第三話『手段を愛するな』
誰かから望まれた事と、自分のやりたい事が合致した人は幸せである。
ならば、僕は今、確かに幸せだった。
運動できることは、幸せだった。
僕の胸が上下する。横隔膜が激しく動き、肺胞が酸素を取り込む。
心臓は細胞の隅々にまで血液を送り込む為に激しく収縮を繰り返していた。なんという元気な心臓なのか、僕は僕自身の肉体の素晴らしさに感動しつつも、肉体の欲求に完全に支配されていた。
酸素が欲しい、酸素が欲しい。
天上をガラス張りのドームに覆われた庭園の中、僕は荒々しく呼吸を繰り返した。
「シオン、息切れですか?」
長い棒――魔術の発動媒体としても扱われるロッド――をまっすぐに構えたモモが首を傾げながら質問してくる。
僕は首を横に振った。酸素が欲しい、酸素が欲しい。今は返答のために口を使う事さえ面倒だ。
「苦しそうな割りには楽しそうにも見えます」
僕は笑っていたのだろうか? そうかもしれない。
何せ僕、シオン=クーカイの前世ではあらゆる運動に関わる夢を諦めるしかなかった。
だからこそ、どれだけ膨大な量の運動をしても答えてくれる健康な心臓が嬉しかった。呼吸ができる、胸が苦しくない。全力で走っても医者に止められることがない。
なんてすばらしいんだ!!
休憩は終わり、と言わんばかりにモモはロッドを動かす。
腰は動かさず、肩、腕、肘、手首の関節を滑らかに連動させて動作をコンパクトにし、突きを繰り出してくる。
身を捻ってかわし、後ろへステップ、距離を開けてからロッドで払う。
モモはそれを僅かに身を沈めて避けた。
だが、僕の攻撃はまだ終わっていない。
その払いの動作のまま全身を一回転。ぶるんっと片足で回転しながら後ろ回し蹴りへと繋げる。
「悪くはありませんが――」
だが聞こえるのは狼狽や驚きの声ではなく、淡々と事実を指摘するかのようなモモの言葉。相手の上半身を狙って繰り出した蹴りが空を切る。
こちらの動きを読んでいた?! 驚く暇もなく、彼女のロッドが僕の軸足――アキレス腱のあたりにぶつかり、そのまま足を払った。重心を引っこ抜かれ、思いっきり転がされる。
「――褒めるほどでも、ありません」
「おわぁ?! ……あれっ?」
そのまま背中から地面へと激突する――と思った瞬間、何かに後頭部を支えられる。
見上げればドーム状のガラス張りの天上と、彼女のふんわりしたスカートが端に写っている。そしてスカートから伸びる彼女の足がさし出され、僕の頭を地面との衝突から保護していた。僕は本気で勝負していたけれども、彼女にはこっちの身を気遣う余裕がある。技量の差がありすぎた。
モモは僕の頭を地面にそっと降ろすと、ロッドの先端を向ける。
詰みだ。
魔術の発動媒体としても使えるロッドは、いわば銃口に等しい。実戦であればここから破壊的な威力の魔術を零距離から叩き込まれる。魔術障壁を張り巡らせることも出来ずに倒されるだろう。
「……一応質問をしたいのだけど、いいかな、モモ」
「シオンのもっとも優れている点はその学習意欲の高さと思います。どうぞ」
モモがまた目に見えない手段で連絡をすると、水とタオルを用意した召使いロボットがやってくる。
僅かに塩気を感じる水を飲みながら質問した。
「僕は確か、ものすごい量の魔力を持ってるんだよね? そっちの練習はしなくていいのかな?」
「まず、最初の質問は肯定します。
マナは空中に、それもなるべく高い場所へ集まる性質を持ちます。そしてシオンを生み出しだあの活性水は天蓋領域のマナを液体の形で抽出したもの。その人体を構成する水分は六割から七割。ゆえに、この天蓋領域の水で生まれ、育った貴方は膨大な魔力を保有しています」
モモは手を伸ばし、僕の髪に触れた。
「シオンの髪は銀色ですが、光を浴びると虹のように多彩な輝きを見せます。
これは豊富な魔力を有する事による変化です。そう、シオンが先日食べた虹色蚕と同じように」
しかし、と無表情のままモモは言葉を続ける。
「魔術の練習の前に、まず肉体を正確に扱う訓練こそが必要です。
息の上がった状態で正確な魔術の詠唱が行えますか? 魔術は強力な戦闘手段です。ですが、至近距離で繰り出されるダガー、ナイフ術は一瞬で相手の喉笛を掻き切る。その時に貴方の命を守るのは練習を積み重ねた接近戦の技術です」
「……なるほど、分かった」
僕も男の子である。呪文を唱えて凄い現象を引き起こすとかワクワクするじゃないか!
だが、この鍛錬がモモの親心めいたものであると、なんだか照れくさくもある。自分が心配されていると思うとむず痒い気持ちが僕の心を乱すのだ。
僕はロッドを手に取った。
『王国』の魔術師は長杖を専門に扱う訓練を積んでいたという。もちろん杖が魔術の発動媒体として優れていたことは知っている。
けども、それ以上に棒術とは武装した相手を殺さずに無力化する事に適しているのだ。
単に敵を殺すならば魔術を用いればいい。敵を無力化する棒術に僕は武人の慈悲を感じていたから、何となく気に入っていた。
「さぁ、次はダガー術の訓練となります」
「よーし来い!」
モモはそう言うと、模擬戦用のダガーを一つ、こっちに放り投げてくる。
接近戦でのダガー術から身を守るためには、脅威を深く知ること。
そして深く知るには自分もその技術に精通すること。模擬剣を手の中でくるりと一回転させる。
しかしモモは、相変わらずの無表情の中に、軽侮さえ込めてじっと見つけてくる。
「な、なんだよ」
「ダガー術の講義で教えたはずですが?」
そういえばなにか言われたっけ。
「ダガー術とは、格闘も内包した接近戦武器であると同時に奇襲の武器でもある……だっけ?」
「はい。わたしを生み出した『王国』における最高の魔術師、航空戦力の魔女騎士の死亡率は、同じ魔女騎士同士の戦いを除けば、ダガー術の使い手による超接近戦。いいですか。どれほど卓越した魔術師であろうと、友人知人のふりをして至近距離まで近づいたダガーの名手にはまず勝ち目はないのです」
「ほとんど暗殺者の手段じゃないかな、それは」
「同意します。優秀な魔術師の資質は遺伝しやすく、『王国』は資質を持つものを貴族として遇し、身内に取り込んできました。
『王国』以外で優秀な魔術師は少なく、それ以外の人々は正面からの戦いでは勝てないゆえに、暗殺の技を練り上げました」
ふぅむ、と頷き。先ほどの言葉の中の疑問をぶつける。
「ところで、魔女騎士というのは?」
「それはまた今度」
モモは無表情のまま、ないしょ、というように形良い唇の前でひとさし指を立てた。かわいいしぐさだ。
そのまま鞘に収まった模擬用のダガーを腰の当たりに吊るす。
その上で腰の飾り布をかけてしまえば、一見非武装に見えるだろう。
「ダガーに特に構えはありません。なぜなら、熟達したダガーの名手の攻撃は非常に突発的、奇襲的で、一瞬で終わることも多く、攻撃された側は武器を抜く暇さえありませんでした」
日常から一瞬で殺し殺される非日常へ。刃物の鋭さよりも、むしろ害意を隠して近づいてくる相手こそが恐ろしいという事なのだろう。僕はそう思いながら頷いた。
モモは一歩引いてから型を実演してくれる。
「ダガーの初撃は逆手に握り、抜刀と同時に斬りつけます。その一撃目はまず親指、手首を狙うことが多い。そこから頚動脈へのなぎ払い。もしくは刃を平に構えて肋骨の隙間へと刃を突き込み、切っ先を心臓へ通してきます。それら一連の動作を目にもとまらぬ速度で繋げてきます。覚えてください」
「……手首は出血量が多い急所からだよね? それは分かるけど……親指?」
「親指がないと武器を握れませんよ? 攻撃が決まればあとの展開が楽になります」
「どれどれ。……あ、ほんとだ」
実際にやってみると良く分かる。僕は親指を除く四本の武器で模擬剣を握り締めてみるが、親指が使えないと握りが甘くなる。
この状態で相手の攻撃を受け止めるのは絶対に不可能だろう。
「わたしは以降、勉学、睡眠の時間を除く時々に、このダガーを用いて奇襲を仕掛けます」
「うえっ?! まさかお風呂の時間も?!」
「お望みとあらば」
「いらないいらない」
暖かいお湯の満ちた湯船に身を浸すのは、この筋肉痛と打ち身でいためた体にとっては最高の癒しなのだ。そんな時間の間ぐらい安らぎが欲しいと思って何が悪い。
ぶんぶんと首を振る僕に、モモはなぜか残念そうに唇を僅かにひん曲げた。この無表情がデフォルトの彼女の考えもなんとなく理解できてきた気がする。
モモはメイド服の裾を治すと、僕をじっと見つめた。
「いいですか、シオン」
「うん? ……なに、改まって」
「かつて魔術によって隆盛を誇った『王国』には、魔術こそ至高の力と考える人々が大勢いました。ですが、先ほど教えたダガー術で倒された魔術師もまた、大勢いました。ほとんどの魔術師はダガー術を仕掛けてきた相手に、無詠唱の魔術を放とうとしたのです」
「それは……手遅れなんじゃないかな?」
「はい。ダガーは無詠唱の魔術より速い。そして――大半の魔術師はダガー術の脅威を知ってもなお、魔術以外を学ぼうとはしませんでした。魔術に誇りを持ちすぎたのです。手段を愛しすぎたのです」
こくん、とモモは頷く。
「魔術もまた手段でしかありません。ダガー術の奇襲に対して、ある魔術師が一つ教えを残しています。
『魔術に頼るな。素早く腕、手、肘で戦うべし。常にできる限りのことをし、相手のダガーを奪い、相手を打ち、腕を折り、動きを封じ、投げ飛ばすべし』と。
拘ってはいけません。手段を愛してはいけません。もっとも優先するべきは勝って生き残ること」
そうして、僕の眼をじっと見つめた。
モモの目の水晶が僕を写す。そこに浮かぶ感情は、不安と心配。僕の身を案じる強い思いやりの光で。
僕は、彼女に心配されているのだと知ると、急に気恥ずかしくむず痒いような感覚に襲われた。
「ありがとう。モモ」
「?」
意味が分からない、と言うように小首を傾げるモモ。そのどこか幼いしぐさに微笑みながら、僕は感謝を伝えた。
「僕の事を心配してくれて」
「………………」
モモは、その言葉に無表情を浮かべて沈黙していたが……その感情を見せない美貌の下で様々な気持ちがぐるぐると渦巻いているような戸惑いが透けて見えた気がした。
スカートの布地を両手で掴み、ぐりぐりと指先で弄りながら、なんと言うべきなのか迷った様子のまま……おずおずと口を開く。
「……い、いえ。……任務ですので」
「ふぃ~……」
空を見上げれば天井に投影された星の輝きが見える。『天蓋領域』と呼ばれる高高度で星空を見上げながらお風呂に入るとか、前世でも味わったことのない極上の体験だった。
あったかいお湯に身を浸し、全身を伸ばす。
「くぅ~……!!」
まるでお湯の中に疲労物質である乳酸が溶け出ていくかのように、疲れがほぐれていくのが分かる。
ホカホカと体の芯まで労わるような心地よい温もりに息を吐きながら、湯船の縁に頭を置いて考え始めた。
棒術。ダガー術。
そして後で魔術も教えてくれるらしい。
どうもモモは遠距離、中距離、近距離と全距離で戦えるオールラウンダーを生み出す事が目的のような気がする。
「……運動は嫌いじゃないけど」
体を動かすのが楽しい!! 素振りを繰り返し型をなぞるごとに正確さを増す指先の働きが面白い!!
それに何より、走ってもいい!! 自分の両足で走ることがこんなに楽しいなんて!!
けれど。不安もある。
この航空母艦『ムーンボウ』は非常に安全だ。僕は地上に降りて人々を導く天上人らしいけど、自衛の手段を覚える必要があるということはやはり地上は平和ではないのだろう。
これから先は危険が待ち受けているのか? もし敵がいるとしたら、どんな奴だ?
それになにより……どうしてこの船には、僕と、この船を制御するモモ以外の人間が存在しないのだ?
かつての『ムーンボウ』が種の保存も目的としていたのなら、船の中に家族が、子供がいてもいいはずなのに。
なのに、なぜ僕は女性の子宮ではなく、培養槽で生まれたのだ?
どうして僕は一人なのだ?