PM8:30
玄関ポストに宅配便の不在票が入っていた。……ああ、当日便で注文したヘリウムガスだ。今から連絡したところで、今日中に受け取ることは出来ないだろう。そして受け取ったところで使うことは出来ない。少なくとも来週の土曜までは、わたしはわたしとして生き続けなければならない。
気が付くと、わたしは泣いていた。予定通りに死ねなかったことが悲しいのではない。生き続けなくてはならないことが悲しいのではない。
夕方までは、彼に会うまではあんなにも穏やかだった心が、今は乱れている。辛い。この一定ではない感覚が、辛い。
ああ、ただ、わたしに明日が来るだと考えたら、何故か、どうしても
温かく心地よい涙が、止まらないのだ。
……そういえば、会社にイベントで使用した風船の残りがあったような気がする。ヘリウムガスが届いたら、その風船を貰ってきて膨らませてみるのも良いかもしれない。お洒落なOLのアパートには、もう少し遊び心があっても良いと思えた。
わたしは涙をぬぐって、大きく深呼吸する。
(とりあえず、来週着ていく服を、考え始めないと!)
■同時刻
博士は、もう帰ることが無いと思っていたマンションを見上げた。
近所の家から漂う煮物の匂いに、序所に空腹を感じ始める。それは久しい感覚だった。
駐車場に、騒々しい隣人の車が荒々しく入ってくる。相変わらず危なげな運転だと、博士は舌打ちした。隣人は悪人ではないが、ずさんな生き方が目立つ輩だ。ベランダで、奴の物干し竿が防火扉を破って突き出してきた日のことを、博士が忘れることはない。
傷だらけの黒いスポーツカーの助手席には、黒目がちで色の白い女が座っている。女はその細すぎる体躯に、この季節に本当に必要かは疑わしい、毛布のようなひざ掛けを巻きつけていた。若い女は妙にひざ掛けが好きなものだなと、博士は不思議に思う。
駅でもカフェでも職場でも、ひざ掛けを足に巻き付けたり、マントのように羽織ったりしている女をよく見かけた。よく知らないが、流行りだろうか?そういえば遊園地のゲームセンターでも、キャラクターものの派手なひざ掛けが景品として扱われていた。
博士は男の車の隣にある、自分の車を見る。ギリギリ、ぶつけられてはいないようだ。
その、もう乗ることはないと思っていたセダンに、いつか、自分が絶対に使わないようなキャラクターもののひざ掛けが備えられるようになる日も、あるのだろうか?少しだけ、想像してみる。いや、まだ寒い春にソフトクリームを好んでいた彼女は、暑がりかもしれない。
……今の自分がどうしようもなく腑抜けた顔をしているような気がして、博士は口元を手で覆った。そして改めて、自分の中の彼女への感情について考えてみる。
自分が彼女に抱いているこの感情は、死とは逆方向に作用する類のものに違いない。人間の持つ生存本能による思い込みか、それとも、死を間際にした“吊り橋効果”というものか。生まれてしまった理由は分からないが、確実に言えることは
悪くない。と、感じているということだった。




