた先を越されたくないという謎の意地なのか。わたしは彼の行動を阻止したいと思った。
しかしわたしが一人で飛び込んでいって、いくら痩身だといっても成人男性を力づくで止めることなど出来るとは思えない。もし飛び込み自殺に巻き込まれでもしたら……わたしの『極力他人に迷惑をかけない自殺計画』はパアだし、遺族が責任を問われでもしたら最悪だ。絶対にごめんだ。そう、電車を使っての自殺はデメリットが盛り沢山である。
「電車の自殺は、遺族に多額の請求が来るそうですよ。それに、駅員さんは不快な思いをします。運転手さんも乗客もトラウマになるかも」
「知るか」
「ぐちゃぐちゃの、バラバラですよ。もしかすると、片付けきれなかった指先が線路の端に放置されて、カラスに啄まれるかも。悲惨」
「ウルサイ」
「モラルのない若者が、スマホのカメラであなたの肉片を撮影して、面白半分にSNSに拡散するんですよ、きっと」
「……」
「もしかすると、あなたの一部を持ち帰って仲間内で騒ぐネタにしたり」
「……」
「勝手に都市伝説化されでもしたら……“テケテケ”なんて呼ばれて、ずーっと語られ続けるかも。肝試しの降霊術で呼び出されてしまうかも」
それでいいんですか?とわたしは問う。矢継ぎ早に低俗な未来の話をすると、男の元から青白い顔は、より一層血の気を失っていくようだった。その情景が、リアルに想像できてしまったのだろう。既に死んでいたかのような静かな瞳に、少しずつ迷いが見え始める。
カンカンカン
そして、電車が、通り過ぎる。
「自殺って、案外難しいんですよ。もしかすると、生き続けることと同じくらい」
「……ちくしょうが」
電車が過ぎた後、彼はまだ二本の足で立っていた。線路の向こう側で、悔しそうに悪態をついている。遮断機が上がると、わたしは彼に歩み寄った。
彼のロングコートは真っ白で、風に舞うそれはまるで白衣のように見える。だからわたしは、彼をこう呼ぶことにした。
「ハカセ。ねえ、あなたのこと、そう呼びますね」