思案、穏和なる眼底の内に進む
眞暦1817年8月 。
坡州北部の城市、壅蛮陵は真夏の夕方、雨が上がって城壁はまだ濡れ、西陽を浴びて光っている。
城門前に、騎馬の武人がいた。
(譬新… ね。雨の中を待ってたんだわ、塊協半様の判断を聞くために。)
こちらも、騎馬である。
壅蛮陵に帰城せんとするこの女性は、頭巾を取って、高く結い上げた黒髪と、皺の刻まれた面長な顔をさらした。垂れた目尻の両眼は真っ直ぐ前を見つめて、緩く手綱を握っている。なで肩でほっそりしているが、外套の下に、褐色の鎧が少しのぞいた。
彼女の馬は、城門前に歩を進める。
「蜻省首様。お帰りなさいませ。」
副城主の譬新ががらがらした声で迎えた。譬新も身体が細く、小柄だが、下唇に大きな傷跡があり、クセの強い口髭とあわせ、武人として凄味を出している。
対して、出迎えを受けた外套の女性 ― 蜻省首 ― の方は、柔らかく包み込むような声音で、城主としての確認を行なった。
「留守居、大儀でした。変わりは?」
だが、いつもより少し抑揚がなかった。蜻省首は垂れた目尻の先に深く笑い皺を寄せ、なるべく穏やかな目で髭の武人を見つめる。
そんな微細な機微に、譬新は気付く訳もなく、
「特にありませぬ。それよりもっ、」
と、急に激した。
「『褐剣髯』様のお許しはっ」
「譬新どの」
蜻省首は笑い皺はそのままに、目の光だけを鋭く変えて、武人に対した。
「声を落としなさい。」
「は。。。」
城門付近には歩兵、騎兵の小隊、中隊が水たまりの黄濁した水を跳ね飛ばしながら、行き交っている。そして、血走った目を皆一斉に、馬上の城主と副城主へ向けた。
雨雲が去って、赤い夕焼け空に筋雲が少しだけ残っている。
(それは、気になる筈よ。文官の私以上に。塊軍の土哭将軍に対する支持は絶大だわ。でも、譬新の今の態度はたしなめるべきね。)
蜻省首は沈黙した。周りが静まるのを待ったのである。
ふいに空を見上げて黙った蜻省首を、譬新はしばらく持て余したが、ややあって、
「。。。『孤闌王』様を助けられますか。」
と、小声でおずおず聞いた。
蜻省首は目だけ動かし、改めて周りに気を配ると、ようやく聞こえるくらいの声量で言った。
「『褐剣髯』様は、首を縦にふらなかった。」
譬新の顔が曇るが、構わず続ける。
「あの五カ国軍を向こうに回して、はや四カ月になります。さしもの孤闌王も、疲弊の極にあるでしょう。しかし、それは当然、『褐剣髯』様も分かっておられます。」
言っている内に蜻省首も眉をひそめ、垂れ目が一層に悲哀を帯びてきた。
そして城主の顔が悲しげに歪むと、譬新の表情にも絶望の色が浮かんだ。
「かの人は我が軍にとってかけがえない将軍です。英雄です。『褐剣髯』様は、なぜ我らの助勢を許して下さらないのでしょうか。」
譬新は声をひそめながらも、必死の形相で蜻省首に訴えた。
(なぜ?そう。なぜなのかしら。)
夏の西陽はいよいよ赤く、壅蛮陵の城内を茜色に染める。騎馬兵が、二人の横を過ぎる。鎧をカシャつかせ、城主と副官に対して敬礼はするが、下馬しない。いつでも穣河を渡河し、闔州に進軍できるよう、臨戦態勢にある為、上官に対しても馬を降りずに良いのである。
そんな騎馬兵たちの背中を無言で見つめつつ、蜻省首は譬新の言葉を待った。
「臨戦号令をっ。解除します。」
辛かったろうが、譬新は決断した。
下唇の傷跡を前歯で噛み締め、甲冑を小刻みに震わせている。
「そうね。まずは。城主からの指示として、城中に周知徹底下さい。」
「はっ。。。」
踵を返して、軍本庁舎へ向かう譬新。武人の背中は意気消沈しているが、追い打ちをかけるように、優しい女城主は言葉を投げつける。
「徹底よ。全兵、市民にもね。」
びくっ。譬新は体を痙攣させ、振り向いた。悔しげだったが、力無くうなづくと、再び馬を進め始めた。
(なぜ、か。確かに。)
土哭を救いたいのは蜻省首も一緒だが、彼女は頭に少し引っかかっていて、馬上で思案している。
塊協半は、蜻省首に対して、援軍不可の方針を壅蛮陵の軍隊に徹底しろ、市民にまで知らしめろ、と命じた。
土哭への援兵を希望した蜻省首としては、まったく正反対の、不本意な指示だった訳だが、それにしても敢えて消極的な決断を市民にまで浸透させる必要があるのか。
(塊協半様のことですからね。何かお考えがある筈。)
蜻省首は、塊協半の下に「坡州夢郷」構想を掲げて産業政策を推進し始めた昱右に心酔し、彼女の行政府に身を投じた。だが、友人である閔中城の閃戴を投降させてから、塊協半の戦略面にも関わるようになった。
西陽が、暑い。
雨の水滴がすっかり乾いた外套を脱ぎ捨て、金簪を外してバサリ、と黒髪を下ろす。
長い黒髪が背中に流れ落ちた。
(もしや?)
城内には早くも戦備解除の報が知れ渡ったようで、往来が騒がしくなっている。
そんな中、褐色の甲冑に身を包んだ華奢な女城主は、騎馬のまましばらく思案顔で佇んでいた。彼女が仕える穣界の風雲児が、どんな策を腹蔵しているのか、穏やかな垂れ目を瞑り、ゆっくりと推量を進めた。
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坡州




