みんなのそら
今年も東光寺山では冬の風が足音をたてはじめた。
人生の岐路で、常ならぬこんな風が吹くのを私はなんどか経験した。
母の葬儀のとき、野分めいたはげしい風雨になって、明確な意思をもったような風が地面から舞い上がり、母が自分の激しい思いを風にのせて届けてくるように思われた。
戦争から敗戦へと日本のながい混乱期に、一家七人が故郷を棄てて縁者ひとりいない大阪へ難民のようにやってきて、母はさらに二人の子供を生み、赤貧のなかで七人の子供を育てて、恵まれない生涯のまま五八歳の人生を閉じた。
食料難と住宅難の時代に、一家はひさしを貸して母家をとられるような状況で故郷の家を捨てて、インク瓶で手製したランプを灯りにするような暮らしをしながら転居を重ね、母が死去した家へ落ち着いたときは引っ越しは十回目に及んでいた。
生活苦と病苦から心身ともに閉ざして酒乱となり、廃人のようになった父をかかえ、成長期の子供を抱えたわが家族は、いくら働いても追っつかない笊で水を 汲みあげるような日々であった。母は多忙な家事をこなしながら、時間のほとんどを深夜まで裁縫についやして家計の助けとした。私とすぐ下の弟は不就学児童 たることを余儀なくされ、私は木工の指物師として、弟は鍍金工となって十歳前後から工場に入って働いた。
三男の弟は小学三年から中学をでるまで新聞配達をしていた。彼は、朝三時には必ず起こしてと母に念をおしてから寝床につき、三時に起こされると眠たがっ て文句をいい、あまりに不憫なので今少しと母が思って三十分も起こすのを遅らせると、どんなにいやがってもどうして無理にでも起こさなかったかと、プンプ ン怒りながら家を裸足でとびだしていくのである。
朝鮮動乱の始まるころには父の失業とともに仕事がなく、弟と私は道端に捨てられてあったり、地面に埋まった屑鉄を掘り出したりしては朝鮮人のヨセヤに 持っていき、鉄は一貫目十円、真鍮や銅は一貫目二十円で買ってもらい、わずかばかりの金を得ては家計の助けとした。 鉄屑の入ったバケツをさげて歩いてい ると、ときには警官に君は年はいくつだと誰何されることもあった。
私はその時に、中学を終えている年齢を偽って答えたら、何年生まれかと質問してくる。
私は本当の生年に水増ししていえばいいと思いながらも、嘘を完璧に仕立て上げる気になれなくて、そこだけは本当のことを答えると、計算した警官はすかさずそれを追及してくるのであった。
馬鹿な子供奴がと目がいっている。私は目に涙をため、黙秘権を決め込んでだまってしまう。
すると「もういいよ、行きなさい」と警官が放免してくれるのであった。
大阪城公園になっている砲兵工廠跡で、アパッチ族が活躍するようになったころには、子供が拾えるような鉄くずなどはどこにも見当たらなくなっていた。
私はまた就職ができて、家具工場に父とともに指物師として働くようになっていたが、父は朝から冷や酒の一気飲みをするひとで、長年の流浪みたいな暮らしで体力も気力も限界をむかえていて、やがてアル中がひどくなっていった。
そうした環境にじっと耐えながら、一家の軸として母は自らは愚痴をいわず、子らの思うところを忖度しながら、慰めたり励ましたりしつつ、いつかこの環境から脱出できる期待を子供に託しながら懸命に日々をおくったのである。
母がみまかった時、私は二十代の終わりを迎えていたが、まだまだ前途になんの展望ももてない疾風怒涛の空しい長い年月の真っ最中で、物心両面から生きることの困難と直面していた。
出口の見あたらない閉じこめられた人生。
なにをやっても徒労の積み重ねでしかない。
脱出がかなわない世界では人は生きることの意味を問い死の想念と向かいあう。
頑張って遮二無二やってそれがなんになるというのだろうか。それが実感であった。
母が死んで、心のなかに埋めようのない大きな空洞がぽかっと生まれたとき、人生の意味がどこにあったのか、母が死を賭して私に教えてくれたように思った。
もっとも大切なものを私はそのとき奪われたことに気付いたのである。
手のとどかなったことを悔やんでも仕方がないが、母がほっと息をつけるような生活についに持っていけなかったことを長男の私は深く悔やんだ。
徒労を恐れていては私にはなにもできない、と詩人の港野喜代子はどこかに書いたが、彼女が「それはよしたほうがいいよ」と当時なんども私に忠告してくれたのに、私は母の心痛も無視して、だれが見ても無謀な結婚に突っ走ろうとしていた。
それは徒労たるを得ないわが運命にたいする抵抗からであった。
徒労だと思う私の自暴自棄のこころがそうさせたのである。
風雨はそのとき悔やむ私の頬をはげしく横殴りにした。
爾来私は冬の風は人生の過酷さを自覚させる風だと思うようになった。
当時私は喘息を病んでいて、母の死後、かかりつけの医院へ行ったら医師から母のお悔やみをいわれた。
「母は苦労ばかりして生きてきて、すこしも楽をさせてあげられないうちに亡くなってしまいました」と私がいうと「あなたのお母さんはあなたが大変親孝行をしてくれるといって、いつも喜んで満足していられましたよ」と医師は私を慰めてくれた。
母はバセドー氏病をもっていて、ときおり同じ医師のところに通っていたのである。
故郷の墓地に母の納骨に行ったとき、雲ひとつない晴れた空だったのに、菩提寺の銀杏の大木の下で水を汲んでいると、横殴りの風雨が一瞬、私を襲った。
一分たらずの瞬間の、刷毛でさっと撫でられたような風と雨で、この世のものならぬ気配があり、母が私にそういうかたちでサインを送ってくるとしか思えなかった。
私はその時二十九歳だった。
母の死後十年たってから、私は新居浜の萩生寺で得度をうけ出家した。
今は昔という語り掛けで今昔物語ははじまるが、これは私の今昔物語でもある。
二十年もさかのぼれば、今は昔といっていいだろうが、この話の発端は明治のはじめ頃で、私には明治なんて時代は灰色で、晴れた空なんか一日もなかったよ うなイメージがある。自分がこのふたつの目で見てきた青空しか信用できないのだが、私が見てきた昭和という時代の青空だって、若いひとたちは灰色にしか感 じないにちがいない。
私が人生のほとんどを過ごした昭和という時代も、その空気を知らぬ人々のこころのなかでは曇天におおわれることだろう。
ところで話にも青空のようなものと、曇天のようなものがある。私が話すこれからのできごとも、いかにも数奇に過ぎて、まったくのフィクションではないかと思うような話だが、この話こそ私が出家する動機となったものなのである。
阿波の国といったほうがまだ似付かわしい時代のことだが、私の父方の祖父幸次郎 は、田舎の旧家に次男として生まれた。
山内家は代々阿波の家老直参の家来で、功績があって大野村という田舎に田地を拝領し、半農半士の苗字帯刀を許された家系であった。
半農半士というのは、阿波藩独特のシステムで、功績のあった家来に田畑を与え、普段は百姓をして自活しながら、なにか事が起きた場合は武士として刀をとり主君のもとに駆けつけるのである。
百姓ではあったが、山内家は小作人を沢山かかえた豊かな農家であった。
いまも古紙に書かれたわが家の系図なるものが残されているが、どういう風の吹きまわしか、父はそれを私に見せたりしながら、私の知らない祖父のことなどを話してきかせることがあった。一家の来歴を長男である私には伝える必要があると思っていたのだろう。
いわばフォークロアの伝承者としての役割を私に担わせようとしていたのである。
いまの時代では家を継ぐということは資産を継承することだが、明治生まれの父のように、資産をもたない人間であっても、家というものは長男に語り継いでおくべき伝承があるという自覚をもっていたのだろう。
そういうときに父は家族の自慢話ではなく、いつも負の側面についてぽつりと漏らすように聞かせることが多かった。
家系の誉れなんてことには父はなんの幻想もいだいてはいないひとであった。
父は小学校を終えてから指物師を志し、わずか二年で年季が明けるような達意の職人であったためか、物事を正確に見るということが訓練なしにできるような能力を与えられていた。
いわばリアリストであって、科学的合理的にものを考えるということができる人であった。だから徹底した無神論者であって、生涯宗教などにはなんの幻想も抱かなかった。
ある日父から聞いた話なのだが、まだちょんまげをしていた時代、山内家の次男であった祖父の幸次郎は、はたちの時に、兄秀一郎の嫁紀代と駆け落ちをしてきて徳島市内に身をかくして商人になった。
江戸時代、こういうケースでは女敵討ち(めがたきうち)と称して、兄からでも命をねらわれるようなとんでもない事件であった。
妻を寝取られたまま放置するということは、寝取られた側の恥で、名誉のためには敵討ちをしなくては面目がたたないのである。兄弟といえども、むしろ兄弟であるからこそ許さないというのがその時代の倫理だった。
不義がばれれば、ふたつに重ねて四つに切るといわれた時代背景で起こした幸次郎と紀代の恋愛事件、不祥事なのである。
のちに祖父は生家と和解してふたたび出入りするようになってから、父を伴って大野村の家へなんどか訪れたことがあるということだ。
しかし徳島に出奔してきてから紀代は女の子を出産したあと産後の肥立ちがわるくまもなく没した。生まれた女の子も幼児のうちに死亡したらしいが、あんな にかわいい子供は見たこともないというのが幸次郎の口癖であったと、後添いになった祖母コギクからなんどか私は聞かされた。
わが家に伝わる写真帳にセピア色の祖父の写真が一枚あって、髭のながい高貴な面立ちをした老人が、ながいローブをまとってベッドに腰掛けて座っている。
眼をとじて瞑想でもしているようで、ギリシャの哲人ふうの雰囲気があり、これが祖父だといわれてもどうしてこんな姿で座っているのか子供の私にも不思議に思える写真であった。
のちのち父が種明かしをしてくれたが、この写真は伊井蓉峰という俳優の舞台写真を雑誌から切り抜いたものとかで、どうみても幸次郎としか思えないというので、祖父の写真として父が貼り付けたものだそうである。
後年私が新劇団に研究生として入って、大岡欽治さんから演劇史の講義を受けたときに、新派の伊井蓉峰の話をきかされた。
伊井蓉峰は川上音二郎などと、中江兆民などの支援を受けて、歌舞伎に対抗する新しい芝居を打ちだしたことから、新派とよばれる演劇活動がはじまった。
伊井蓉峰は「男女合同改良演劇済美館」というのを旗揚げして、女優というものがいなかった日本の演劇界に千歳米坡という最初の女優を生みだした人である。
千歳米坡は新派から生まれた日本最初の女優だが、新派を代表する大女優といえばいまはなき初代の水谷八重子である。
伊井蓉峰が活躍していた当時は、文学も演劇も自然主義リアリズムの影響が強い時期で、自然に忠実な舞台を作ることが流行していて、たとえば月が舞台の背 景にあがってくる場面だと、観客からみれば登場人物の顔は前から光を当てるのは不自然なことであり、役者の顔が見えなくともくらがりのまま芝居をするなん てことが流行ったそうだが、伊井蓉峰はそういう舞台でも自分にはライトを正面からあてることを要求し、顔を観客からよく見えるようにしたということであ る。
なにしろかれの芸名は伊井蓉峰(いい容貌)なんだからだそうであった。
幸次郎はいまでいうコンビニエンスストアのような百貨を扱う商店を経営して、これが成功して店を囲む方一丁にもわたる土地も購入するほど資産をなした。
山内では「砂の寿司」でも売れるとうわさされるほど繁盛したそうである。
この繁盛の一因には幸次郎の人柄の優しさと、人気俳優の伊井蓉峰かと見まがうような容貌も寄与していたに違いない。
祖父は商いの売り上げ金を樽に無造作に放り込んで入れてあり、父が子供のときには、明治政府発行以前の、江戸時代からの通宝や貨幣を入れた大きな樽が奥の部屋に十個以上はあったという。
私が子供のときにはその名残りで、阿波の蜂須賀藩が発行した紙幣の、まだきれいな藩札といわれるものや、父が珍しいと思って残した種類の違う昔の貨幣を、一米ほどの長さの丈夫な紐に通して整理したものが引きだしにしまわれていた。
そうした貨幣も戦時中に、昭和十七〜八年頃、金属類の供出命令が出たときに、山内には古銭の貨幣があると近所のひとが知っていて口さがないからと、父は全部出してしまった。
戦争中には金属が不足して弾丸の材料を獲得するために、お寺の梵鐘から、小学生の金属の服のボタンにいたるまでむしって供出を強要された時代であった。学校からは毟り取られたボタンにかわって粗末な真っ黒なガラス製のボタンを支給されたものである。
父は幸次郎の形見とも思うわずかばかりの貨幣を供出する前に、私にその由来を聞かせてくれたのである。
幸次郎と手をとりあって駆け落ちしてきた兄嫁がなくなってから、幸次郎の店によく買物にやってくる女で、興徳寺という寺の奥さんがいた。
名をコギクといった。
小柄で抜けるような色白の、はきはきとものをいうきれいな女で、幸次郎の店に足しげく通ううちに、幸次郎ぬきの人生なんぞ考えられないようなことになってきて、もう小学校に通うふたりの男の子がありながら、真言宗の興徳寺を捨てて幸次郎と所帯をもった。
質素を旨とする寺の暮らしなんかにはもとより不向きな、派手な性格のコギクは、寺でももてあまし気味だったかも知れない。
寺を出てくれて、むしろ厄介払いができたぐらいに思ったのであろう。
コギクは賀川豊彦の血の濃い従姉妹だと母からきかされたことがある。どこか激しい血に共通項が感じられる。
賀川豊彦は日陰の母に生まれた人であるが、コギクは本家の名門の家系の生まれであったのだとその時母が話してくれた。
コギクは幼少時は姫と呼ばれるような深窓に育ったそうだが、どういう事情からか七歳のときに養女にやられた。
養家先も蜂須賀家に書の指南をする書家の家であったから、姫と呼ばれた身分からいちじるしく身分が下がるようなものではなかったが、コギクにとっては養女に出されたということは晴天の霹靂であった。
コギクは両親を深く恨んだが、いかように逆らっても、覆水盆に還すことはできなかったのである。親がこんど女の子ができたら養女にあげるという約束を早くから養家先と交わしていたのであろう。
コギクは何不自由ない豊かなくらしなのに、七歳まで育てられながら両親からひきはなされたのである。
親もコギクを手放したくなくて、七歳まで手許に置いたのであろうが、いっそ赤ん坊の内に手放して養女に出していたら、コギクの心に大きな傷はつくらずにすんでいたかもしれない。
コギクには生家に対する誇りと失意が生涯抜くことができない心の傷となって残っていた。
人は本来あるべきところに生きることができずに、不本意な場を与えられると、生涯の軌跡があらぬ方へ曲がってしまうのである。
なにかのときに、鳴門市にちかい土地にあるコギクの生家の近くを、父と通ったことがある。
父からここがおばあさんの生家だと教えられたが、一丁四方以上はあろうかという高い塀に囲まれた大きな屋敷であった。だれも人を寄せ付けないという意思 の表現であるような、まだ真新しい高い塀の内側には、二抱えもありそうな大木が何本もあって、まわりを睥睨しているかに思われた。
我が家の小さな貧乏を象徴するような借家住まいにくらべ、それはまぎれもなく私などとはまったく無縁ののたたずまいで、子供心ながらにコギクがひねくれていたのも分かるような気がしたものである。
コギクは、自分の出生がかの家にあったという証しの本籍を記した戸籍謄本を、生涯大切に仏壇の引きだしにしまい込んでいた。
毛筆の手書きの戸籍謄本で、従姉の一子が死んでコギクをまつっていた仏壇を私がひきとって整理したときにそれを発見した。
大勢の名前が記載されたなかに、コギクの名前と出生日時が小さく書き込まれてある謄本は、コギクの心のなかでは大きな意味をもつ存在証明であったのだろう。
どういう経緯でコギクが寺へ嫁いだのか、いまでは知るすべはない。
だが父から聞かされた、コギクが子供までもうけながら、真言宗の寺を捨てて不義理をしたのだということが、私を仏門へと誘う因縁を作っているように思われ、私の人生に対する思索のなかでは、いろいろ大きな意味をもつようになってくるのである。
まだ小学校にはいったばかりのころ、父からその経緯を聞かされたとき、私は祖母コギクがその時に寺を棄てたという行為にたいして、いつか自分がその借りをかえさねばならない宿縁を持って生れてきた人間だと直感したのであった。
コギクが幸次郎の嫁になってからも、興徳寺とはその後も縁が切れず、私が二十代半ばになるころまでなにかの時には音信があった。
コギクが寺を捨てた後、興徳寺には後添いがきて寺を継ぐ跡取りもその後生まれた。
コギクはふたりの男の子を寺に残してきて幸次郎と結ばれたのだが、母に捨てられたふたりの男の子、信一と正信は、母親を慕って寺を出てきたので幸次郎はこれをひきとってにわかにふたりの子の親となったが、幸次郎は磊落な性質だったので実の子のようにかわいがって育てた。
そのあとに私の父義一が生まれ、つづいて一二三と皐月という妹と弟が出産して幸次郎には五人の子供ができた。
コギクは子供を溺愛する女で、食事もひとりづつにその日の好みをきいてそれぞれ口にあった料理を作るような母親だった。コギクは寺で暮らしたことの名残 かも知れないが、朝目覚めると五升炊きの大きな釜に水をいっぱい入れて、竈(ルビ/かまど)で沸騰させ、終日湯を沸かしておくのである。減ったらすぐ水を つぎたし、火を絶やさなかった。
この奇妙な習慣は義一の嫁になった私の母にもひきつがれ、我が家では薬罐で湯わかしをするなどということはなく、お茶を出したいときには、釜の重い蓋をあけて杓で湯を汲んだ。
近所のこどもが、ドブにでもはまって泥まみれになると、近所のひとは、山内へ行けば湯が年中あることを知っていて湯をもらいにくるのであった。
この習慣は一家が難民のように放浪をはじめた昭和二十年の暮れまで続いた。
大正の半ばごろに幸次郎が死んでから、コギクは商売なんか自分で切り盛りなどはかなわないので店をたたみ、幸次郎が残したかなりの資産がいつまでも減らないような感覚で暮らし、いままでと変わらず気前よく贅沢に資産を浪費していった。
やがて幸次郎が買ってあった広い土地も家もすべて人手にわたり、自分が持っていた借家に逆に家賃をはらって暮らす仕儀となった。
その頃には私の父の義一が小学校を卒業して指物師となり、一家を支えるようになっていたのである。
私がこんなセピア色の写真のような、わが家系の古めかしい因縁話を書かずにいられないのは、寺から出てきた男の子の下のほうで、名前を正信といい、通称 をまさやんといった男の数奇な運命にうたれるものがあるからだ。兄のほうは一度だけ会ったことがあるが、倉敷紡績で職長なんかも勤めていた。家にはほとん ど寄りつかず生涯独身でくらして老人ホームで身内に知らされることもなく生涯を終え、死んでから知らされてきた。
生来やや激しやすい暗い気質をもった弟のまさやんこと正信は、義理のなかに暮らすようになって、その後異父兄弟や姉妹が生まれて母親がその子らを溺愛するようになると、すこしずつひがんでいった。
十六七歳のとき、左足に痛みを覚えるようになり、母親に痛みを訴えると、コギクは自分が肩が凝ったときに時々面倒を見てもらう指圧や整骨をする先生のと ころに連れていった。そこで受けた荒療治が逆により損傷を与える結果になり、コギクが首をかしげながらあわてて病院へ連れていったときには、診察を受けた 医師から、荒療治がもとでこじらせてしまったために手遅れとなったといわれた。
びっこになってしまったまさやんは、手遅れにしてしまった母親をふかく恨むことになった。松葉杖で暮らすようなからだになってしまったことを悲観すると同時に、性格が次第にひがんで、だれもが扱いにくい反抗的な人間に育っていった。
人間がひねくれ、恨みがましく、家族が困惑することを意識的に行う。
家族にとってはこれほどつらいことはなかった。家族がいやがるようなことをことさらにやって、迷惑をかけることに生き甲斐を感じているのかと思えるふうであった。
まさやんは松葉杖を戸外だけでなく、そのまま家のなかでも使った。
ことさらなるいやがらせではあったが、ことなかれと願う家族は腫れ物にさわるように気を使ったが、まさやんの気持ちは荒れるばかりで、いつかな納まりそうにはなかった。
ある雨の日、傘もささずぬかるみを歩いて外出から帰ってきたまさやんは、泥のついた杖のまま、座敷にあがってきた。
天井のない六畳の部屋には、見上げると一抱えもある曲がった梁が走っていて、そこにつけられた碍子からコードが垂れ下がり、二十ワットほどの暗い電球がぶら下がっている。
夕方になって電気が送られてきて、電灯に灯がともったばかりの時間だった。
まさやんの帰ってきた気配に気付いて、コギクがとなりの部屋から顔をだした。
コギクは癇癖性で、家はいつも塵ひとつないように清掃され、整頓されているのが常であった。
コギクはまさやんの濡れた姿と杖の先が泥まみれなのに気付いて、
「正信、泥を拭いたらどうなんだい、泥だらけでないか」と思わずいった。
まさやんの目がぎらりと回転した。
「もいちどぬかしてみろ、いまなんといった、この!」
怒声をはりあげてまさやんが杖をふりあげ、コギクに振り下ろそうとしたとき、義一がちょうど仕事から帰ってきた。
「兄さん、なにをする」大声で制止し、振り下ろそうとした杖を止めようとコギクとまさやんの間に割って入ったとき、まさやんは力の限り義一の眉間に杖を振り下ろした。
「みんな敵じゃ、許さん」
義一の傷口から流れ出す血を見てコギクは悲鳴をあげ、なお興奮しているまさやんを体当たりするようにして突き飛ばし、箪笥から手拭いをとり出して義一の傷口にあてがった。
まさやんはそれを見ながらだまって雨のなかへ出ていった。以来帰ることはなかった。
それまでにも、直接争いはしないまでも父とまさやんとの間には、いろいろ心理的な葛藤や軋轢があったのだろう。
「博之、どんなことがあっても家のなかに義理だけはつくってはならぬ。お父さんはそれがどんなにつらいことか身を持って経験してきた」父はまだ私が幼い ころから数度といわずそういったことを覚えているが、母が亡くなったころの私は、父の忠言もものかわ、祖父幸次郎がふたりの子を引き取ったように、二人の 子をもつ女と結ばれ、暗合のように幸次郎と同じことを幾時代かを経て繰り返そうとしていたのである。
まさやんは同じ町の山際の長屋の一軒を借りて住みはじめたが、コギクはそのことがあってから間もなく、数キロ離れたところの新町と呼ばれる徳島の繁華街に住む娘一二三とくらすことになってそちらに転居した。
駅前の土産物店で売られる徳島の絵はがきに、阿波美人のサンプルとしてアップの写真が載せられるようなコギクの自慢の娘の一二三は、派手好きの性格で、カフェーのマダムをしながら羽振りよくくらしていた。
地元の映画館を経営する男と交際を持ち、一子という娘を私生児として生み育てた。
一子は母親に似て美人だったから、父の妻である私の母に、美人でないことを暗にほのめかして皮肉をいうようなコギクの溺愛の対象であった。
一二三はときおりまだ小学生にもならない私が訪れると、映画を見に行こうかと気さくに立ち上がり、私を映画館に連れていって、劇場の受付係の人が深々と 頭をさげるのを一顧だにしないでフリーパスでなかに入り、左手でさっと映画のチラシをとって私に渡し、こどもの私に席を与えるとさっさと自分は帰ってしま うのである。
彼女がそのように歩みふるまう姿は、ひとびとの注視をひかずにはおかない妖精のような雰囲気があり、子供の私でもうっとりするような女の匂いがあった。 いつも真新しい下ろしたての塗り下駄を穿いていて、三日も穿かないまっさらのような下駄を、下駄直しがくるとささくれもない下駄の歯を交換させてしまうの である。
一子が生まれてからはコギクの関心は一子ひとりに向けられ、まさやんのことなどはこころのなかで抹殺してしまったのか、義一にもまさやんがどこでどう暮らしているかなどと聞くことはなかった。
わが兄弟姉妹などは、美人ならざる女の生んだ子らであったせいか、たまには家にやって来るがまるでコギクの眼中にはないのであった。
まさやんの足の不自由さは重度の障害というほどではなかったろうが、まさやんはそれを自分のねじれてまっとうではない人生を生きるための口実にした。
松葉杖をつきながら、健常な人よりも早く、音もなく走るように歩くことができるのを私は知っていた。
家の前の学校の校庭の柳の木に登って、だれも下からは見つけられないようにカモフラージュした秘密の巣を作って遊んでいたが、そこから偶然家へやってくるまさやんを観察したことがある。
だれかに見られているときは、まさやんはいかにも大仰で困難そうな歩行にかわるのであった。
これという仕事にはつかず、父のところにものもいわずに顔を出しては、くれともいわずあげるともいわないで、なにがしかの金をだまったまま受けとると無 口のまま帰っていくのである。家から遠ざかるにつれて、歩むさまがかわっていくのを私は感心しながら観察していたのである。
まさやんはギャンブルに強いところがあったかどうか、いろんな博打に手を出したようだ。当時は闘鶏の博打をすることも多く、茣蓙で囲みをこしら えて、金を賭ける人たちがまわりを取り囲み、胴元の和服の袖のなかに手をつっこんでどちらに賭けたかわからないように金を渡してに金を賭ける。飼主は互い の軍鶏の胴体を両手でつかみ、向かい合わせて興奮が高まってから同時に手を離すと、激しく挑みかかり、けたたましい雄たけびをあげて軍鶏がぶつありあう。
軍鶏は鋭い足の蹴爪で相手の顔のあたりに飛び上がっては羽音もすざましく爪で攻撃をかける。たちまち茣蓙の壁は血だらけに染まっていく。
弱いほうが音をあげて逃げたら決着がつく。いちど負けた軍鶏は戦意を失って二度と闘う気力を取り戻せないのである。
ある日まさやんの育てた軍鶏がそんなふうに負けると、手近にあった斧をとりあげ、みんなの目の前で
「こん畜生めが!負けやがって」
とののしりながら斧で軍鶏の首を吹っ飛ばした。
首を切られた軍鶏は羽音をたてて数メートル疾駆してから動かなくなった。
軍鶏の返り血を浴びた髭面のまさやんの妖しい眼の光りに、ひとびとは恐れをなしてだまって散っていった。
以後まさやんのところでは闘鶏をやらなくなった。
昭和二十年七月三日深夜に徳島は空襲を受けて町は灰燼に帰した。
空襲がはじまったとき、父がはやく逃げろと叫んだ声は耳にしたが、鼓膜のやぶれそうな空気を引き裂く金属音の焼夷弾の落ちる音と、表の道路を逃げていく人々の悲鳴と叫喚を聞くと、私もわけもわからず弟の司郎の手をしっかりにぎって西の方に突っ走った。
家族のことなどまるで念頭になくなっていた。はじめは山のほうに逃げたが、山もさかんに燃えていて危なそうだったので、なんどか場所を変えては司郎と田んぼの真ん中に逃げていき、まわりに人がいないところにつったって、ふたりで町や山が燃え盛るのを眺めていた。
恐さよりも、山も町も一斉に燃えあがる巨大なパノラマの美しさに息をのまれて立っていたのである。
大きな火炎で空が真っ赤になり、爆撃機ボンバー29は下からその大きな炎の色を反映して胴体を真っ赤に光らせながら、町の上を旋回し低空飛行をくりかえしていた。
低空飛行しながら飛行機から町並みにガソリンを降りかけるのだと、のちにだれかから教えられた。
夜が明けてしばらくすると、父が大声で私と弟の名前を叫びながら探しに来てくれた。
その声でわれに帰ると、私は母の真新しい下駄を泥だらけにして履いていた。私は我家も燃えてしまったと思っていたが、三軒隣りまで燃えてしまったが家は無事だったと父から知らされた。
幸運にもというべきだろうが、この幸運はその後の不運のはじまりであった。
私の家族の難民のような長い放浪は、この空襲で我家が焼け残ったことが原因となって始まったのである。
敗戦の奉勅が放送されたころの我家と構成人員はおよそ以下のごときありさまであった。
八畳と六畳、四畳半、三畳、台所は土間になっていて二つの焚口をもつ竈があるという平屋建ての粗末な借家だが、この家に焼け出された縁者が集まってき、断りきれなくて同居することになったのはじつに四家族十六人にも及んだ。
なかにはまったく赤の他人の拝み屋の老夫婦から、近所に妹の余裕のある家がありながら病癖を嫌われて泊めてもらえず我家に泣きついてきた、毎夜寝小便を する病気もちの父の職人仲間のぶーやんという男、身内ではコギクと従姉の一子、伯母の一二三とコックをしている叔父の皐月もいた。
もう一日敗戦が遅ければ特攻隊で出撃して死んでいただろうという等さんという復員してきたばかりの若者とその弟もいた。等さんは銀河という飛行機に乗っていたということを聞かされた。
母方の祖母ヨウがたまにやってきて、この雑居ぶりを眺めてやれやれ救い難いという顔をしたが、ひとこともそのことについていったりはしなかった。
私と姉とは、毎夜のようにヨウの家へ泊まりに出かけるのであった。
まさやんの家も焼けてしまったが、我家に転がりこんできたりはしなかった。
住むところをうしなったまさやんは、焼けたトタンや廃材を拾い集めてきて、借家があった近くの、眉山のふもとにバラックというも粗末な掛け小屋をつくってそこで死ぬまでくらした。
こういう雑居構成の家のなかで、皐月が先ず父に文句をいいはじめたのは、ぶーやんの寝小便であった。皐月はたまたまぶーやんのとなりに寝ることになった らしく、ぶーやんは毎朝はやばやと布団を丸めて妹の家へ持ち帰り、布団を乾燥させて夜にまた持ってくるのだが次第に寝小便の匂いがきつくなってくるのであ る。
父はしかし皐月の文句には耳を貸そうとはしない。
文句があるならお前が出ていけばいいだろう、わしにはそんな不人情はできないといって突っぱねるのであった。この口論はなんどか繰り返され次第に険悪になっていった。
兄弟どちらも本来性格は温厚とはいえず、火のようにはげしいものをもっていたから、口論するたびに激昂の度が増していき、いまにも手が出そうな雰囲気になってくる。
そんな兄弟喧嘩をしながら、あろうことか皐月は四畳半に近所の若者をつれてきては、昼間から花札なんかで賭博をして騒ぐようになった。皐月は近所の若者たちにはなかなか人気があったのである。
賭博は父のもっとも忌み嫌うものであった。もともとあまり父は朗らかな人間とはいえず、どちらかといえば苦虫を噛み潰したほうのタイプである。そんな父がますます渋い顔になっていった。
父には皐月については母にも隠して、かばっていたことがある。
それは大阪へでてきてから、指物師の弟子として父に連れ歩かれていたころのことだが、ある日の仕事の帰り道で「皐月のことだが、あいつは若いころに不良 仲間同士で大喧嘩をして、何人かで一人を袋だたきに合わせたことがあったが、そいつが殴られて死んでしまったために、何人かが刑務所にはいっていたのだ。 皐月もその仲間だった」
このことを母に聞いてみると、
「いぜんから皐月さんのことで、なにかお父さんが隠し事をしていると思っていました。消息を聞いても曖昧な返事しかしないので、たぶんそんなことだろうと思っていましたよ。やはり兄弟ね、そんなにかばったりして。お母さんにさえ内緒にしているんだもの」
母は裁縫の手を止め、そういって縫い針をめっきり白くなった頭の髪にこすりつけた。
ある朝、皐月はぶーやんの眼の前で父にぶーやんを追い出せと迫ったのである。
その左手にはまさかりが握られていた。
「それはなんのつもりか」父は激怒してまさかりを指さした。
「薪をわろうとして手にもっていただけだ」とあわてるとすこし吃るくせのある皐月が答え、すぐ外へ出ていった。
それを見たぶーやんはその夜から来なくなったが、父はそういう形で友人を傷つけたことをふかく悲しんだ。
拝み屋の老夫婦もそれを見て、ここではまずいと思ったかその夜からいなくなった。
このとき父はこの家を棄てようと決意したのである。
それから数日後、数キロ離れた田舎の友人を頼って、どこか家が見つかるまでの一ヶ月の間とりあえずということで二階を使わせてもらうことになり、荷車一台に荷物をまとめ、一家七人が長年住み慣れた家をあとにしたのである。
ミシン針の製造をしている父の友人の家がある国府という町まで、荷車をひいてくれたのは母方の祖母ヨウであった。
われわれが家を出ていくとき一子と姉の久子は抱きあって声をあげて泣いた。
コギクは、背中がまるくなりはじめた小柄なからだをいっそう丸めるようにしながら玄関から出てきた。落ち窪んだコギクの目にはいっぱい涙がたまっていた。
私は背中に重い荷物を背負い、後ろ向きに歩きながらそんなコギクに手を振った。
コギクはなにかいおうとするように歯のない口をもぐもぐと動かしたが言葉はでてこなかった。
国府の家で約束の一ヶ月の暮らしの間、父は毎日知り合いを頼って八方手をつくして探したが、敗戦後の焼跡が広がる町にも、生活が成り立ちそうな田舎にも家などあろうはずはなく、一家は約束の日に祖母ヨウの家にやむをえず移った。
ヨウの家に移ったことを、ヨウの長男の息子の次男が、間接的にだが文句をいっているということなどを耳にした父は、条件はわるかったが鳴門に貸してくれるという納屋を見つけて決めて来た。
父に連れられて姉と私がそこを下見に行った。まさにそれは納屋に違いなく、白壁は塗ってあるが、屋根は頭がつかえそうなほど低く、床もなく、炭のかけらなどがころがっている土間が薄暗がりにあるきりだった。
「ここなの」と姉が泣き出しそうな声をだした。父は、
「すぐ住めるように自分でできるから心配するな」といって姉をなぐさめた。
数日していってみると、父が自分で大工仕事をして床を張ってあった。
床は真新しい杉の木の香りがしていた。私は近くの小学校へ転校してきて久しぶりに学校へ通いながらここで暮らしている間に、鳴門の芋畑の収穫後に、掘り こぼしになったさつまいもが砂から新芽を出しているのを探して掘りだして拾ってくることを、近所の餓鬼大将から教わった。
多賀浩二という高等小学校二年の彼は、いつも私を連れて芋のありそうなところに案内してくれた。
彼は我家の困難についてよくわかっていて協力してくれるのであった。
鳴門で電気もついていない納屋を借りて、インク瓶で手製のランプを父がこしらえて半年あまりくらしたのち、家族は敗戦の翌年大阪の南河内郡狭山へと転居した。
父は新聞の募集欄で社宅つきの木工熟練工募集の広告を見つけて、藁にもすがる思いで大阪まで下見に出かけて決めてきたのである。
大阪で転々と居を移すこと数度のとき、母はしばらく父と別居して下の子供三人をともなってヨウのもとに帰郷した。
不況で父に仕事がなくて、生活が困難だったからである。
まさやんの死を看取ったのはその時期のぼくの母光子であった。
まさやんが死んだことを母は興徳寺にも知らせた。
当時の住職はまさやんの腹違いの弟で、興徳寺で生まれた兄貴ですから、私が手厚く供養いたしますので遺骨を引き取りますといって、引き取っていった。
住職からは大阪で父と暮らしていた私にも、面識はなかったが、丁寧な電話をくれて、法要にはなんとか都合をつけてぜひ出席してくださいということであった。
そのような電話を頂いてから、あまり日にちも経たないうちに、従姉妹の一子から興徳寺の住職がトラックではねられ即死したという連絡が入った。
寺の跡継ぎ息子は高野山大学を終えるころで、まもなく興徳寺の後継の住職となって帰ってきたが、供養すべく用意されていたまさやんの遺骨を見ると、親父 ならばともかく、おれにはなんの縁もゆかりもない、大昔に寺を出た他人の供養なんかできないといって、まさやんの遺骨を寺のコンクリート作りの無縁佛を入 れる塔の地下壕のような穴に読経もしないで放り込んでしまった。
これを従姉妹から知らされた私はなんともいえずよからぬ予感がした。
まさやんというひとりの人間がその寺に生まれ、運命の風しだいでは、住職として寺を継いだかも知れないのに、コギクが寺を捨てたために生家の寺を出てき て、死んでからやっと生家に舞い戻って手厚く葬られるかと思いきや、おのれが生まれた寺の無縁塚にゴミのように投げ込まれるとは、なんというあわれな人生 だろうか。
なにかが起こる。
私はまさやんの鋭い目を思いだしながらそう思わずにはいられなかった。
幸せなんかとは無縁だった男。
皮肉な運命にしたがった男。あるいはみずからそれを呼び寄せた男。
ある人間の一生が終わった後で、なにごとか釈然としないものが後を引き、その人生を考えずにはいられないというのは、私に深い因縁があるということだろう。
まさやんがあらゆる因縁を意識的に絶とうとした念が反比例して、因縁が逆により機能してなにかに働くのではないか。
本人が自分の人生をどう思っていたことか、私は知らない。
わたしはまさやんと話したことすらない。
ときおり訪ねてくる父の義兄だということを知っているだけであった。
私がその男の存在などどうでもいい他人事だと思うような人間であったなら、出家するなどということを考えることもなかったであろう。
どういう生き方を余儀なくされた人間かということを知っただけで、私はたましいに煮え湯をかけられたような気持ちになるのである。
後日。
まさやんのお骨を無縁塚に投げ込んでからほどなく興徳寺の住職になった人は結婚して二人の女の子が生まれた。
上の子供が幼稚園に通うようになって間もなく、道路を横断しようとしてトラックにはねられ即死した。悲嘆にくれる両親の悲しみが癒えないうちに、下の女の子が高熱をだし、あわてて入院させたが翌日に死亡した。
奥さんはショックから立ち直れず、実家に帰ってしまい二度と寺に帰ることはなかった。
ある朝、ひとりきりになった住職を、檀家のひとが法事の依頼に訪ねてきて、返事がないので本堂へあがってみると、住職は梁からぶら下がって揺れていた。 この興徳寺での悲劇を従姉の一子から電話で知らされたとき、私はさもありなんと思った。
私は五〇歳になって四度加行のために高野山にのぼった。
四度加行を終えてはじめて真言宗の正式の僧として認められるのである。
真別所で出会った伝授阿闍梨の和上は、ある日の伝授の時間に、具体的なことはひとつもいわなかったが、僧侶が菩提を弔わないで粗略に扱うとじつに恐ろしいことが起こるものであるという話をした。
後で知ったが、伝授阿闍梨は阿波の人であり、和上の寺は興徳寺とは組寺であった。
私は四度加行を成満してから帰郷したとき、挨拶のために和上の寺を訪問したが、興徳寺と私の因縁についてはなにも話さなかった。
その足で興徳寺を訪れると、その後高野山から派遣されてやってきた三十半ばのご夫婦と小学生の女の子がいて、さらさらと時が流れるような雰囲気で寺を守っていた。
私は祖母が昔この寺に縁があったからとだけいって、本堂に上がらしてもらい読経した。
それからまさやんの眠る無縁塚に合掌した。
追記
この作品は東光寺のホームページに掲載しています。