04
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家に帰った後は、そのまま魔術式の研究室へ。昼食までにはまだ時間があるので、午後の研究に向けての準備でもしておこうと、必要な材料を集めておくことにした。と言っても必要なのは分厚い本とペンくらいなので、これといった準備にはならないのだが。
「アリシアは魔術式を見たことはあるか?」
「さっきので初めてだよ」
研究室の机に重ねた本を置きながら、アリシアと会話を交わす。
「じゃあ、これから嫌というほど見ることになるな」
「で、できるだけ頑張ってみるね!」
「頑張れたらいいがな」
「うぅ……わかった」
苦い顔のアリシアに目をやりながら、手元の本――魔法理論の教本を開く。
魔法には六つの属性があり、人間はそれぞれの属性に適正を持つ。六つの属性というのは、それぞれ『火』と『水』、『土』と『風』、そして『光』と『闇』である。適正の数に限りはなく、適正を持たない人間から六つの属性全てに適正を持つ人間もいる。どちらも極端で、数は少ないが。
適性があるからと言って、その適性の魔法や魔術式しか使えないという訳ではなく、適性を持った属性の魔法を使用する際に効率が高いだけ。実際は魔術式を使うことで適性のあるなしを無視することはできる。
アリシアには採取や調査だけでなく、魔術式の作業も手伝ってもらうことにした。そのためにはいくらか基礎知識を覚えてもらう必要があるため、しばらくは俺が教えることになりそうだ。
「まずはこれを読んでおけ。話はそれからだな……」
「わかった」
一通り確認した後、アリシアに教本を手渡す。最初は表紙をまじまじと見つめていたが、しばらくするとそばにあったイスに座り、教本のページをぱらぱらとめくり始めた。
反抗しないだけいい奴だろう。それとも、反抗したら痛い目を見るのが分かっているのか……どちらにせよ、俺にはあまり関係ない。人手が増えればそれでいいし、優秀ならなおさらだ。
さて、こちらも準備を進めなければいけない。今日進めるのは魔力適正の変換公式だ。
本来ならば炎魔法を得意とするフラムタイガーだが、孤独の森では氷魔法を得意としている。
氷魔法は六つの属性のうち『水』と『風』の適正を持ち、その上で両方の魔力のバランスをとって初めて扱えるものであり、並大抵の魔法使いや魔術式では再現することができない。それでも、氷魔法を使える者は一定数いるのだが……。
問題はそこではなく、これまで『火』の適性しか持っていなったフラムタイガーが『水』と『風』の適正を持っていたということだ。おそらく最初に孤独の森に棲み始めたフラムタイガーは通常通り『火』の適正を持つものだったはず。それが孤独の森で変化し、『水』と『風』の適正を持つようになった。
これを調べるために、今は適正の変換公式を試しているのだが……正直、そんなものは聞いたことがない。俺が連日進めているそれも、ほぼほぼ手探りで意味のないものになっている。そもそも適正が変化することなんて聞いたことがない。
最近は適正が変化しているのではなく、後から適正が付けられることも考えるようになったが……これも他に例がない。そんな方法があったら誰でも好きな魔法を使えるだろうに。
「終わったよ」
アリシアからそんな声がかかったのは、しばらく経ってからのことだった。
「……何が?」
「いや、読むのが」
「はあ?」
どう考えても読み終わる訳がないだろう。流し読みだったとしても、この時間に収まるような量ではないはずだが……。
「……六つの属性は?」
「火と水と土と風、あと光と闇」
「それぞれの複合属性は」
「火と土が『鉄』、土と水が『木』、水と風が『氷』、風と火が『雷』」
「魔術式の発動条件は」
「魔術式の展開、式の開放、術の投影」
「魔術式を使わない魔法の使い方を説明してみろ」
「体内で魔力を魔術式と同じ形に整えて、そのまま術の投影をする!」
どうやら本当に読み終えたらしい。小さな胸を張るアリシアに、俺は素直に感心した。
「暗記は得意だからね」
皮肉めいたアリシアの言葉に、はたと理解する。
「笑えないな……」
「なんで?」
「いや、なんでも」
少しの心労を抱えながら、俺は研究のための準備を進めることにした。
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昼食を摂るために、一旦研究室を離れてリビングへ向かう。
研究室は地下にあり、食事をとるためにいちいち地味に長い階段を往復しなければならない。それが面倒なので最近は携帯食料を箱ごと地下に持ち込んでやりくりしていたのだが、今日からまた階段を往復しなければいけなくなった。
「ごっはん、ごっはん~」
そんな陽気な掛け声が、後ろから聞こえてきた。飯を作るからついてこい、と言った直後からこの調子で、よほど楽しみなのか、教本を抱えながら小躍りまでする始末である。
ただの飯でこれまでご機嫌になる精神が俺には分からなかったが、彼女は彼女で幸せそうなので触れないようにしておく。
……もしかしたら、墓穴を掘ってしまうのが怖いから、あえて。
昼食は軽めに、買い置きしておいたパンと野菜を煮込んだスープにした。こんなありあわせの食事だが、彼女はとても嬉しそうに手を付け始めた。
「旨いか?」
「おいしい!」
アリシアは、眩しいくらいの笑顔を見せた。
……なぜ、そうも笑っていられるのだろう?
アリシアに刻まれた魔術式は、確実に俺が作ったものだ。たとえ刻んだのが俺じゃなくても、確実に彼女を不幸にした責任はある。だから、それを償う義務も……あるはずだと、思っていた。
だが、考えてみればどうだ? 彼女の苦痛を取り除けるのか? 既に『できない』と答えてしまった。報いることはできると言っても、彼女は本当にそれで満足するだろうか? それで彼女の苦痛を取り除き、禁術という呪縛から解放できるのか?
自問だけで済む問題ではない。だが、彼女が答えを知っているかも然り。
大体、自分に禁術を刻んだ人間に会いにきて、奴隷にしてくれと頼む人間がどこにいる。目の前でパンを齧っている彼女だって、そんな人間だとは限らない。表面上では無害を装っているが、心の内を読むことは、俺にはできない。
もしかすると。
もしかすると、アリシア――彼女は俺を殺そうとして、俺に近づいたのでは?
「クレア?」
彼女の声で、俺は現実に引き戻された。
「おいしくない?」
アリシアがパンを齧りながら、悲しそうな蒼い瞳でこちらを見つめている。
その奥には、鈍く光る魔術式が、無機質に光っていた。
まるで魔術式がこちらを睨んでいるかのように。
「自分で作ったからな……お前が旨いと言ってくれればそれでいい」
「そういうものなの?」
「そういうものだ」
そう答え、視線を下に落とす。
まだ半分以上残っているスープには、うっすらとやつれた顔の男が映っていた。
手入れが届いていないぼさぼさの黒い髪に、それと同じ色をした釣り目。顔つきは悪く、いつも機嫌が悪く見える、と同輩に言われた事を思い出した。
「……クレア」
再び、アリシアが声をかける。どこか悲しそうな表情の彼女は、俺の返答を待つことなく言葉を紡いだ。
「もしかして、私のことが怖い?」
核心を突いた彼女の問いかけに、思わず声が詰まる。
「…………なぜ、そう思う?」
「そんな眼で見つめられたら、誰でもわかるよ」
思わず目元を抑える。そこまで俺は、彼女に恐怖していたというのか……。
途端に顔が熱くなる感覚と、すべてを見透かされている恐怖感が同時に襲ってくる。もしかしたら、今ここで彼女は行動に出るかもしれない。そう身構え、次に彼女が口を開いたのは、しばらく時間が経った後だった。
「別に私はクレアに対して何も思ってない。安心して? 」
……。
「本当か?」
「そんなに信用されてないの? 困ったなぁ……」
そもそも、勝手に人の家に転がり込んで、自分を奴隷にしてくれという奴を信用できるかという話だ。それに魔術式を見せられ、半ば脅しのような行為もされた。あの時はその流れで彼女の要望を受けてしまったのだが……。
「はっきり言うが、お前が俺を殺しても、おかしくないと俺は思っている」
指をさし、彼女に告げる。ある意味での賭けだった。
「魔術式を外してほしいのなら、テイラーに最初からそう言えばいいはずだ。あいつは何かとできる奴だからな。そうなれば俺の奴隷にしろ、という考えにも及ばないはず。何より、自分に刻まれた魔術式の開発者に会う人間がいるか?」
自分で思ったよりも口が回り、俺は心の中で困惑していた。だが、すべて事実である。魔術式を取り除く――アリシアの場合は難しいが――方法なら俺以外の魔術師でもできるし、それならばアリシアが憎むはずの俺に会う必要もない。
アリシアからの返答は、しばらくの間が空いてからだった。
「私が、クレアを殺せると思う?」
心なしか、彼女は少し怒っているような気がした。
「だいたい、この魔術式を取り除いてほしいって他の誰に相談すればいいの? テイラーさんから聞いたけど禁術って言う話じゃない! そんなこと言われたらあなた以外に相談できる人いないの!」
「だが、奴隷にしろというのは……」
「それは私の趣味!」
「そうか……趣味か……」
なんだかとんでもない事実を聞いた気がするが、墓穴を掘らないよう黙っておく。
「どーしても信用できないなら、殴るなりなんなりして言うこと聞かせればいいの! 今まではそうされてきたんだから、むしろそうしないクレアの方がおかしいよ? もっといろいろひどい事していいんだからね? というかそれを期待してるから!」
「い、いや、俺にそういう趣味は……」
「何? クレアは突然転がり込んできた女の子に何もしないの?」
「そういう問題ではないだろうが!」
「じゃあする! 今夜あたりにする! 最低限一緒に寝るくらいのことはしてね!」
さっきまでの心配していた俺が馬鹿に見えてきた。
とにかく分かったのは、こいつに俺を殺す気がないという事。それと、相談相手が俺しかいないこと。そして奴隷にしろというのは、完全に彼女の趣味だということ。
別の意味で心配になってきた。
「……これで、信用してくれる?」
一通り愚痴らしきものを吐き切ったアリシアが、改めてこちらに訊いてくる。
「そうだな。他に心配することが出てきた以外には信用しよう」
「ならよし」
「よくない……」
皮肉を込めて言ってやったのだが、アリシアはにぱー、と笑って返した。
不思議な奴だと心の中で吐き捨て、俺はすでに冷め切ったスープに手を付けた。
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