桜の下、君は無邪気に笑う
また、この季節がやってきた。
俺は、通いなれた道を辿り神社へと向かう。階段を一歩一歩登る手に下げるのは、缶ビールが入ったコンビニのビニール袋。そんなささやかな貢物が、日々のデスクワークに鈍った身体を励ます。
長い階段を登り終えると、目の前に古い社がある。特に名のある神社というわけではないが、地元の人間に親しまれた小さな社。それに寄り添うようにして、俺よりも遥かに時を重ねたであろう立派な桜の木がそびえる。
満開に咲き誇るピンクの花弁に囲まれて、そいつは右手を掲げた。
「よお。来たね、少年」
疲れを訴える両足を宥めるために、軽くその場で屈伸をする。それから俺は、桜の枝に腰掛ける彼女に見せつけるように、右手のビニール袋を高く掲げた。
「誰が少年だ。お前の分も俺が飲んでしまうぞ」
「そんな殺生な。どうか、ご無礼許しておくんなし」
芝居がかった声でそういうと、彼女はひらりと枝から飛び立つ。音もなくゆっくりと地に降りたったそいつは、悪戯っぽい笑みとともに腰に手を当てた。
「私からみれば君はいつまでも少年だよ。なんたって私は、幽霊だもの」
そいつに初めて会ったのは、俺が中学生に上がりたての、やはり桜の季節だった。
その時、そいつはどこかの誰かが置いていった缶ビールを片手に、枝に腰掛け桜の花々をひとり眺めていた。花見客にしては異様な光景にしばらく目を奪われていたら、俺の視線に気づいたそいつは驚き、照れくさそうに舌を出した。
以来俺は、毎年桜の季節になるとここに来ている。なぜ桜の時期だけなのかといえば、俺がそいつを見えるのがその時だけだからだ。
「叶わない恋をしたの。死んでも未練があったから、こうして縛られちゃったのよ」
自分について、そいつはそう説明した。昨日の夕飯について話してるかのような軽い調子だった。もうずっと前、俺どころか俺の爺さんが生まれるよりも前のことだという。
俺は尋ねた。まだ、その男のことが好きなのかと。そいつは「うーん」と唸った。
「わからないよ。顔も覚えてないもの。けど、まだここにいるってことは、どっかでまだ好きなのかもね」
「じゃあ、他に好きな奴ができたら、お前は満足して消えるのか?」
「むつかしいことを考えるね、少年」
眉を寄せた顔には、このマセガキめと書いてあった。けど、くいっとビールを飲んだそいつは、なぜかご機嫌に頷いた。
「だけど、いいね。新しい恋をして、いっぱい幸せになって、満足したらふわっと消える。うん、そうしよう!」
その、嬉しそうな横顔を前にして。
たぶん。たぶんだけど。
このなんてことないやり取りが、こいつの方向性を決めたのだと。
俺は漠然と思ったのだ。
プシュッと小気味の良い音が、ふたつ重なる。こくこくと豪快にビールを喉に流し込み、そいつは満足そうにぷはっと息を吐き出す。
となりで俺は、チビチビとビールを舐める。こうなると、こいつはめんどくさい。チェシャ猫みたいににんまりと唇を吊り上げ、「おやおやおやおや」と俺にまとわりつく。
「その飲みっぷりはいかがものかね。まさかまだ、この味がお気に召さないというのかい?」
「うるさい。俺は炭酸が苦手なんだ」
「それ去年も聞いたよ。けど君、昔はよくコーラとかサイダーとか飲んでたじゃない。はい論破!」
「そんな妙ちくりんな記憶、捨てちまえ」
「どうでもいいことのほうが覚えちゃう。だって人間だもの」
「かわいい、かわいい」と、歌うように彼女は口ずさむ。
子ども舌でかわいい。
素直じゃなくてかわいい。
背伸びしちゃってかわいい。
ひとつかわいいが重なるたびに、俺の表情はひとつ渋くなる。ぐるぐる、物申したいむずむずが腹の内に溜まり、カンカンと指先で缶を弾く。それを見て、そいつは首を傾ける。
「ご機嫌ナナメだね。美人なおねーさんにかわいがってもらって、君はうれしくないの?」
「お前のそれは、愛玩的なやつだろう。うれしいどころか腹がたつ」
「あまのじゃく。じゃあ、どう風に扱ったら君は満足なわけ?」
「――教えてやろうか?」
ビールを置いて、そいつを睨む。知りたいなら、教えてやってもいいけど。そんな想いを、言外に伝えながら。
じっと見つめていると、そいつは――彼女は、とたんに困った顔をした。大きな瞳がきょろきょろと泳ぎ、頬をかき、俯く。さらりとした黒髪からのぞく耳が、ほんのりと桜色に染まる。しばらくして、「ごめん」と、消え入りそうな声が響いた。
鼻先を、ピンクの影がかすめた。顔を上げれば、風が枝を揺らして視界いっぱいに広がる桜色をあたりに散らしていた。
ああ、またこの季節がやってきた。
そして、相変わらず終わっていく。
自分を一途な男だと言うつもりはない。ほかに惚れた相手はそれなりにいたし、恋人がいたこともある。
けれども、あのとき。何気ない一言が、彼女の最期を決めてしまった、あのとき。
彼女の無邪気な笑みを、俺だけのものにできたらなんて。
そんな願いを、抱いてしまったんだ。
ぐいっと缶を傾け、ビールを喉に流し込む。独特の苦みが鼻の奥をツンと刺激し、ほんの少しだけ涙が滲む。それでも缶の中身は半分ほど残っていて、たしかにこいつの言うように俺はまだガキなのかもしれないと、そんなことを思う。
なあ。お前、俺のことを好きだろう。
わかるさ。俺もお前と、同じだから。
「あーあ。せっかく綺麗なのに、散っちゃうね」
俺につられて顔を上げ、そいつは残念そうにつぶやく。
「なんだか私、寂しくなっちまうわ」
「大丈夫だ。桜は、来年も咲く」
ぷらぷらと、彼女は缶ビールを揺らす。しばらくしてから彼女はひとつ大きく頷き、満面の笑みを浮かべて缶を掲げた。
「本当だね。来年も、君と会える!」
そいつに付き合って、俺も缶を掲げる。二度目の乾杯をしてから口に含んだビールは、やっぱり俺には苦かった。
たった三文字を、今年も告げられそうにない。けれども、それも仕方のないことだ。俺はまだ彼女を失いたくないし、彼女もそれを望んでない。
だけど、もし。
もしも、彼女が終わりを望む日が来たら。
そのとき俺は、溢れる想いのすべてをお前に伝えよう。お前はせいぜい恥ずかしがって、誰よりも幸せになればいい。
そして、最期は俺がおくってやる。
安心しろ。俺は、お前が消えるその瞬間まで、笑顔でいてやるから。
「――――、」
通り過ぎる風に紛れて、彼女が俺の名を呼ぶ。
そしてぽつりと、「ありがとう」と言った。
彼女のいろんなものが詰まったその一言を、俺はあえて素知らぬ振りで受け取る。たまにはセンチメタルな気分に浸るのは悪くないが、いかんせん俺たちの時間は限られる。
「いいから飲むぞ。まだ後が控えているんだからな」
傍らに置いたビニール袋を持ち上げて、俺は彼女を急かす。
それを見たそいつは、やっぱり無邪気に笑うのだった。