火葬
ともりんちょさまと言う方が、考えたお話を文にしました。
晴れ渡る空は雲ひとつなく、この屋上から飛び降りて、青春とグッバイするには、うってつけの天候だった。思えばわたしが毎日見上げてきた空は、狭くて四角い病室の天井だった。十一月の強い風が、眉の下で切り揃えた前髪を揺らす。
『火葬』
いつもは鍵が掛かっている屋上の扉。この日、この時間に開いていることをわたしは前もって知っている。
味気ない病院食を食べ終えたわたしは、お隣のおばあちゃんに挨拶を済ませ、作戦を決行する。C病棟七階、一番角の大部屋に入院するわたしは、ナースステーションを通ることなく、屋上へ続く階段まで行ける。もっとも、万年人手不足であるこの病院の看護師が、ナースステーションを横切る患者一人を気にかけるとは、到底思えないのだけれども。
作戦通りに開け放った重たい扉。暫く吸うことのなかった新鮮な空気に、思わず咽せそうになる。飛び降り防止のフェンス越しに広がる一大パノラマ。わたしが住んでいた隣の町までよく見渡せた。クラスのみんなは元気だろうか。結局文化祭にも、体育大会にも出ることは出来なかった。この数ヶ月の入院で細くなってしまった腕では、フェンスの向こうに広がる世界にも、自由にも、未来にも届かないのである。
きっと数ヶ月の入院生活で、わたし自身の免疫が弱くなっているのかもしれない。だって何故だか涙が止まらないのだ。
一度出始めてしまった涙は止め処無くて、いよいよわたしは、嗚咽を漏らして泣いてしまった。こんなことなら生まれつき病気で生まれれば良かった。そうすれば最初から何も手に入らなかったのだから。人は手に入らないことよりも、失うことの方がきっと悲しいんだ。
「おいおい、立ち入り禁止だぞ。ここは」
声、そこに声。白衣の上に羽織った、冴えないジャンパーのポケットに手を突っ込んだ男が一人。あまりに見た目が若いものだから、始めは研修医だと思っていたのだけれど、れっきとしたわたしを受け持つ主治医である。喫煙所の無い大学病院の屋上で、彼が隠れてこっそり煙草を吸っていることは、既にリサーチ済みである。女子高生を舐めてはいけない。
わたしは先生に顔を見られないようすぐさま後ろを向いて、袖で涙と鼻水を拭った。
「そうだよ。立ち入り禁止だよ。うちがうっかり口を滑らせれば、先生だって叱られるんだからね」
「おっ、脅迫か? わかったわかった。せめてもう少し暖かい格好をしろ」
そう言って先生は着ていたジャンパーを脱いで、わたしの肩に羽織らせる。そのジャンパーは、煙草臭いのだけれども、少しも嫌じゃなかった。
「なんでこんなところに来た」
「ねえ、先生。うちはいつ退院できるの?」
わたしは質問に質問をぶつける。そうしたらこの人、ありえないことにそれを鼻で笑った。性格悪っ!
「はいはい、大げさ大げさ。んーっ半年。半年だけ我慢しろ。学校行けるようにしてやるから」
何も無くしてしまったわたしの世界には、この性格の悪い先生がただ一人の味方なのである。この世界に一人取り残されたわたしを、彼は助けてくれると言う。唯一無二なのだ。信じるしかないのだ。わたしはこの屋上に何をしに来たのであろう。このフェンスの向こうへ飛び降りて、現世とグッバイしようと思っていたのであろうか。それとも先生に何か言葉をもらいに来たのであろうか。今となっては自分自身の動機にさえ、確証がもてなかった。
「ねえ、先生。明日もここに来てもいいかな」
「だめ。ここは俺の場所」
「あー。そんな事言うなら看護師にバラすからねー」
先生は困った顔をして、「好きにしろよ」とわたしの頭を撫でる。大きな手の薬指には、銀色の指輪がきらり。至極当たり前の話、わたしにとって先生は唯一無二だけれども、先生にとってわたしは唯一無二ではない。そんなことぐらい解る程度には、分別が付く歳だと思っている。ただわたしの世界には、この人しかいないのだ。それがなんだか泣けるほど悔しい。
「解ってるから。もう少しだけ辛抱しろよ。さあ、風邪引くから行くぞ」
そう言って彼の右手は、わたしの左手を強く握る。強い向かい風に、わたしが飛ばされないよう、大事に大事にしてくれているみたいで、胸が高鳴ってしまい、首を横に振る。そんなにわたしの世界に踏み込まないでよ。どうしてくれるんだ。叶わない未来を想像してしまうじゃないか。
いつかわたしが病気で死んで、燃えて骨と灰となったら、煙になった方のわたしは、原子となってあなたの元に行こう。そんな風に思っていたのに、わたしの命を救うだなんて、あんまりじゃないか。助けてくれるからこの先生のことが好きなのに、助かりたくないわたしは、なんと傲慢なのだろうか。
退院の日を待つカウントダウン。窓から見える並木道。春には桜の花が咲き乱れ、やがて花は散り、緑の葉が生い茂り、いつしか朱みが入り、冬には枯れ行く。
「退院だ。よく頑張ったな」
いやだ。離れたくない。一〇〇回目をゆうに超える先生の診察。入院生活最後の診察。わたしは先生に抱きついた。そうするとやっぱり先生の着る白衣からは、院内で吸えないはずの煙草の匂いがした。
駄目。いやだ。現実に戻りたくない。怖い。ねぇ、お願いだからまた強く手を握ってよ。離さないでよ。先生は困ったような顔で、わたしの頭に手を置く。
「別に治療が終わったわけじゃない。きみはこれからも暫く通院しなくてはならないし、リハビリも終わりじゃない。当分これからも会える。でもな……」
予言しよう。きみは俺のことを直ぐに忘れるよ。先生はわたしの頭に手を置きながら、そう続けたのだ。
退院の日は、ママが迎えに来てくれた。病院の敷地から一歩外に出たら、わたしの中の止まっていた時間が動き出す。外の世界はとても寒くて、ママはわたしに温かいココアを買ってくれる。進級出来なかったこと。友達と疎遠になったこと。わたしの入院に沢山のお金が掛かったこと。きっとこれから氷柱のように尖ったさまざまな現実が、表通りにほっぽり出されたわたしを突き刺すのであろう。ねぇ、先生。寒いよ。怖いよ。薄々感じていた。もうわたしは、この病院を囲う塀の中でしか生きられないことを。
寂しいぐらいにリハビリは順調だった。暖かかくなる頃には、体育の授業にも出られるようになった。週二回の通院は、週一回となり、二週間に一回となり、ついには月に一度だけとなった。
わたしの入院には、たくさんお金が掛かった。わたしの家は、決して裕福と呼べるような家庭ではないのに、パパもママもわたしを大学に行かすつもりのようだった。少しでも足しになればと、わたしはアルバイトを始めた。自宅から程近い場所にある、制服が可愛いカフェのウェイトレスである。我ながら中々にして良いチョイスだったと思う。
「高校生組は十時に上がりなよ」
店長にそう言われ、わたしともう一人は、みんなより先にバイトを終える。同学年の男の子。もっともわたしは留年しているので、歳は一つ下だ。野球部だった彼は、怪我で部活を辞め、時間を持て余しバイトを始めたらしい。出会った頃、坊主だった髪の毛は、幾らか伸びてきたようだ。
「なあ、どこの大学行くの?」
彼は自販機でココアを二つ買って、内訳一つをわたしに渡す。そして駐輪場に停めてある自転車の鍵を開け、それを押しながらわたしの隣を歩く。バイトを始めた時から、やけに馴れ馴れしく話しかけてくる彼。歳の近い男子というのは、なんだか気持ちが悪くて、初めは適当にあしらっていたのだけれども、慣れとは恐ろしいもので、不覚にも彼とは、共にご飯を食べに行く程度に、打ち解けてしまっていた。
「うーん。自分の学力に見合ったところ」
「そっか、俺もそこに行こうかなぁ」
「なんでよ! ばっかじゃない? あんたより、うちのが遥かに成績良いんだよ」
じゃあさ。と彼はわたしの言葉を遮る。
「もしも。同じ大学行けたら付き合ってくれよな」
それは月も見えない夜だった。いつものバイト帰り、ちっともロマンチックじゃない普通の夜だった。わたしは生まれて初めて異性から告白された。
「ごめん。好きな人いるんだ」
暫しの沈黙。あの日、先生が掴んだ左手がじんじんと疼いた。解ってる。外の世界が左手の熱をどんどんと奪っていることを。予言通り、既にわたしは先生のことを忘れ掛けていることを。
「そっか。すまない。忘れてくれ」
自転車に跨り、立ち去ろうとする彼。
「ねぇ、待って。今どんな気持ち?」
「お前、普通それ聞くか? 恥ずかしくて泣きそうだ」
暗くて解らないけれども、きっと彼の顔は、真っ赤なのであろう。
「うちも……告白してみようかな」
「だからさ、それ普通、俺に言うか?」
「それでさ、絶対振られるからさ。そしたら、あんたが慰めてよ」
「うわっ、信じられねぇ。どんだけジコチュウなんだよ」
そんなことを言いながらも優しい彼は、振られて泣きべそのわたしを、必死に慰めてくれるのだろう。甘えてほんとにごめんね。
もう先生の診察は、残すところあと僅かだ。刻一刻とお別れの時は近づいている。なのにそれを受け入れられる自分がいることに、わたしは気づいてしまっていた。とっくに薄れ、失われつつあるこの気持ちに、何らかの答えを出したかった。あの頃、わたしの世界に味方は、先生しかいなくて、自分より大人で、無条件で助けてくれる彼に、憧れを抱いていたのだ。
わたしが育てた気持ちは、秋に色づいたとしても咲くことはなく、今年の冬には枯れ果てるのだろう。
ねぇ、先生。大好き。この気持ち忘れたくないよ。でもどんどん忘れていくんだよ。だからね。先生。
「あんたみたいに一度だけ、花火を打ち上げてみたいんだよね」
「なんだよ。それ応援できないぞ。それに花火って燃え尽きて灰になるじゃん」
そうして、灰になったこの気持ちは、地に落ち、また春に芽吹くかもしれないのだから。
「きちんと慰めの台詞考えておいてよね。多分うち泣いてるから」
終
このお話の著作権はともりんちょさまに全て委ねますー。
もぐりんちょはねーわー。
恥ずかしいわー。