日本で哲学が「権威主義者」たちの玩具になっているのは皮肉と言うしかない
こんにちは、materialismです。今回も哲学についてです。
前回、哲学について一考察を書いてみたのですが、その反響が興味深かったので、その考察からタイトルのような結論に至りました。
この時点で、お怒りの方や感想欄で反論を書こうとなさる方もいらっしゃるかもしれませんが、少し待ってください。まずは深呼吸して、私の言う「権威主義」とはどういうものか、理解してから感想欄に飛んでくださいね。
権威主義とは、民主主義の反対である、などという大雑把なことを言う人がいたりしますし、権威主義を侮蔑の言葉として使うこともあるようなのですが、
Goo国語辞典では以下のように定義されています。
「権威を絶対的なものとして重視する考え方。権威をたてにとって思考・行動したり、権威に対して盲目的に服従したりする態度。」
それでは権威とは何かと言うと、
「
1 他の者を服従させる威力。「行政の権威が失墜する」「親の権威を示す」
2 ある分野において優れたものとして信頼されていること。その分野で、知識や技術が抜きんでて優れていると一般に認められていること。また、その人。オーソリティー。「権威ある賞を受賞する」「心臓外科の権威」
」
という訳で、このエッセイでは、主に2の意味で「権威主義者」という言葉を使いますので、決して侮辱したり馬鹿にしたりする意図は無いということを、ここに明言いたします。
よろしいでしょうか?
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はい。ここまで読んでいただいた方は私の「権威主義者」の定義を受け入れていただいたということで、感謝いたします。また、ここからは「」も無しで行きたいと思います。同意の上、読み進めください。
さて、哲学の世界で、権威とは一体、何を指すのでしょうか?
それは明らかに、著名な哲学者たちですね。もしくは、その人たちの著作物であるかもしれません。
権威主義者たちは、それらを最重要視します。
なにしろ、権威主義とは「権威を絶対的なものとして重視する考え方。権威をたてにとって思考・行動したり、権威に対して盲目的に服従したりする態度。」ですからね。
それの何が悪い?
と疑問をお持ちの方もいるかもしれませんが、私の調べた範囲では、「我思う。故に我あり」に代表されるように、哲学とは常識に囚われずよく考えることなのです。
その辺の考察は、私の前回のエッセイ「日本で哲学が流行らないただ一つの理由」に書いてありますので、疑問をお持ちの方は、そちらを読んでから反論なり意見なりをいただけると幸いであります。
前回はそこまでで終わったのですが、その感想欄で興味深い反応がありました。
一部を抜き出しますが、
「この研究成果の多さにより分析哲学は他の哲学に勝利しました。」
哲学をよく考えることと定義している私には、「多数決で勝敗が決まること」「哲学に勝敗があること」が理解し難かったのですが、感想を書いた方が権威主義者であるとすれば、解釈は簡単です。
権威とは、「その分野で、知識や技術が抜きんでて優れていると一般に認められていること。」なのですから、研究成果の多さは一般に認められていることに繋がり、そして、より一般に認めれている方が「勝利」するのです。
他にも、私のエッセイをろくに読まずに、デカルトの観念論について語り出す方もいらっしゃったのですが、それも権威主義者であるとすれば説明できます。
つまり、私のような無名のエッセイ書きの文章は、読む価値も論ずる価値も無く、また私のような人間がデカルトを理解しているとは思えないので、ご高説を賜ろうとしてくださったのでしょう。
全く、有難くて涙が出てきますが、これが日本の哲学の現状なんですね。
そう考えると、本屋に並ぶ哲学書が哲学史の本になってしまっているのも納得です。より、権威を正確に理解した方が、哲学的に勝利するのですから……
ただし、それらは、哲学することとは全く別のものであると指摘して、このエッセイを終えたいと思います。要するに、日本における哲学とは、権威主義者たちの格付けの玩具でしかない訳です。
ただ付け加えておくなら、権威主義自体は悪いことだと思いませんよ。
童話にも、裸の王様や王様の耳はロバの耳など、権威により事実が歪んでしまう話が出てきますので、それらは人間の自然なあり方だと思います。
ただ、それらを哲学に持ち込むのは、いかがなものかなあ、と思いましたので、このエッセイを書かせていただきました。
このエッセイを読んでからの、ご意見ご感想であれば、大歓迎いたしますので、よろしくお願いいたします。