プロローグ
初めまして、八針来夏と申します。
この作品は昨年に、『異世界空中活劇!』というタイトルと『猫髭さわり隊』という名前で一時的に連載していました。
ただ、昨年はちょっと胃に来るようないろいろがあって取り下げており、今回改めて修正と改稿を加えて投稿する事に致しました。
よろしくお願いします。
僕は、空を飛びたかったのだ。
それもジャンボジェットのような、大勢の荷物や乗客を乗せた鈍重な飛行機ではない。乗員は搭乗者一人で、自分の意のままに動かせて思うまま空を飛べる飛行機械を操りたかった。
現代日本でその夢を叶えようとするなら、やっぱり自衛隊に入って空自を志すのが常道なのだろう。
けども……その夢はかなわなかった。努力が足りなかった訳ではない。
しかし戦闘機のパイロットは激務だ。高度な操縦技術や専門知識はもちろん、肉体を限界まで酷使する過酷な戦闘機動を行う必要がある。
そして。
僕の脆弱な心臓は。
僕の望む高みに付き合ってくれるほど元気ではなかった。
悲しいし、悔しい。
それでも夢を捨てきれず、泣く泣くあきらめた夢の残骸を掴むかのように戦闘機の開発者を目指した。
子供の頃の憧れの翼を手に入れる事はできなかったが……それでも僕は自分の人生が無為なものであったなどとは思わない。
太陽の光がまぶしい。
『それ』は、一瞬陽光を遮るようにエンジン音の爆音を吐き出しながら飛翔していく。
空気抵抗を考慮したセクシィな流線型の躯体、双発式のエンジンノズルから炎の尾を吹きながら空を舞う機体。
護国の剣のその切っ先、空を守る戦闘機。僕は感極まって心の中で呟いた。
我が翼よ、行け、高度一万へ。
飛ぶ。飛んでいく。計算通りの素晴らしい加速力でマッハに到達し、上空へと舞い上がって雲をぶち抜いた。
それを見て、緊張の糸が切れたのだろう。生涯最後の大仕事として手掛けた機体が完璧な性能を発揮したのを見届けて――僕の心臓はとうとう限界を迎えようとしていた。
体の全てが、水を含んだ綿のように重くなり、体を支える杖を手放してがっくりと膝を突く。
「せ……い、先生! ……おい、心臓だ、強心剤を、早く!!」
「……い、誰か救急……」
「しっかり……っりしてください!」
胸を自然と抑え込む。
……今まで僕の人生に付き合ってくれてありがとう、我が心臓よ。
お前はどうしようもなく軟弱で、運動に関する全ての夢を僕に諦めさせた。
だが、僕が満足いく完璧な仕事をするまで頑張ってくれた。
心臓が苦しい。だがこの苦しみも痛みも僕が生きている証なのだ。愛しくて大切で、勿体ないからこの痛みは誰にも分けてやる気にならない。
目の前が暗い。思考がぼやける。心停止に伴い、脳へと供給される血液が減少し、正常な働きを行えなくなりつつある、そんな事を考える。
過度の加速Gで眼球の血流が阻害され、目の前が暗くなるブラックアウトもこんな感じなのかな?
痛みが薄れていく。これが、死なのだと実感する。部下の声が遠くなっていく。
痛みが生きている証ならば、やわらぐ痛みは、今自分が死にかけていると告げていた。
だが悪くない。心残りの仕事は完成したし、あとは部下たちが上手くやるだろう。
心置きなく、満足と共に、肉の痛みと苦しみから解放されるんだ。
救命措置を行おうとする部下たちを手で制そうとする。必要ないんだと答えようとしたが、ちょっと困ったような笑顔しかできなかった。こんな満足した気持ちで死ねて僕は幸せなんだ。僕は今、死ぬ過程という奴をけっこう面白がっているんだ。
ああ、もう目の前がまっくらだ。まるで母の胎内で微睡む赤子のように再び永遠の安らぎの中に沈んでいく。
いままでありがとう、わが心臓よ。
……疲れたろう? ゆっくりとお休み。
……とくん、とくん、とくん、とくん。
……とくん、とくん、とくん、とくん。
リズミカルな心音が僕の耳を打つ。
まるで頭の中に心臓が引っ越してきたようにはっきりと、心音が聞こえる。
ここはどこだろう? うっすらと目を開けばしわ一つないなめらかで綺麗な掌。
(……誰の手なのかしらん?)
こてん、と首を傾げた。
僕はもう半寿も過ぎたお爺ちゃんでしわくちゃだったから、自分の手じゃない事は確かだ。
徐々に思考が明瞭になってくる。……ああ、あの後病院に搬送されでもしたのだろうか。
と、するとこの手は看護婦さん? と思って言葉を発そうとした瞬間――
「ごぼがばばばばば……?!」
そこで僕はようやく、肺腑を、口内を、液体で満たされている事に気付いた。
「がばばばばばば?!」
泡を食って両手をじたばたさせ、酸素のあるはずの上を目指すが……見上げれば、そこは黒い頑丈な蓋に覆われている。どんどんと叩いても開く様子はない。当然酸素などなく、このままあわや溺れ死に……と、そこまで考え……僕は事態が妙な事に気付いたのだった。
そもそも、なんで息苦しくないのだろうか?
慌てて両手を動かすと共に、目の前の若々しい指先が水をかく。そこまで行って、僕はようやくこの腕が自分のものであると実感した。
そして、僕と僕を包むこの液体が大きなガラスの円柱の中にあるのだと気づき……ガラスに写るその顔が、自分のものであると理解した。
誰だお前。
そう液体の中で声を発すると、目の前の少年も同様に口を動かす。
誰だお前。僕はもう一度心の中でそう繰り返した。
室内灯の光を反射して煌く銀色の髪。まるで海藻のようにふわふわと水中を漂っている。目は限りなく黒に近い紺色。それを見て僕は成層圏間近の、宇宙と空の境目の色を思い出した。
細い顎と形良い目鼻。着飾れば少女と偽れそうな絶世の美貌。一度も剃刀の刃を当てた事のないような中性的な顔立ち。肌は病的に白い。年齢は十歳程度かな?
……と、そこまで考えたところで、僕は恐ろしい事を想い出した。
まったく別人の肉体、見覚えのない機械装置。かつての僕の若かりし日とは似ても似つかぬ美少年顔、むしろ少女と言ったほうがしっくりくる顔立ちだ。というか、この体は本当に男なのか? これほどまでに過剰な整形手術を受けたのだ、ほんとに残っているのか?!
……頼む、少年であってくれ!! どっくんどっくんと心臓が恐怖と緊張で鳴り響き、恐る恐る下を向けばそこには――。
「ごっばぁ(あったぁ)……」
男の子であった。
よかった、と心からそう思った。