愛情
家族の愛情に包まれて育った子の行く末は。
私は長子で、両方の祖父母にとっても初孫で、大変可愛がられて育った。愛想も良くて、うちに来たお客さんにも懐く子だった。しかしかなりワガママな面もあり、親戚の子を虐めていた記憶があるし、親戚が集まると「お前は悪かった」と言われるのが常だった。
私が四才の時に妹が産まれた。やはり虐めた記憶しかない。彼女は人見知りな性格で、いつも母の後ろに隠れるような子だった。
彼女は小学生になってから親しい友達も出来て、活発な女の子になって行った。
登下校は一緒にしなかった。彼女が歩くのが遅いことに私は苛立ち、ランドセルを蹴っていた。私は家を早く出て、彼女は登校時間にギリギリ間に合うか、という時間に登校するようになった。
私は気は強いが身体が弱かった。季節の変わり目には風邪を引き、喘息の発作を起こしていたし、蕁麻疹も寒くなると出ていた。寒冷蕁麻疹だったようだ。喘息の発作を起こすと私は横になった姿勢は苦しいので、壁に寄りかかって宿題をしたり、本を読んで息を喘がせながら必死に生きていた。負けるもんか、いいややっぱりキツイ死にたい、という考えがぐるぐると頭の中を回っていた。
私が小学二年生の時から参加している喘息患者だけの合宿で、私よりも酷い症状の患者さんがいる事が少しだけ私の生きる励みになっていたのだった。
妹は健康そのもので人見知りも治り友達が増えて、学校から帰るといつも友達と遊びに出掛けていた。私には友達はいなかった。たまにしか学校に行かないのに成績は良くて、また先生に対しても反抗的な生徒だった。先生からは喘息は甘えだと言われていた。私が発作により死ぬ目にあって、夜中に、いや夜明けごろに点滴を受けに病院に行って腕には常に消えない青黒い痣があると言いたかったが、ただその先生を軽蔑していたから私は無視していた。
私は肌も弱くて、カルキでも蕁麻疹を出していた。しかし先生がまたサボる、本当は泳げないだけだろう、と言うので、水着に着替えて先生の目の前で泳いで見せた。喘息患者の合宿で鍛えられていて、私は海でも泳げるレベルだったのだった。先生は無言だった。
私は食事制限もされていて、肉類、白砂糖、生野菜、白米など漢方医学の考えで身体を冷やす食べ物を食べてはならなかった。母がお弁当を作ってくれていたが、いつも根菜の煮物と玄米ご飯の茶色いお弁当だった。不味かった。漢方薬も母が煮出してくれたのを飲まなければならなかったが、黄土色の甘苦いそれを飲む気になれずに、私は母の目を盗んで流しに捨てていた。
私は小学校を卒業する年になった。また嫌いな先生が担任のままだった。両親の勧めで私は中高一貫の私立学校を受験することにした。先生は何を考えたのか、朝のホームルームの時間にみなに私が受験することを告げた。直感で嫌がらせだな、と感じた。そのことは親には伝えなかった。親は権威主義なところがあり、先生、という存在に弱いと何となく私は感じていた。
教室のみなは私を注目してこそこそ話す人もいた。私は孤独だな、と表情は変えなかったが耐えていた。
真冬に受験はあった。幸い体調も崩さずに受験日を迎えられた。結果は合格だった。
私は他県にあるその学校の寮に入る事になった。母は私が一人でやっていけるのか、また私の健康状態を非常に気にしていたが、私は一時でも早く家を出て、私のことを誰も知らない土地に行きたかった。
家を出る日に私の部屋に妹が初めて訪ねて来た。「仲良くしたかったけど、お母さんからまーちゃんが病気になるからって止められてた」と妹は泣きながら私の手を握って来た。「これ、お守り」と滑らかな半透明の石を妹は私に渡した。「そっか。私もいつもいじめてゴメンね」と妹の手を握り返した。
私は中学、高校、大学時代も家には帰らなかった。たまに母から電話が掛かっては来ていたが、母の話を聞くだけで自分の話はしなかった。
大学一年の夏に突然妹が私を訪ねてやって来て驚いた。私は妹がくれた半透明の石をペンダントに加工して毎日身につけていた。妹は、ペンダントを見て、微笑んでくれた。
「どうしたの。お金かかったでしょ。遠いもんね」と私は妹を一人暮らししている部屋に招き入れた。「まーちゃん、全然帰って来ないから来たんだよ」と妹は拗ねた顔をしていた。「まーちゃん、もう発作は起きないの?」と聞かれて、「たまに出る」と答えながら、私は紅茶を淹れようとお湯を沸かした。妹が「お土産があるよ」と、私の出身地の小さな町の和菓子屋さんの一口饅頭をバックから出しながら言った。「懐かしい。。。」と私は紅茶は止めて、緑茶を淹れる事にした。
「何かあったの?」と私は妹に聞いた。妹は黙っていた。あらら、昔のだんまり癖が出たかな、と私は妹の様子を見ていた。
「まーちゃんがいなくてみんな寂しがってる」と妹はつっかえながら言った。私は胸を突かれる思いがした。「大学卒業したら、まーちゃんどうするの?」と聞かれて、私は実は来月にもアメリカに留学する予定でもう日本には帰る気持ちが無い事を彼女に言えなかった。「ちゃんと帰るから」とだけ妹に言った。「狭い部屋でゴメンね。お客さん用の布団無いから、一緒に寝ようか」と私は妹に言った。
妹は私よりも身長が高かったから、抱っこされている気分なった。「あったかいね」と体温が高い妹の身体の熱が心地よく私はすぐに寝てしまった。
翌朝、目を覚ますと妹はもう起きていて、朝食を作りたいのか、冷蔵庫の中を覗いていた。「何も無いでしょ」と私は言って、二人で近所の喫茶店にモーニングを食べに行く事にした。
「まーちゃん、パン食べていいの?」と聞かれて、「食事制限は小学校で止めたの」と答えて「お母さんには内緒だよ」と小さな声で言うと、妹は「うん!」と笑いながら言った。
私には妹の行動が分からなかった。昔ひどく虐めた姉を許せるのか、私には無理だな、と考えていた。
私が普通の食事をしているだけで喜ぶ彼女が何だか異様に感じていた。妹は勘が鋭く、私の心の中を読むように「私はまーちゃんが好きなの」と笑いながら言うのだった。「いつまで居るつもりで来たの?」と私は妹に聞いた。「一ヶ月間」と妹が答えるので、私は焦ってしまった。留学の準備をしなければならなかったからだ。妹はずばりと「まーちゃん、留学するよね」と私の目を見て言った。私は呆気に取られてしまった。どうして?としか考えられなかった。「私も一緒に行くから」と妹が言うから、驚きを通り越して何がなんだか分からなくなってしまった。
「まーちゃんの成績とかね、うちに送られて来るんだよ。留学の事もお父さんもお母さんも知ってるんだよ」と妹が言った。私はただ黙っていた。「まーちゃんが留学する大学の近くにもうコンドミニアム借りてあるよ。一緒に住むんだよ。私は語学学校に行った後に、近くの高校に留学するの」と、妹は顔を紅潮させながら喋っていたが、私は半分も理解出来ていなかった。
逃げたかった。家族からの無償の愛情から。だけれど、やはり逃げられないのだった。
私は笑って、「家事は分担制よ。勉強教えてあげてもいいよ」と妹に言ったら、妹はだらだらと涙を流しながら嗚咽を漏らした。私より大きくなった身体を小さくして彼女は泣いていた。まだ十五才だもんな、と私は妹を哀れに感じた。初めて妹に対して可愛いな、とも感じた。
アパートに帰って、私は初めて自分から母に電話を掛けた。母は私の声を聞いてしばらく沈黙した後に、「身体はどうなの?」と聞いて来た。「平気。たまにしか発作起きないよ。風邪も引かなくなった。私たち留学する前に家に帰るね」と私は言った。母が息を飲むのが電話口から分かった。「明日帰るから」と言って私は電話を切った。
妹が私に飛びついて来て、私はよろめいてしまった。妹にギューっと抱きしめられた。「まーちゃん、やっぱり優しいね」と言われた。「帰る準備をしなきゃ」と私はボストンバックを出して、数日分の衣類などを詰めた。
自宅に約六年ぶりに帰った。驚いたのは、親戚がみな集まっていたことだった。父から挨拶をしろ、と言われて私は頭は真っ白なままに「すいません。ご心配おかけしました」とだけ言った。みなが拍手をしてくれた。また、私の昔のいじめっ子時代の話をする人、身体の調子を聞いてくる人、彼氏はいないのかと聞いてくる人、さまざまな質問に私は答えて回った。父が「姉妹で来月からアメリカに留学する事になりました。今日はその壮行会です」とよく通る声でみなに言ったら、ざわざわとした後に場は静かになった。涙を流す人もいた。母も下を向いて泣いているようだった。妹が「まーちゃんの面倒はわたしがみるから大丈夫です!」と言う明るい声にやっと場の雰囲気が和らいだのだった。
私はその後、宴会になった仏間から庭に降りて、鯉を離している池まで歩いて行った。幼い頃から、鯉が自由に泳ぐ姿を眺めるのが私は好きだった。祖父が私が余りに虚弱だったので、鯉を食べさせようとした時には本気で泣いたことを思い出していた。祖父も祖母も楽しそうな顔をして、私を見ていた。宴会を楽しんでいたはずの親戚たちも私を見ているのだった。私は両手を上げてVサインを出して笑って見せた。私を見て宴会をしていた親戚たちがどっと笑うのが聞こえて来た。
私が使っていた部屋は、私が家を出たときのままの状態だった。荷物を置いて、ベッドに横になって、天井を眺めたら、暗闇の中、星や三日月が光っていた。何だろうと思って、ベッドに立って天井を見上げたら、光る素材の星形や三日月型のシールが貼って一面に貼られていたのだった。
父、母、もしくは妹がいつもベッドにいる私の為に貼ってくれたのだと、今になって気が付いた。涙が滲んで来た。それからは涙が止まらなくなってしまって、久しぶりに喘息の発作を起こして、慌てた親戚の一人が救急車を呼んでしまい、ひと騒動となってしまった。
鎮静剤も打たれて私は病院のベッドで寝てしまい、目が覚めたら看護師さんが点滴を交換するところだった。「息は苦しくないですか」と問われて、私は頷いた。まだ声は出せそうになかった。
両親と妹が病室に入って来て、「大丈夫?」と聞いて来たので、私は唇を歪めて笑ってみせた。妹が私の脈を取り、「早い」と言った。父も母も心配そうな顔をしていた。大丈夫、と言おうとして、私は咳が止まらなくなって、現れた看護師さんから酸素マスクを嵌められてしまった。妹がずっと背中をさすってくれていた。また私はしばらく寝た。
起きたら、喉が枯れて声がおかしい以外は、身体に変調は感じられなかった。妹は、病室の椅子で寝ていた。私はナースコールのボタンを押して、看護師さんに目が覚めたこと、きつくないことを告げた。担当医の先生から、胸と背中に聴診器を当てられて深呼吸をした。先生から「肺の音にまだぜいめい音があります」と言われて、今度は脈を取られた。「まだ百五十を超えていますね」と言われて、口を開けるように指示されて私は舌を出しながら口を大きく開けた。「真っ赤ですね」と言われた。「あと二日くらい入院しましょうか」と言われてしまって私は気落ちした。妹が私の手を握って励ましてくれているように感じた。
退院したら、また家に親戚が待ち構えていた。私は仕方がないなぁ、と思いつつも両手を上げてVサインを出した。また親戚はどっと笑った。
私は結局留学出来なかった。一度家に帰り、みなの愛情を全身で受けて溺れてしまった。私は大学に残り、長い休みには自宅に帰るようにした。就職もしなかった。大学時代に取得した資格で私は自宅で開業したのだった。
妹は大学まで自宅から通って、卒業してから私の仕事の手伝いをしたいと懇願して来た。私はある資格が取れたのなら雇う、と条件を出した。妹は二回目で合格して、今では私の右腕になっている。たまに私は妹に叱られている。
祖父母は今も元気だ。両親は私が仕事を開業して、その調子が良い事に満足しているようだ。
結局囚われてしまったなー、とも感じるが、私は幸せである。
物語の締め方が難しいです。
お付き合いくださり、ありがとうございますm(_ _)m