緑洲から、遥かな夜炎を眺む
葬州の秋は早い。
葬州州都のここ、薫越の街は州域の南に寄り、先日までは暑気が残っていたが、今日は大草原の北から九月の風が吹きつけて、晴れた昼下がりだというのに肌寒かった。
(なるほど、繁華ではある。)
苡画異は、まだ色の付いてない銀杏並木の下を、油断なく鋭い目線を配りながら歩いている。
狐の如く吊り上がった眼はしかし、麻編み帽子のつばの下に暗く隠れていた。背は一七〇cmと少し高め、綿地の商人服に身を包んでいるが、ひきしまった筋肉質な体躯をその下に潜ませている。往き交う人はその黒く地味な服装の為か気に留めないが、分かる者がよく見ればひとかどの武将の変装と察するだろう。老成しているが、歳は二十一でまだ若く、鍛えられた躰で重い荷を軽々と背負っている。
往き、過ぎる人々。馬商人、羊商人、乳酪売りに、豊人から買い取った米などを売る豊物商。車輪や雑踏が道を通る毎に、緑洲の褐色の土をもうもうと巻き上げていた。砂漠を超えた南は、もう捻州である。豊人の文化圏に近いこの薫越という街が、彼の故郷である荊舒林と比べて、賑わいの差が歴然としているのは、当然であった。
(いけ好かぬ。)
しかし苡画異は、遊牧の民としてこの街を受け入れられぬ。農耕民族である豊人の文化の影響を多分に受けた市街地は装飾過多で、狩猟民族の矜持がけし飛んでいるように見えた。大姚三十一州にあっても葬州は独特で、広大な大草原をまるごと抱え込む遊牧の地なのである。しかもここ薫越は葬州の州都、質朴かつ勇猛な遊牧の魂は何処へ去んぬるや?浮ついた街の空気に苡画異は憤慨し、もともと背筋の正しい漢だが、今は必要以上に胸を張って、ふんぞり返らんばかりだ。
だが浮ついていると言えば、苡画異の横を歩く女もなかなかのものである。
こちらも色は黒の薄絹を羽織り、当人は変装の積りかもしれないが、胸元の大きく開いた絹地の装束を下に着け、白い両の乳房がこぼれ出しそうである。背が低く、苡画異の目線からだと胸の谷間の、はるか下まで覗けてしまう。
「何か疲れたわね。ねえ、あすこで休んでこうよ。」
と、上目遣いで粘りつくような声を発した。しゃくった丸い顎の先に、「薫南小飯店」という扁額を掲げるうらぶれた宿所が建っている。一見して、連れ込み宿だと知れる。
「いけません。」
まったく、荊舒林を出てから何度目か。
「ふふ。堅いわねえ。漢はそうでなきゃねえ。」
女の眼は苡画異から何度目かの拒絶を受けて、かえって喜色を浮かべ、少し濡れた。
こんな女でも、重要な密使である。
荊舒林を出る時、害伝膜惹から「州都を出るまで送れ」と命じられたが、その緊張感に、さすがの若き猛将も肝が縮んだ。
坡州王「褐剣髯」塊協半の密使。
苡画異の主君、莞包旅礼甦に向けて、派遣されてきたのである。何を伝えたのか。莞包旅礼甦も、その参謀である害伝膜惹も、女使者の言を聞いて眼を丸くし、莞包旅礼甦に至っては「まことか、苺複!」と肉付きのよい女の両肩を鷲掴みにしていた。
「米だよ!楽界炎州の美味い米、甘いよ。安いよっ。」
傍らでは豊物商の店に騎馬服の葬州人が群がって、農産物や綺羅々々しい
衣装に目の色を変えている。
目の色が違うのはこの女 ― 坡州密使の苺複 ― も同様ではある。
「画異ちゃん、もうあすこが関門かい?寂しいねえ。ほら、やっぱりさっきの宿所で休んでいこうよ。ね?」
「いけません。」
荊舒林からの道すがら、こんな感じで誘惑してきた訳だが、苡画異は手を出さなかった。彼も木石ではない。まだ若く、未婚でもあるから、何かあっても大して問題はない。こんな色っぽい女が向こうから誘ってくれば、正直な所、動揺もする。
(しかし、必ず無事に、薫越から追い出さねば。)
任務に忠実な男であった。任務は「追い出」すことではく、「送り出」すことだったが。もう「薫南小飯店」は家々と土埃の向こうに消えて見えず、代わりに薫越の外街区のはずれの関が見えてきた。
「堅いわね、本当にぃ。」
「声を落として下さい。関門です。」
「うふふ。こわい。」
さすが破天荒の苺複も、薄絹の羽織りをかき寄せて、胸元を隠す。
「止まれ。」
関守二人が十字に鉄棒を交差させ、男女の行く手を阻む。
「へえ。よろしくお願いしやす。」
苡画異はひょっこりと頭を下げ、下卑た笑いを浮かべた。すでに商人になりきっている。
「どこから来て、どこへ行く。」
「へえ、菌然衡から来まして、托賈彗まで参ります。あ、売り物は砂金でさあ。葬北山脈の東です。そうそれが砂金の一部で。どうぞ、ご覧になって。」
下ろした荷を関守が無用意に開けているが、眉ひとつ動かさずに見つめ、苡画異はあくまで低姿勢である。
「ふうん。純度がそんなに良くないな。」
「ははあ、さすがですな、そうですか。ふうむ、なるほど。売り物にはならんかもしれませんな。では、これ、このぐらい、はい。」
「むむ。何だ?」
苡画異が、関守たちの眺めていた砂金の一部をすくって彼らの手にサラサラと盛ったのである。
「困るぞ、こんな。」
「いや、売り物にもならない、ただの砂。ただ今、二人の商人が砂袋から砂をこぼしただけの話でさあ。」
咄嗟に関守は顔を見合わせ、
「ううむ。砂であれば、この先の旅に、重荷になろうし、ここで少し捨てていったがよかろう。わしらの方で捨てておくぞ。」
「いや、助かります。さ、お前、荷が軽くなったし先を急ごう。」
後続に貧しそうな旅人がいたが、これはかなり厳しい口調で取り調べられている。それを尻目に見て、苡画異と苺複はそそくさと関を立ち去った。
「ふふ」
苺複が笑う。
「莞包公があんたみたいな優秀な将軍を付けてくださったのはありがたいけどさ ― 芥揚の奴、もう、長くないわね。」
反射的に、苡画異は後ろを振り返った。すでに先程の関門は三百mほど後方である。聞こえなかった、だろう。
芥揚とは、この州都薫越を本拠にする葬州王である。
(歳はもはや六十二と聞く。この女に言われるまでもなし、その暗愚はこの広い原葬の草原の誰もが知っとるわ。)
葬州は、州南部の茉皎を本拠にする异粽、同じく西部蔡駅の薙扁買、そして苡画異の主君である北部荊舒林の莞包旅礼甦などの豪族が多く、芥揚はそのいずれも掌握できていない。ましてや大渤帝国による葬州東部の直接支配に対しては、まったくの無抵抗である。
「さっきの関門のゆるいこと。あたしら、叩けばいくらでも埃の立ちそうな二人じゃないか。それを、あれっぽっちの砂金で転びやがって。あたし一人でもここは通れたわね。」
苺複は言ってから、「しまった」という顔をした。確かに、はるか荊舒林から護衛してきてくれている立派な武官に対してあまりに恩知らずな発言ではある。
「あんた出世するよ。」
と、苡画異の腕を抱え込んで、我が胸乳を押しつけてきた。彼女としては失礼を詫びている積りだろうが、こんな埋め合わせの仕方もあるのか、と可笑しかった。
苡画異も同感だったから、先程の苺複の発言に然程腹も立っていない。確かに怪しい女が一人で関門に来ても、あの関守ははした金で簡単に背任するだろう。
だが、苺複の言で何より同感だったのは、葬州王芥揚の統治力の無さであった。州都の弛緩した空気は全て、統治者たる芥揚に起因するといっていいだろう。
秋の日は少しずつ落ち、北風がまた、ふっ、と二人に吹きつける。
とりあえず苡画異は、若い心臓をドキドキさせ、腕を組んだままにさせていたが、
「うふ。教えておくよ。」
苺複は嬉しそうに言った。それはなぜか、先程の芥揚批判よりも声は抑えていて、囁くようだった。
「郷に帰ったら、莞包公と害伝様の会話に気を付けな。耳をそば立てて、ね。自分の為だよ。」
「え?」
街の外に出て風が強くなったが、彼女の言葉を聞き取れなかった訳ではない。自分に関係する話なのか、と驚いたのである。
「墨銘楼で火事が起こってね。酷い火事だったの。ただでさえ暑い夜だったのにね。まったく、揆将軍寝返りの損失を、まだ全然埋められてないのにね。」
囁く苺複は、ここでまた薄絹を胸の前でかき寄せた。
「こういう事件がね、回り回ってあんたの運命を左右するようになるんだよ。いや、そんな迂遠なもんじゃない。あんたはきっと偉くなるからさ、それこそ生死に直結するようになるわ。」
「火事か。それは。。。」
ただの火事ではないのだろう。
「しかし自分の愛した男を、ねえ。揆朋楓もそうだけど、女は男が絡むと何をするか分かりゃしない。」
いつか土が褐色から黄に変わっている。薫越の緑洲を抜け、そろそろ茫漠とした荒原だ。もう一時間も歩けば坡州の細作が苺複を迎えに来ている筈である。
「怖いよねえ。」
苺複は前を、南方に横たわる地平線を見つめている。いや本当は、さらにそのはるか向こうの恐ろしい火事の焼け跡を、眺めているのかもしれない。
苡画異には、青空に舞いあがる黄砂だけが見える。きっと北捻砂漠のものであろう。
眞暦1818年9月。
世に言う「墨夏夜炎」という事件の、翌月の話である。
※ 緑洲 = オアシス
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葬州中部
捻州




