02
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そう放たれた彼女の言葉に、俺は少しだけ固まった。
「テイラーの差し金か?」
「ううん、そうじゃなくて」
一瞬だけそんな考えが頭をよぎったが、すぐに否定された。そうでなければ、彼女は自ら進んで俺のところに来たということになる。それをテイラーが後押しした、と普通なら考えるべきだろう。
では、なぜ俺なのか。思い当たる節はない。そもそもこんな辺鄙なところに住んでいる男のところに、わざわざテイラーの協力を借りてまで来る理由が分からない。
「私からお願いしたの」
そんなことは分かっている。
が、自分で考えてもどうにもならないので、彼女の話に耳を傾けることにした。
「クレアって、すごい人なんだよね?」
「本人にそう訊かれてもな……」
「でも、新しい魔術式をいっぱい開発したんでしょ? すごい人に決まってるよ」
そう自己完結した彼女に、ため息で返す。
「それは理由にならないだろ」
「そっか」
「……わかった。降参だ。理由を教えてくれ」
そうやって手を挙げる俺の姿が見たかったのか、彼女はにやにやと笑みを浮かべながらイスを立ち、こちらに近づいてきた。
「じゃあ、教えてあげる」
そう意味深に呟いたあと、彼女は私の頬に手を添え、そのままゆっくりと顔を近づけ――息がかかりそうな距離で、止めた。いきなりのことに動揺するが、不思議と体が動かなかった。
彼女の深い、海のような蒼い瞳がこちらを覗く。まるで、そのまま吸い込まれてしまいそうに、深い蒼。この地域では珍しい、藍玉のように輝く瞳に、場違いながらも俺は完全に見とれていた。
「私の目、きれいでしょ」
俺の考えを汲み取ったのか、彼女が囁くような声で言った。
「ほら、もっと見て……」
そう、彼女はさらに距離を詰めてくる。
額と額が触れ合い、彼女が俺に覆いかぶさるような形になった。ふわりとどこかで嗅いだような、華の香りがする。彼女はそのまま俺の膝の上に腰を下ろし、意識が彼女の瞳に吸い込まれ――そうして、ようやく彼女の言っていることを理解した。
青い瞳の奥に鈍く光る、無数の小さな円。それらはすべて線でつながれており、歪な、しかし見覚えのある形を作り出していた。
「……そういうことか」
「やっと気づいた?」
彼女が片手で髪を上げ、私の上から降りる。彼女の温もりが消える感覚と同時に、私は背中が抉られるような、不気味な感覚を覚えた。彼女が片手で髪を上げる動作が、何か印象的だった。
彼女が元の椅子に座り、俺と対面するようにイスを動かす。
「どういうことだ? なぜ、魔術式が?」
魔術式――ひとえに、人間の魔法を支えている基盤のようなものである。
魔法を使う過程は、おおよそ二つの方式に分かれる。一つは体内に存在する魔力を体内で練り上げ、そのまま放出する方式。これができるのはある程度その才能があるものや、熟練した魔術師、そして魔物や神話生物にあたる。
そしてもう一つが、魔術式を利用するという二つ目の方式だ。
魔術式というのは便利な代物で、魔力を流すだけで記録された魔法を使える、というものである。形も様々で、小さな紙のものから建造物にまで多岐にわたり、俺たちが普段言う「魔法」も前者ではなく、この魔術式によるものを指す。
「びっくりした?」
そうして、彼女は魔術式の浮かぶ瞳を細めた。
人間に魔術式を刻むのは、魔法全般を取り締まる『学会』という組織によって禁術とされている。人間に魔術式を刻むのは人間を「モノ」と同系列として扱うことになるからだ。だが、彼女に刻まれたのは人間に使う事に特化されたもの。第一、人間に魔術式を刻むとなると、それ専用の魔術式を開発しなければならない。
そして――彼女に刻まれたそれは、紛れもなく俺が開発した魔術式だった。
「お前、何者だ?」
「ただの卑しい奴隷だよ」
そんな奴隷に禁忌の術式が刻まれているわけがない。
そもそもその魔術式が刻まれている、この事実自体がおかしい事なのに。
「それで、私のこと雇ってくれる?」
そういえばそんな話だったな、と先ほどまでの会話を思い出す。
しかし、こんなものを見せられては断れるわけがない。もし俺が断りでもしたら、この事を学会に報告されておしまいだ。第一、俺が断ったらどうやってテイラーの元へ帰るつもりだったんだろうか……もしかすると、そこまで考えての発言なのかもしれない。
面倒なことに巻き込まれた。それだけは、確実に言えることだった。
「……いいだろう。雇ってやる」
「やったぁ!」
渋々俺がそう答えると、彼女は小躍りした。
理由は分かったが、本質は不明のままなのに。
そもそも、俺の魔術式が刻まれていることが理由ならば、奴隷になる必要はない。俺を脅して金を巻き上げたり奉仕させればいいものを、彼女はわざわざ家にまで来て奴隷にさせてほしいと願ってきたのだ。
素性は不明。本質も不明。不思議な奴だ。
「じゃあ、早速なんだけど」
彼女はそう言って、後ろに手を回し、こちらに向き直った。
「名前を付けてほしいな」
「はぁ?」
「だって、ご主人さまだし」
ああそうか、主人だもんな。
一瞬だけそんな考えが頭をよぎり、座っているイスから崩れ落ちそうになった。
「第一、ないとクレアも私も不便でしょ?」
「確かに不便ではあるが……本当に俺でいいのか?」
「早くつけてくれないと、私困っちゃうな」
「……分かった。少し待て」
それだけ返し、しばしの思考にふける。
待てとは言ったものの、どうすればいいのだろう。生まれてこの方名付け親になったことなどないし、こんなにいきなり名前を付ける状況も珍しい。かといって適当に付けたとしてもあーだこーだ言われそうだし、ここは無難なところで……
(そんな目をするなよ……)
彼女の方に目をやると、そこまで喜ぶかというほどキラキラと目を輝かせていた。
おそらく、今まで名前なんてなかったのだろう。銀の首輪がそれを示している。初めての名前という事だけで、彼女からすればそれだけ期待を寄せる物に値する……と同時に、俺の気疲れも増すのだが。
と、彼女の瞳を見つめる。蒼い瞳の内には、歪に形どられた魔術式。
「アリシア」
「え?」
「アリシアの瞳……その魔術式の名前だ」
彼女の――アリシアの瞳を指しながら、俺は名前を呼んだ。
アリシアの瞳。昔、本に出てきた女性がそんな名前をしていた。それを思い出して付けた、安直な名前。
だが、アリシアはその名前を気に入ったのか、何度も小さく呟いては首を縦に振っている。
「うん、ありがとう! こんな素敵な名前、はじめて!」
「……それは皮肉で言っているのか?」
魔術式の名前だと言っているのに、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「でもクレアがつけてくれたんだから。それだけで嬉しいよ」
「そうか、それは良かったな」
「えへへ……アリシア……アリシアねぇ……」
どうして初対面の人間に適当な名前を付けられてそこまで大喜びできるのか。
やはり、彼女のことはよくわからない。不思議だ。
「そういえば、この魔術式ってどんなの?」
しばらく余韻に浸っていたアリシアが、思い出したように訊いてきた。
てっきりテイラーあたりから訊いていたと思っていたが、そもそも禁忌の術式を知っているわけがないか。というか、自分でも知らない魔術式の名前なのにそれで喜んでいたのか……。
「記憶眼というのを知っているか?」
アリシアは首を横に振った。
「見たものを全て記憶する特殊な眼のことだ。先天的にしか得ることのできなかった希少な特性で、その能力ゆえ利用価値も高い。現に多くの人間が記憶眼を持った人間を欲している」
名づけの元となったアリシアという女性も、生まれつき記憶眼を持った人間だった。確か内容は、その記憶眼を忌々しく思うアリシアと、それを何とかして取り除こうとする青年の物語だったような……いかんせん前に読んだ本なので、記憶が定かではない。
「アリシアの瞳というのは、その記憶眼を人工的に付与するものだ。既存の眼球に魔術式を刻み、記憶眼へと変化させる。代償としてそれまでの記憶を失うことになるんだが……自覚があるはずだ」
しばらく思いふけった後、アリシアは黙して首肯した。
そして、彼女はおそらく――ここに来た本当の目的を、口にした。
「取り除けない?」
ああ、なるほど。
そういう事だったのか。
「難しい話だな。人に刻んだ魔術式というのは取り除きにくい。物や紙と違って脆いところが多いし、そのまま死ぬ可能性だってある」
「そっか……」
そう、アリシアは肩を落とした。
記憶眼。全てを記憶すると言えば聞こえはいいが、それは忘れてしまいたいことも、目をそむけたくなることも、すべて記憶してしまうということ。記憶眼を持った「人間」が欲しいと言われる所以は、この忘れられないということにある。
忘れられないということは、忘れてしまうよりも辛い。一生その苦痛と付き合わなければいけないし、奴隷階級である彼女なら常人の何倍もの苦痛を味わっていることだろう。
「だから、ここに来たのか」
「……うん」
「そうか」
うまく言葉が出ない。
励ましてやろうとしても、俺はアリシアの苦痛を味わっているわけでもなければ、それを知ることすらできない。自分で作り出しておいて、消すことすらできないなんて。そもそも使う予定なんてなかった、というのは言い訳にはならない。それは単なる逃げである。
だから禁術と銘打っておいたのだが……どうも、莫迦な連中がいるようだ。
「報いることはできる」
俺の言葉に、アリシアが顔を上げる。
「それを刻んだ奴がいるはずだ。そいつらを突き止めて、報いを受けさせることなら可能かもしれない。俺ができるものそれだけだし、それ以上はない」
もともとアリシアの瞳が外出している時点で、その出所を突き止めようとは思っていたのだ。禁術と銘打って、わざわざ研究所の奥底に封印しておいたのに……それが歩いてここまで家まで来ました、というのが面白いと思っているのだろうか?
勝手に人の魔術式を使って、こんな幼気な少女に苦痛を味わせて、それを目の前で見せつけられるようでは、さすがに腹が立つ。
「それでもいいか?」
「……いい。でも、一つだけお願い」
そう、アリシアは椅子から立ち上がり、私の両肩に手を置いた。
「これが終わっても、捨てないでね」
「何を……」
そう言いかけ、はたと気づく。
「私、一人は嫌なんだ」
だから奴隷にしろと言ったのか……そうだとしても、考えが極端すぎる。だからこそテイラーが協力したのか、もしくはテイラーすら騙してここに来たのか。だとすれば、それなりの覚悟はあるようだ。
右の肩に置かれた彼女の手に、自らの左手を重ねる。
「安心しろ、捨てはせん。むしろせっかく手に入れた人材なんだ。こき使ってやるから覚悟しろ」
「そう……それならよかった」
「お前が言い出したんだからな」
二言はないぞ、と付け加えると、アリシアは笑って返した。蒼い瞳はどこか潤んでいたようだったが、それを隠すようにして彼女は後ろに振り向いた。
俺は彼女に言葉をかける資格はない。その理由が俺自身であるからだ。ぶつけようのない怒りにも似た感情を自分の内に抑え込み、今はただ彼女の願いを聞くことしか、俺にできることはない。
かくして俺は、非常に面倒で、非常にはた迷惑な事件に巻き込まれることになったのだ。
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