03
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孤独の森。
大陸随一の王国、フリエステのさらに北の地図のはずれに位置する、広大な森である。他の狩場やダンジョンに比べて強力な魔物が多く潜んでおり、並の冒険者では立ち入ることすら禁じられている。
かといって森を抜ければ何かあるという訳でもなく、あるのは俺の住居と、俺が研究対象にしているとある異常現象だけという、冒険者や一般人からすれば行く目的すらない辺鄙なところであった。
「それを抜けてきたというんだから、最初は驚いたぞ」
「あはは……」
採取の準備をしながら、アリシアと俺はそんな会話をしていた。
孤独の森は、先述のとおり冒険者が立ち寄らないことで有名な場所である。そのため森の中で生態系が独自に進化を遂げており、その生態系を調査することも、俺がここに配置された理由であった。
本来の目的はその先にある異常現象の調査であり、孤独の森の生態調査はなし崩し的に決定されたものなのだ。少々荷が重い気も知るが、今更言ったところでどうにもならない。
「アリシア、戦闘の経験は……」
「ないよ」
「だろうな」
今まで奴隷として生活してきたのだから、当然か。それを確認して、引き出しの中からナイフを二本、鞘ごと取り出して懐に仕舞う。言うまでもなく俺とアリシアの分である。
アリシアが奴隷と言うのなら、それを使わない理由はない。アリシアに魔術式を刻んだ連中に報いるというのも嘘ではないが、そのために準備をすることは山ほどある。それには幾分か時間がかかるので、それまでの間は徹底的にこき使ってやることにした。
「行くぞ、離れるなよ?」
「うん」
そう返事をすると、アリシアは俺の着ている厚手のコートの裾を、ぎゅっと握った。
いや、そうじゃなくて……まあ、その方が安全なのか……?
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いつもは青々とした樹木が茂っている孤独の森も、今日はまた違った顔を見せていた。降り積もる雪は緑を塗りつぶし、あたり一面を白く染めている。今季初めての雪に、俺は体を縮ませながら深いため息をついた。
後ろではアリシアが白い息を吐きながら降り積もった雪を物珍しそうに踏み鳴らしている。もともと外に出る機会が少なかったのであろう。初めて見る雪にはしゃぐ犬の姿が重なって見えた。
「まずはフラムタイガーの生態調査だ。絶対に離れるなよ」
家を出るときと同じ言葉をかけると、アリシアは再びこちらに駆け寄り、コートの裾を掴んだ。
フラムタイガー。本来ならば砂漠地帯に生息する、かなり強力な魔物である。その特徴としては上位の炎魔法を扱うことであり、その魔法に歴戦の冒険者が何人もやられているとの記録がある。
そもそも魔法を魔術式なしで使うことがおかしいのだ。人間は一部の選ばれた人種しかできないのに、神話生物や魔物はさも当然のように魔術式なしで魔法を使ってみせる。
そんな強力な魔物、フラムタイガーだがここ孤独の森では比較的安全な部類に入る。それだけでこの孤独の森がどれほど危険かが分かるだろう。
「……寒いね」
「そうだろうよ」
しばらく歩いていると、アリシアがそんなことを口にした。
今のアリシアの格好は、黒いローブと薄い緑のセーター、そして丈の短い赤色のスカートといった格好である。上はまだいいものの、なまじ足が見えているせいで見てるこっちが寒くなってくる。
どうせテイラーの趣味なんだろうが、もっと暖かいものを用意できなかったのだろうか。というか、これから着替えやその他諸々を俺が用意しなければ……。
「……お前、本当に面倒な奴だな」
「え? そ、そうだよね。寒いのは当たり前だもんね……」
「違う、そういう事じゃない」
耐えれなくなってついつい呟くと、アリシアは心外といった感じでコートから手を放した。
「元はと言えば、テイラーが原因なんだからな」
「……そういえば、あの人とクレアってどういう関係なの?」
「どういう関係、か」
藪から棒に振られた質問に、ふと思考を巡らせる。
テイラー・ハルバートン。どこにでもいそうな壮年の男性で、ちょっと人込みに姿を隠せば一瞬で忘れてしまいそうな、いつも中折れ帽をかぶっている人間だ。俺が研究所に就任してから、ずっと同じ環境で働いている。
「ただの仕事仲間……だな。連絡役、と言ってもいい」
「ふーん」
そう答えると、アリシアが間延びした返事で返す。
「お前は、テイラーと何か話したのか?」
「うん、クレアのこといっぱい教えてくれたよ」
「……例えば?」
「えーと……いろんな魔術式を作った人、とか研究所でも最重要人物の一人だとか、あと小さな女の子が好きってのも聞いたけど、ほんと?」
「最後のは信憑性に欠けるな」
いったい何を教え込んでいるんだ、あいつは。
「……えっと、私はいつでもいいからね?」
「バカ言え、俺はそんな趣味……いや、待て」
まだらに白く染まった視線の先から気配を感じ、アリシアを手で制す。
しばらく注意して歩くと、その姿がはっきりと見えた。同じネコ科とは思えないほどに強靭な四肢と、まるで真剣のように鋭い双眸。今は木陰で休憩しているのか、その体を樹木に預けたままぴくりとも動かない。
フラムタイガーだ。しかし、その姿は多くの人間が知っているそれとは大きく違っていた。
まず、白い。通常のフラムタイガーならば、体表は焼け焦げたような茶色の毛並みをしているはずだが、ここ孤独の森に生息するフラムタイガーの体表は、雪に紛れるように白いのだ。
実際、俺もあと少し発見が遅れていれば戦闘は避けられなかっただろう。心の中で胸をなでおろしながら、ゆっくりとアリシアと共に後ろに下がり、近くの樹木へと身を隠す。
「あれがそうなの?」
「ああ。もっとも、性質はまるで別物だがな」
そう答えながら、コートの内側から二本のナイフを取り出す。
一般的に炎の魔法を操るとされるフラムタイガーだが、ここのフラムタイガーが操るのは炎ではなく氷だった。体表からも分かる通り、あのフラムタイガーは寒冷地帯を居住とし、雪に紛れて狩ることを得意とする、フラムタイガーの変種なのだ。
おそらくどこかから流れてきたフラムタイガーが、ここで独自の進化を遂げたのだろう。
他の地域には確実に見られない、孤立した進化。故に、ここは孤独の森と呼ばれている。
「戦闘はなるべく避けるが、万が一の事態になるかもしれん」
「……死ぬよ? たぶん」
「多分じゃなく、絶対だな」
不安そうに顔を俯けるアリシアに、手に持ったナイフを一本渡す。
「これは?」
「ウェーブナイフという。今から説明するから、ちゃんと聞いておけ」
そういって、俺はもう一方のナイフを抜き、赤い魔術式が刻まれている刀身を見せた。
ウェーブナイフ。使用者の魔力を溜め込み、それを波として放つことができる魔導具だ。波は出力を抑えて放てばあたり一帯を捜索できる探知魔法のようにも使えるし、逆に最大にして放てば簡易的な攻撃魔法としても使用することができる。もちろん普通のナイフとしても使える。
自分で作っておいてなんだか、非常に便利な代物だ。都で品に出せば金貨二十枚は下らないだろう。が、作るにはかなり多めの素材と時間がかかるので、普段使用する用に一つ、予備用に一つ作っておいたのだが、まさかこうして使う事になるとは。
「探知として使う場合は必ずどこかに突き立ててから使え。最悪鞘に入れたままでも構わんが」
「そうしないとどうなるの?」
「殺傷力のない攻撃魔法になる……つまり、刃への接触が攻撃と探知の切り替えということだ」
一通り説明を終えた後、アリシアに魔力の込め方を教え、試しに使わせてみることにした。魔力を込める感覚に慣れていないのか、彼女は最初首をかしげながらナイフを握っていたが、時間がたつにつれてその顔も明るいものへと変わっていった。
「もういい?」
「大丈夫だ」
攻撃魔法が二発程度撃てるまで魔力を溜めた後、アリシアが満を持して地面にナイフを樹木に突き立てた。刀身は数センチほどしか刺さっていないものの、探知するには十分。かすかに聞こえる耳鳴りにもよく似た音が、何よりの証拠だ。
時間にしておおよそ三秒ほどだろうか。雪が降る白い景色の中に、赤い色でフラムタイガーの輪郭が映し出された。向こうの方は動く様子を見せていない。
「おぉ……!」
アリシアにもその姿が見えたのか、小さく声を上げている。よほど驚いたのか、顔をそちらの方向に向けたままひとつ、ふたつと何かを数えはじめ……
「待て、何を数えている」
「え? だって、あそこに子供もいるよ?」
「なんだと?」
アリシアの言葉に、もう一度フラムタイガーの方を見る。すると、その大きな体の下に動く小さな影が二つ三つばかり見えた。輪郭も正確に探知されており、俺は思わずアリシアの方に視線を落とした。
実はこのウェーブナイフ、使い方だけ見ればなかなかの代物だが、その効果が魔力の質に依存するという特性を持っている。そのため使用する際には極力丁寧に魔力を流し込むようにしているのだが……おそらく、俺がかなり集中して魔力を込めたとしても、あそこまで探知できなかっただろう。
「よくやった、アリシア」
「うん、ありがと!」
素直に褒めると、彼女はぱぁと明るい笑みを見せた。
そこまで探知できるのならば、調査しない手はない。アリシアに再度注意しながら木の陰を伝って進み、フラムタイガーが目視できるまでの位置へと辿り着いた。
しばらくここの調査はしているが、フラムタイガーの幼体を見るのは初めてだ。果たして、どのような姿なのだろうか。期待に胸を躍らせながら、俺は木の陰から顔を覗かせた。
「ああ、まあそうなるよな……」
「なにが?」
アリシアがひょこ、と同じようにして、樹木から顔を覗かせる。
母親にじゃれつくように手足を動かしているフラムタイガーの幼体は、母体と同じく白かった。これで得られた結果は、孤独の森のフラムタイガーは既に遺伝子のレベルで孤独の森の環境に適応しているということ。ある意味、予想通りの結果になった。
そう考えると、ここのフラムタイガーは既に別種に近い存在になっているということだ。言うなればグラスタイガーと言ったところか。後で報告書に記しておこう。
「かわいいねー」
「……そうだな」
確かに雪に埋もれて足をじたばたさせているフラムタイガーの幼体は、愛くるしいものがある。が、その本質は冒険者を黒焦げ――ここでは氷漬けにする恐ろしい魔物だ。それを知っていれば、例え幼体であろうと「かわいい」などという言葉は出てこない。むしろ今のうちに殺してしまおうと言い出す者までいるだろう。
今回の調査はフラムタイガーの幼体を確認できただけで僥倖だ。見つかる前にさっさと森を抜けてしまうのが得策である。樹木に突き立てたウェーブナイフを回収し、アリシアにそう声をかける。
「もう行っちゃうの?」
「ああ」
名残惜しそうにフラムタイガーの幼体を見つめるアリシアを連れて、俺は孤独の森を後にした。
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