高み招き
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
さて、気圧についてのまとめはこれで終了だ。どうだい、なにか質問があるかな?
お、こーらくん、君が来たか? どれどれ、どんなものかな?
――ふむ、小説やアニメに出てくる天空の城や要塞。その中で歩き回る人は平然としている描写があるけど、実際はどれくらいの高さまで平気なのか?
ほほう、フィクションに切り込んでくるとは、いかにも君らしいツッコミだ。
さて、それは作者の裁量次第……なんていったら、身も蓋もないか。オッケー、マジレスしようか。
人間が素で耐えられるのは、高度8000メートルまでだといわれている。それ以下ならば、身体に備わっている順応能力でどうにかなるんだ。リアルでもフィクションでも、空気の薄い高所で修行をするのは、理にかなっている。
だが、8000を超えてしまうと何かしらの補助が必要になるんだ。酸素マスクとか気圧の調整とかをして身を守らないといけない。
つまりフィクションだと、特殊な装備や体質の説明がない限り、件の施設たちは高度8000メートル以内にあるといっていいだろう。
先生はね、人間の高所恐怖症はここから生まれたんじゃないかと思っている。かつて人の限界を超えて、高さを求めたご先祖様がいて、その辛さと怖さを刻み込んだ。それがふと首をもたげるんじゃないか、とね。
先生も昔、高さをめぐって不思議な体験をしたことがある。ま、脱線話として気軽に聞いてくれ。
先生が自分の高所恐怖症を自覚したのは、遊園地に行った時だったな。人生初めてのジェットコースターに乗ろうとしたわけだけど、これが乗り場がめちゃくちゃ高くってさあ。
並んでいるうちに、じわじわ高度があがっていくんだけど、ひょいと柵越しに見た地面までの距離。あれに足がすくんだ。
おそらくは人であろう、行き来するからふるな粒。店の屋根や木の茂みと、そのすき間から見える白いタイルの地面たち。そこが今まで歩んできた道の下にあると感じたとき、こう、吸い込まれそうな錯覚がしたんだ。
「もし、この足場が崩れたら死んでしまう。そんなのは嫌だ。
一刻も早く、今すぐにでもあそこへ足をつけたい。落ちる心配のない場所へ立っていたい。たとえ飛び降りてでも……!」
その気持ちとは裏腹に、前も後ろも並ぶ人に挟まれて動けない。じわじわと、しゃくとり虫のように動く人力のエスカレーター。
もしこのままもっと高いところへ行って、足場が崩れてしまったら……。
そう考えると、いてもたってもいられなくなってね。その場でわめきちらして、無理やりその場から逃げさせてもらったっけ。
それから先生には、高所恐怖症の気が出始めた。
学校の屋上から、地上を見下ろすあたりからダメだね。すぐにでも柵を乗り越えて、飛び降りたくなっちゃう。それを我慢していると、胸の奥がむかむかしてきてその場にいられないんだ。
下を見下ろさなければ大丈夫。学校の階段も、一回までの吹き抜けの部分を見なければ大丈夫。
一フロア程度だったら問題がなかった。たぶん、落ちても死にはしないと頭が思っているからだろうな。
要領さえわかれば、あとはコントロールあるのみ。先生は極力苦手なシチュエーションを避けつつ、中学生になったんだ。
部活はサッカー部に入った。もちろん足腰の鍛錬はとっても大事なスポーツでさ。晴れた日にグラウンドを走って、雨の日は学校内で階段上りをすることが多かった。
雨でのプレイをするかどうかは顧問の意向で決まる。部員たちの体調を第一に考える人だったから、それなりに暖かい日じゃない限りは屋内練習だったねえ。
で、先生は入部前から少しく足に自信があった。学年中でもトップ10には入っていたから、高速ドリブラーの役割を担おうと当初から考えていたよ。
ボールタッチも欠かさないが、前半でも後半でも変わらないパフォーマンスを保つのに、物を言うのはフィジカルだ。先生は特に走り込みを重視し、階段上りも部活の時間のみならず、放課後に人の邪魔にならない時間なら、校内外を問わずにやったっけなあ。
息が切れて切れて、もうだめって思う時の最後の一往復の魅力にとらわれてたっけ。「ここを越えれば、次の試合に勝てる」って、自分に言い聞かせていたなあ。
部活に入って半年が経った。先生は変わらず、学校内の階段を使い、足のトレーニングをしていたんだ。
今日は珍しくひと気がなくて、集中できる。一段一段、ももをしっかり引き上げ、それでいてミシンのような動きをする両足で次々と地面を叩き、駆け上がっていく。
一フロアに階段は二つ。踊り場での曲がり角で、うっかり一回までの吹き抜けが目に入らないようにして、何度も何度も走った。
回数は数えていない。ただ自分が疲れ果てて、動けなくなるまでって決めていた。
脚ががくがくして、心臓ももうのどをせり上がりかけているように感じたよ。でも、ここを登らなかったら、次の試合に負ける。
ももは上げるたびにがくがくと震え、自らに重りをくくりつけたような感覚で、限界を訴えてくる。でもこの時ばかりは、先生はデスマーチをかけるブルジョワになった。
一階を上がった。踊り場で足を引きずりかけて二階へ。
――とにかく、登り切ったら休みを入れよう。
以前、踏み外しかけて足をひねりかけた経験がある。先生はひたすら足元を見ながらひた走った。
ところが階段が終わらない。
先生の学校は四階建て。屋上までたどり着けば段が途切れ、さほど間を置かず鉄の門扉が姿を現す。最悪、顔を下げたままでも、つむじを扉にぶつけるだけで済むはずだった。
それがもう10階ほどは通り過ぎたはずなのに、階段が続いているんだ。
顔をあげた。そこにあるのは学校の踊り場。掲示板にポスターの類は張っておらず、階層も分からない。
引き返そうと振り返る先生だったけど、先生は目を疑ったよ。
自分の後ろにあるのは、同じような登り階段だったんだ。これまでずっと上がり続けてきたのにだよ? やはり同じように階段先の踊り場が見えて、階層表示がない。
先生はちょうどVの字の谷間にいるようだった。それでいて、戻る道がないんだよ。
足を止めた。疲れて幻覚を見ているのかと思ったけど、乱れた息はなかなか整わない。それどころか息苦しさは増してきて、頭の奥もずんずんと痛み始めた。
鼻の奥もつんとする。思わずうずくまって、先生は足元がぐらりと揺れるのを感じたんだ。
この感覚、知っている。エレベーターが急激に上昇する、あの感じだ。
耳の奥がつまる。とっさにつばを飲み込んだけれど、一時しのぎにしかならない。
火照っていたはずの身体が、一気に冷え込んでくる。着ている体操着に、夏場にもかかわらず霜がこびりつき出して、先生ががたがた震えたよ。
もう息は吸えない。苦しいばかりじゃなく、吸い込んだ拍子に口から鼻から、細かく砕いた氷を注がれたような、痛みと冷たさを感じたんだ。そいつが一気に肺へ滑り落ち、固まった氷のナイフになって、先生を内側からつついてくる。
もう身体を震わせ、体温を守ることしかできない。先生は目を閉じ、一心不乱にこの状況が早く終わるのを待っていた……。
「どうした? 大丈夫か」
不意に頭をぽんと手で叩かれた。
目を開けて見上げると、部活の顧問の姿がある。ここは階段を上り切った先、屋上の門扉の前だった。施錠されたその扉の前で、先生はうずくまっていたんだ。
すでに下校時間は回っており、外は暗くなっている。先生に見送られて校舎を後にしたけど、先生の体操着にはやはり霜が降りたまま。しかも鼻には凍り付いた鼻水がくっついていたんだよ。
もしかしたら階段上りを繰り返す先生を、学校が更なる「高み」を導こうとしたのかもしれないね。