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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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魔女は孵る ~子爵令嬢イザベル・フィヨンに関する数奇な報告~

 とある王都に、イザベルという貴族の少女がおりました。華やかさこそやや欠けていましたが、文武両道、心根の優しさ、礼儀と気品……等々、多くを持ち合わせた彼女は――


『破滅の卵』と、呼ばれていました。


 

 ※



 王立魔法生物学研究所主任研究員 アドルフ・リュノーの報告書


 第0次報告書(王国暦694年9月10日)


 目的

 王国領南西部に直轄地を持つフィヨン子爵家の長女、イザベル・フィヨン子爵令嬢(以下、イザベル嬢と呼称)についての追加報告


 前提情報

 本年3月、フィヨン家の第2児として生を受けたイザベル嬢は、生誕2週間後に行われる祝儀で、占術師の鑑定を受けた。これは王国貴族にご子息・ご息女が誕生した際、義務付けられているものである。通常、王室付きの身分が確認できている者が鑑定人に選ばれる。

 その際、今回鑑定人を務めた王室付き占術師、ペリエが告げたのは「イザベル嬢は、500年前に討伐された悪名高い闇の魔獣"ティネブール"の生まれ変わりではないか」という内容であった。我ら魔法生物学研究所は早期の調査を望んだが、子爵および子爵婦人(以下、夫妻と呼称)は、現在までそれを拒み続けている。夫妻そろって人格者と名高いにもかかわらずである。また、これらの情報は王室と当研究所によって厳重に秘匿されており、貴族界への流出は確認されていない。


 今回の詳細

 依然子爵夫妻との交渉が試みられているが、状況は芳しくない。そこで、幾人かがフィヨン家の使用人として潜入し、イザベル嬢の監護および実地調査を行う作戦が立案された。潜入役の片割れに、私、アドルフ・リュノーが任ぜられた次第である。もうひとり、王室警備隊からもマラン・ジルベールという者が派遣されるそうだ。

 折しも、フィヨン家付きの馬丁がふたり、近々職を辞するとのこと。私たちに白羽の矢が立ったのは、肩書以外に、馬の世話の心得があるためでもある。

 作戦開始は次の月始めからとなる。王国南部・ヴァラス大森林の急速な生態系変化についてなど、調査途上の研究が滞るのはマジで……いえ、少々口惜しいが、仕方ない。当分は部下に多くを託そう。それに、作戦中であれど、研究は時間を見つけて進める。

 また、"内容"から逸れた話になるが、ペリエにはフィヨン家を訪れている間の記憶がないそうだ。霊的な話は専門外だが、私の好奇心は大きく燃え盛っており、この報告書をも焼くであろう。

 報告は以上である。

 当報告書に目を通すのは我らが研究所長のみではない。国王陛下直々にご高評賜ると聞く。何卒、よろしくお願い申し上げます。


 王立魔法生物学研究所長のコメント

 焼くな。

 お前は少しばかり研究ひと筋が過ぎる。重要な事態ではあるが、休暇と思って羽を伸ばしてくるとよい。ことによれば出会いもあるかもしれない。求めていないんだろうが。

 また、言い忘れていたが、報告書は基本毎月末の提出となる。特筆すべき事態・事柄があれば、加えて臨時で提出するように。


 国王陛下のコメント

 よろしく頼む。(面識がないゆえこれしか書けぬ)




 

 第1次報告書(王国暦694年10月30日)


 目的

 イザベル嬢の魔力測定結果と、フィヨン家の様子について


 今回の詳細

 家に潜入。住み込みで粛々と馬丁の仕事をこなす。御者に「経験者が入ってくれて本当助かるよ! ありがとう!」といたく感激された。いずれ潜入調査が終わる際に辞めさせてもらえるか、今から不安である。

 もうひとりの潜入役、マラン・ジルベールとはそれなりに付き合っていけそうだ。深い干渉を嫌う点が似ていてやりやすい。


 話に違わず、フィヨン家の評判は良好で、使用人の信頼も厚い。肌で感じられた。実際、彼らにしてみれば一馬丁に過ぎない私にも、十二分な待遇が与えられている。

 夫妻ともども、やはり貴族というべき気品と礼儀を持つ一方、どこか親しみやすさも感じられる。初めて対面した際も、思ったほど緊張せずにいられた。特に伯爵は知的な冗談を好むようだ。いつか気の利いた返しができるようになりたいものである。

 と、およそ非の打ちどころのない夫妻だが、イザベル嬢の話題は依然ご法度である。初日にフィヨン家の執事からきつく言い含められた。「わたしたち使用人が勝手に心配しているわけではなく、フィヨン家の総意をお伝えするものです」と念押しまでされた。とはいえ、任務を放棄するわけにはいかない。話の流れでそれとなく話題にしようと試みた。話を逸らされ、失敗したが。夫妻があまりに自然に逸らすので、ごまかされたとしばらく気づけなかったほどである。

 わたしは交渉役を命じられていない。深追いは身元を怪しまれる危険のほうが大きく、それ以上踏み込まなかった。なお、マランは交渉の役割も担うようで、いかにわたしの会話能力が期待されていないかを突きつけられ、若干悲しくなったことを報告しておく。

 ご子息のフランシス卿は、御年4歳にしてはきはきと会話をされ、知的好奇心が旺盛である。いたずら心も旺盛だが、これは年相応であろう。当然といえるが、彼はイザベル嬢に関する疑惑を知らない。なにも起きず、なにも知らずに、彼と彼女が生き抜けるなら――それが一番いいのだが。

 と、フィヨン家の現況はこの通りである。


 続いて、イザベル嬢の魔力測定の結果を記す。

 魔術とは、約2000年前のいわゆる`凍る時代`、気温低下とそれによる大飢饉を生き延びるため、(人間を含む)動物が同時多発的・自然発生的に生み出した術のことを指す。自らの血液を媒介として、客家や水流、落雷、太陽光といった自然現象の再現を試んだ。厳しい寒冷環境でも従来通りの生活を営むべく生み出されたものである。

 魔力とは、血液の濃度および血中成分の豊富さと言い換えられ、濃度が高いほど強大な魔術を行使できる。

 魔力濃度は、遺伝的要因と生活環境要因の双方がほぼ同じだけ影響を与える。よって、出生時点での魔力濃度は魔術師としての素質を測るひとつの基準になるが、後天的に伸ばすこともある程度までは可能である。また、魔力濃度は行使者の感情に合わせて瞬間的に増減するため、例えば強い怒りに襲われた際などには通常より高い効果の魔術を使える。

 ――と、ここまでは今更説明せずとも十分お分かりだろう。今回行った魔力測定の焦点は、イザベル嬢の魔力濃度と、その遺伝元である。

 我らが王国の貴族は、そのすべてが文官もしくは騎士の系譜に連なる。そして、厳しい戦いを生き延びてきた、騎士家系の貴族――帯剣貴族のほうが魔力濃度が高い傾向にあり、フィヨン家もそちらに属する。しかし、その差は極端なものではない。フィヨン家の者の出生時魔力濃度を過去10代に渡り調べたが、帯剣貴族の平均値から大きく外れた者はいなかった。イザベル嬢の魔力濃度が極端に高ければ、その由来は明らかということだ。

 端的に結果を述べよう。イザベル嬢の魔力濃度は、平均値そのものであった。


 また、文献からティネブールの血液の鑑定データを参照し、比較を試みたが、似ても似つかなかった。血液、すなわち魔力は、個々人によって性質が異なる。具体的には、親和性の高い自然現象がどれかや、どのような感情の際に効果範囲や現象強度が上がりやすいかなどだ。

 イザベル嬢の魔力は、まだ何にも染まっていない、純粋そのものであった。現時点では、心配無用といえる。詳細な調査結果は別紙にまとめた。そちらもご参照のほど。

 報告は以上である。フィヨン家への申し送りを、何卒よろしくお願い申し上げる。


 追伸:イザベル嬢の血液をどのように採取したかは、ここでは伏せさせてもらう。


 所長のコメント

 意味深なのやめろ。赤ん坊だぞ。


 アドルフの返信

 イザベル嬢がはいはいをしていて戸棚にぶつかってしまった際、棚に付着した血を採取しました。


 国王陛下のコメント

 別紙ともども目を通した。ご苦労であった。これでひとまずは安心できよう……主に余が。





 第36次日記(王国暦697年9月30日)


 目的

 現状の報告


 今回の詳細

 今日も今日とてフィヨン家は平和である。子爵夫人が第三子、それも男児をご懐妊になり、平和にいっそう磨きがかかった。

 跡取りは長男のフランシス卿と決まっているが、夫妻は一族から戦場に立つ騎士を出したかったようで、男児とわかった際は大層お喜びであった。

 フランシス卿とイザベル嬢はすくすくとお育ちだ。特にイザベル嬢は、すでに麗人の片鱗をのぞかせていると、使用人の間で評判が絶えない。たしかに、あの青く澄んだ瞳と薄くつややかな唇は、噂もむべなるかな、と思わされる。

 イザベル嬢は使用人にも積極的に話しかけ、私も一馬丁ながら懐かれているようである。この間は庭園の花々に興味を持たれたようで、一時間ほど連れまわされ、目に映るあらゆる植物の解説を求められた。訊くなら庭師ではというのは、ご愛敬である。たまたま私が視界に入っただけであろう。


 ところで、僭越ながらひとつ提案がある。この報告書、頻度を下げてもよいのではなかろうか。(ペリエの記憶の件はあるが)疑惑はほぼ払しょくされ、平穏な日々が続いている。定期報告は3ヶ月、あるいは半年に一度でもかまわないのではなかろうか。なにか動きがあれば臨時でというのは、最初から決めていたことでもあるし。


 所長のコメント

 そうだな。お前の報告書、最近じゃイザベル嬢を愛でる日記だからな――ってタイトル!!


 国王陛下のコメント

 ご懐妊の報は聞いている。いずれ祝辞を述べねばならぬな。

 提案についても、前向きに検討しよう。ただ――イザベル嬢のご様子は、定期的に聞かせてくれまいか。他意はない。あるわけがない。監護対象として、情報を絶やすわけにはいかぬからな。





 第52次報告書(王国暦701年9月30日)


 目的

 ある重大な報告


 今回の詳細

 イザベル嬢には貴族令嬢としての教育が施されつつある。12,3歳にもなれば社交パーティーに出て、婿をあてがわれるであろう。花嫁修業も兼ねたものだ。

 そして今月からは、教育内容に魔術関係のものも加わった。まだ基礎的な部分に終始しているようであるが、筋はよくも悪くもなさそうだ、とのこと。フィヨン家の家庭教師から直接聞いた。おしゃべりな女性は情報源としてありがたい。

 依然、イザベル嬢は普通の少女である。


 重大な報告とは、このことではない。次に、占術師ペリエの件である。彼の記憶が戻った。本来ならば真っ先に伝えられるべきは王室だが、彼から直接連絡が届いたゆえ。

 ペリエが語ったのはこうだ。


『寝台で眠りにつく赤子のイザベル嬢を、鑑定しようとした瞬間。あっしの記憶はそこまでだったんですがね。続きを思い出しましたよ。いや……思い出してしまった、というべきでしょうな。

 見てしまったんです。鑑定のため、イザベル嬢の手首にそっと触れ、脈を感じたとき。避けんばかりに大口を開けた、ティネブールの姿を。歴史書に載ったまんまの姿で。他は誰も見なかったようですがね、あれは幻なんかじゃない。間違いなく……あのお嬢ちゃんに憑いてる。生まれ変わりだ。

 それがいっとう恐ろしくてね。どうやら私は、無意識に記憶の鍵をかけてたようでさあ。だから、頼んますよ。幸せに解決してやってくれ。あの子はきっと、いい子だからさ』


 ペリエはいかにもつかみどころのない人物だったが、嘘つきには見えなかった。これをどう取るか、どう対処するかは王室の裁量であろう。私はただ報告するのみ。

 依然、イザベル嬢は普通の少女である。


 そして、ここからが重大な報告となる。誰もが驚き、嘆き悲しむであろう。それくらいのことだ。これを伝えねばならない悲しみを、少しでも想像していただけると助かる。

 さて、どう切り出すべきだろうか――もったいぶってないで言え、と声が聞こえそうだ。重い口を開くとしよう。

 実は、なんと――


 最近、イザベル嬢に距離を置かれてしまった。日記に書けることがなにもない。これからも、報告は難しくなるであろう。

 彼女もそろそろお年頃なのかもしれないが、私には距離を置かれる心当たりがない。ほかに要因があるのだろうだ。

 強いて言えば、フランシス卿が(称号としての)騎士になるため、しばらく王室騎士団のもとへ修練に出されたことくらいであろうか。寂しがっているようではあった。とにかく、頃合いを見て接触を図りたい。

 報告は以上である。


 所長のコメント

 重大って、ペリエのこと違うんかい!

 ……バカなツッコミをさせないでくれ。頼むから。いやどうするんだ本当。


 国王陛下のコメント

 それは重大だ!! イザベル嬢との関係修復について、一刻も早い対処を頼む。


 見かねた側近の発言

 国王陛下より一介の研究所長のほうがまともなこの国、何?


 



 第53次報告書(王国暦701年12月30日)


 目的

 子爵夫妻の様子と、イザベル嬢との関係に関する報告


 今回の詳細

 ペリエの証言について、王室の使者から申し送りがなされた。夫妻ははじめひどい動揺を示したが、使者の報告を聞くうちに、神妙な面持ちながらも納得されたようだ。引き続き、(親戚の大部分を含めた)外部には決して漏らさず、イザベル嬢にも明かさない方針を貫くとのこと。

 続いて、わたしと距離を置き始めたイザベル嬢に、接触を試みた件である。王室もご贔屓の、ある製菓店の焼き菓子を交渉材料に、無事話を聞けた。どうやら数か月前、厩舎の馬とお戯れになった際の出来事が原因だったらしい。私も居合わせたのだが、イザベル嬢の召し物の胸元を、その馬が噛みちぎってしまったのだ。愛情表現のひとつとしてそういった癖のある馬で、私も注意が不十分だった。

 一瞬とはいえ素肌を見られ、恥ずかしかったとのことである。注意不行き届きを改めてお詫びし、意図的ではないことを伝え、無事和解した。

 報告は以上である。


 所長のコメント

 そういえばお前、馬丁として入ったんだったな。


 アドルフの返信

 それが、御者のたっての頼みでその地位を継ぐことになりました。逃げ場をふさがれてしまい、申し訳ない次第で……


 所長の返信

 何やっとんじゃ!


 国王陛下のコメント

 率直に聞こう。……貴様、どこまで見た?


 アドルフの返信

 鎖骨と胸の境あたりまでです。断じて果実は見ておりません。





 第66次報告書(王国暦705年3月30日)


 目的

 イザベル嬢の魔術に関する報告


 今回の詳細

 イザベル嬢の魔術の腕が、目覚ましい向上を見せている。例えば、どの渓谷の名水よりも澄み、鉱物性成分の豊富な水を多く生み出すことができるなど。それが、私はとても怖い。

 イザベル嬢は、普通の少女のはずである。美しく成長しつつある今でも、淑やかで、茶目っ気もあり、皆に優しい、才気あふれる少女である。

 より綿密に、観察を続けていく。魔力鑑定も改めて行う。いざとなればすぐに動けるよう、マランには念を押してある。私自身、常に短刀を提げている。それが私の使命ゆえに。

 報告は以上である。


 所長のコメント

(やっとまともな報告書がきた……)

 どうか、よろしく頼む。


 国王陛下のコメント

 上に同じく。願わくは、誰も傷つかぬことを。


 



 第67次報告書(王国暦705年3月30日)


 目的

 フィヨン家の醜聞に関する報告

 

 今回の詳細

 どこからか知れないが、イザベル嬢に関する噂が貴族界に広がった。この10年あまり、隠し通せてきたというのにだ。イザベル嬢ご自身も、他家のご子息・ご息女と顔を合わせるたび、そのことについて罵倒されているようだ。『破滅の卵』と、不名誉な二つ名まで。彼女も信じていないとは言えど、以前より笑顔が減った。夫妻と私には笑いかけ、いつもの態度を取ってくれるが。

 子爵夫妻も、「せめてこの子を嫁がせるまでは隠しておきたかった」とのことだ。

 使用人がだれひとり辞めなかったことが、唯一の救いだろうか。


 昨今、王都には流行り病が広がっていると聞く。どうにも不吉だ。何事もなければいいが。


 所長のコメント

(所長の体調不良につき、代わりに副所長が目を通した。コメントは差し控える)


 国王陛下のコメント

 困ったことになっておるな。ひとまず、国の貴族には「誇り高き貴族として、流言はつつしむように」と文書を出しておく。気休めにはなるであろう。




 

 臨時報告書(王国暦705年4月16日)


 目的

 イザベル嬢の魔力測定に関する報告


 今回の詳細

 ここ半年、継続的にイザベル嬢の魔力鑑定を行ってきたが、魔力の質がティネブールのそれに近づきつつある。大変残念だが、これはもう、確定したといってよいであろう。

 変質の速度からして、今年6月の半ばには、魔物と完全に同じ質の魔力を手に入れるのだろう。その際なにが起こるかは、私にはわからない。似たような事例は文献にも見あたらなかった。

 ティネブールの復活だけは、ないことを願いたい。

 最近、イザベル嬢から愛の告白を受けた。子どもであろうと、その愛はきっと、確かなもの。わかってはいる。返事はまだ、できそうにない。

 報告は以上である。イザベル嬢に幸福があらんことを。


 国王陛下のコメント

 騎士団の精鋭をもう10名差し向けることにした。使用人を騙ることもしていない。フィヨン家の了承は得た。

 物々しかろうとも、不安にさせようとも、仕方ない。仕方ないのだ。




 

 アドルフ・リュノーと王立魔法生物学研究所の通信記録(王国暦705年5月9日)


 ――こちら、主任研究員アドルフ・リュノー! 応答願う!

 

――アドルフ君か。副所長のわたしだ。ちょうどよかった、連絡がある


 ――そんな場合ではないんですよ


 ――こちらも、重要な話だ。時間がないのなら率直に言おう。我らが所長が、科学の向こう岸へ行かれた


 ――待ってくれ。いや、待ってください。所長が、亡くなられた?


 ――そうだ。流行り病でな。科学の届かない世界へ行ってしまった。また、花でも手向けに行ってくれ


 ――わかりました。すみません、本当に重要な話だったというのに


 ――気にするな。それで、要件は?


 ――イザベル嬢が、姿を消しました



 ※



 闇と神経毒。ティネブールの得意とした、破滅の魔法。

 歴史書にのみ残るそれを間近で視界に入れたのは、幸運か、あるいは不運か。


 使用人も一緒に卓を囲む、恒例のお茶の時間。イザベル嬢の隣席に手招きされ、私は、彼女が最近読んだ海底冒険譚の話を聞いていた。この時間だけは、フィヨン家が平和を取り戻す。緊張がほぐれる。そのはずだった。

 イザベル嬢の象徴、澄んだ青い瞳が、暗くよどんだ紫の光を放つ。なにが起きたかは察知した。が、困惑するばかりだ。なにしろ想定より一ヶ月は早い。頭が白黒する。

 なにか、なにかせねば。彼女の中の魔物が、目覚めてしまう。


 妖しい紫の液体。イザベル嬢の周りに浮き上がり、波紋となって拡がった。


「お嬢様!」

「誰か、お助けを……!」

 

 突然のことだ。対処できるものは少なかった。 室内は混乱で満ち、人々は彫刻のように固まる。動けなくなる。 私を含む監護役は、かろうじて守護魔術が間に合った。

 彼女と対峙せねばならない。誰かが、鎖を生成する魔術を網み始めた。

 それが彼女に届く前。妖しい光がかき消えた。鎖は、作られなかった。


「今、わたくし――」


 イザベル嬢は、目を丸くして。次に、瞳を潤ませて。

 ――ああそれは、正しく絶望の表情であった。


「いやーーーーーーーっ!!」


 普段の柔らかな声からは想像もできない、鋼鉄をも裂く悲鳴。それを残して、彼女は玄関口から出て行った。不思議なことに、誰もが彼女を見失った。


 

 ※


 

 空がよどんでいる。黒鳥が鳴き叫ぶ。

 街はずれの丘、ラハイナ丘陵で、研究所との通信を切った。恐ろしい事態の、どこまでを伝えられたか。私はどうすればいいのだろうか。行方はつかめない。ひとまず、フィヨン家に戻るべきか。


 引き返しかけたとき、黒い風が、視界を覆った。


「アドルフさん」


 聞き慣れた、イザベル嬢の声。ねじ曲がるように空間に穴が開いて、彼女が現れた。ちゃんと、人間の姿だった。


「皆の噂は、本当だったのですね」

「そのようです、イザベル嬢。残念なことに」

「知っていたのでしょう? あなたは馬丁さんではないから」

「……ご慧眼。私は王国の命で送り込まれたものです。お嬢様が赤子のころから、調査と監護の役を担っておりました。お嬢様を疑いながら、生きておりました」


 いくらでも罰を受けよう。その覚悟だった。


「アドルフさんは優しいです。それは変わりません。ずっとそばにいてくれて、ときには遊び相手になってくださった。私を大切にしてくれた。そんなあなたに、お願いがあります」


 頭を下げたイザベル嬢。つややかな長髪が、強まってきた風に流れる。


「わたしを、討ってください」

「断ると言ったら、どうしますか」

「自分で命を絶ちます」


 きっぱりと、張り詰めた声。しかしそれは、嗚咽にゆがんで。もろく崩れて。


「魔物になんて、なりたくないよぉ……!」


 ぼろぼろ泣きながら近づいてくる。小柄な身体が、胸に縋りついてくる。それはたしかに、温かかった。


「わたしを女の子のままでいさせて?」


 上目遣いで放たれたその言葉には、弱い。反論の余地がなくなる。

 まもなく彼女は、魔獣ティネブールに変貌を遂げるだろう。そうなれば私ひとりでは対処できない。

 腰の短刀に手をかけた。催眠魔術が使えればよかったが、残念ながら不得手だ。


「目を閉じてくださいますか」

「……はい」

「いつかの返事をしましょう。お嬢様――私も、あなたを愛しています」


 首に切りつける寸前、再び灯る紫。イザベル嬢の身体から、裂け目が広がるようにあふれ出す光。彼女の両腕はとげとげしい翼と化した。刃は、間に合うか。

 最期の瞬間。魔獣と化していない顔で、彼女は泣きながら笑んでいた。


 炎の魔術をこのような形で使うとは思ってもみなかった。灰は、とても軽かった。簡単な石積みと、魔よけの魔法印を刻んだ木札のみのささやかな墓だが、定期的にお参りいたします。お嬢様。

 帰り路、こみ上げてきたものを、押しとどめられただろうか。ついぞわからなかった。それでも、胸を張るしかない。"私たち"は、間違っていなかったと。



 

 アドルフ・リュノーと国王陛下の通信記録


 ――余だ。ラハイナ丘陵にて一瞬、膨大な魔力が検出され、貴公がその場に居合わせたようだと、先ほど通達があった。身体は無事か


 ――陛下!


 ――そうだ、いかにも余が国王である。親愛なるイザベル嬢が、魔物と化しつつあると聞いた


 ――丘陵の入口付近で監護対象と遭遇。魔獣ティネブールへ"すでに変貌を遂げていた"ため、私ひとりで討伐を試み、成功しました。"魔獣"の死体は討伐後すぐに消滅したため、証拠はありませぬが


 ――そうか、"魔獣を"討伐したのだな。ご苦労だった。まことに、ご苦労だった


 ――ご配慮痛み入ります


 ――なんのことか


 ――ともかく、これにて今回の調査は終了となります。我らが所長も亡き今、口頭ではありますが、いつもの言葉を。"報告は以上である〟


 ――うむ、しかと聞き遂げた

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― 新着の感想 ―
[良い点] えーすごいどうなってるの!設定の重厚感すごい!!良きですね
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