過去編1部−託す者と託される者
『…だからなんだな…。』
私は夕乃の『ありがとう』の言葉を聞いて空を見上げる。
夕乃は私に背を向けて車椅子に座ったまま空に向かって両手を伸ばしている。
『…だから君は…。んっ?』
頬を何かが伝って地面に落ちていった。地面には小さな染みがポツリ、ポツリと出来ていた。
私は空を見上げる……そこには雲一つない青空があった。
嬉しかった訳ではない。
悲しかった訳でもない。
無意識のうちに流れ出た【涙】だった。
『…痛っ。』
口の中に血の味が広がる。苦い、苦い鉄の味。
それは、噛み締めていた唇から流れた血だった。
夕乃は今、私に背を向けて空を見上げている。
だから、私が涙を流している事は気付かれてはいないだろう。
それでも私は空を見上げ涙を隠した。
『…だから夕乃はこの丘に来たがった。思い出を残す為に。俺達の心の中に……。』
声が少しだけ震えてしまっていた。
『……そうね。【大切な人】、【特別な場所】。そこで過ごした時間はやっぱり、忘れられない【思い出】として心の中に残ると思ったから…。』
夕乃は振り向かずにそう言った。
いや、おそらく、振り向かないでいてくれたのだろう。
多分、私が涙を流していて、それを見られたくないと思っている事を察してくれたのだろう。
それが夕乃の優しさだった。
『……うっ……うん、そうだね……。』
その優しさが私の我慢を超えさせる。
「ポタッ。ポタポタッ。」
地面に出来た染みは最初のものよりも大きくなっていた。
「ヒュゥー ヒュゥー」
二人の間を風が吹き抜けていった。
しばらく空を見上げていた私達はようやく口を開いた。
『…あのさ、夕乃。今の話を彼方にも伝えるつもりなのかい?』
私がそう尋ねると夕乃は首を小さく横に振った。
『ううん。彼方には言わないつもりだよ。だって、まだあの子は小さいもの。』
『それに、今の話は少し難しいし、まだ解らないと思うもの。』
『そっか……うん…そうだね。』
私と夕乃は少し離れた所で遊んでいる彼方に目を向ける。
『…でもね、彼方が大きくなって、今の私の話が理解出来るようになったら……行君から伝えてあげてね。焦らなくていいわ。ゆっくりでいいの。』
『だって…特別な思い出はいつまで経っても残るはずだもの。』
『はははっ。そうだね。その通りだよ。』
私達は互いに目を合わせ、そして笑いあった。
涙は止まっていた。
地面に出来た染みも乾いてなくなっていた。
それと共に私の小さな【迷い】もなくなっていた。
『…君は……夕乃は………俺達の心の中でずっと、ずっと生き続けているんだ。』
『俺達が、君との大切な思い出を忘れないで、覚えている限りずっと……。』
『…だから……ずっと………一緒なんだ。』
今この時、この場所、この会話。
二人で笑いあったこの時は、
ずっと私達の心の中に残るだろう。
この広い世界で
俺と彼女が出逢えた奇跡。
それは忘れ得ない【思い出】
二人が出逢えた【運命】に
『…ありがとう。』
『俺達を出逢わせてくれて…』
『ありがとう。』
ありったけの感謝の言葉は、
蒼く広がる大空に溶けていった。