巍寸の冬、旧陽皇秘邸の緊迫
雪は止んだが、この山郷を見渡せば一面の銀世界である。
冬の昼光が雪原を照らし、墳崔申は眩しくて左手を翳した。
「ここは長閑だな。」
独り言を洩らすその息は白い。若々しい肌は山国の厳寒を跳ね返し、その頬はほんのりと紅い。
ここ巍寸は、農業と畜産を主産業にする地域で、山州中西部の山間地に位置する。大きな城市もなく、戦略的に重要な拠点でもない。だが、昔から灌漑施設や貯蔵庫、貸出用の農耕具、畜産道具の整備が充実し、中原に比較して過酷な気候環境にある山州にあって、高い生産力を誇る地帯だった。昨秋の実りは十分で、羊や馬などの家畜群も大きな病気も無く順調に増えている、という。
墳崔申少年は、西方へ延々と連なる青い氷の大山脈を見て、ぶるっ、と身震いすると、右手の箒を持ち直す。右手首にぶら下げた鍵束が乾いた金属音を立てる。
「さて。それじゃ、入ってみるか。」
そう言って背後の小閣を振り返った。
小さな岩山に建つ、古い邸。
「賛禽公邸」と呼ばれていた。
墳崔申を雇う地主、崗家の屋敷地内にあり、眺望が良い為、墳崔申はその邸前から巍寸の大地を一望できたのである。
紅い塗装は褪せているが、とんがり屋根は積もった雪を下方に落とし、雪深いこの地に建物が残っているのも頷ける。
墳崔申は、小閣の扉に下がる錠前の鍵穴に、中でも一番古びた鍵を挿し入れた。
(これが、賛禽おやこの邸か。)
蝶番の軋む音ともに、扉は開いた。
邸内から、ぴぃん、と刺すような冷気が吹いて、少年の顔を打つ。
彼は、この古い邸宅に入るのが初めてだった。崗家に十五歳で雇われて以来二年、掃除や薪割り、小間使いを随分やって、屋敷のことには知悉していたが、この建物には近付いたことが無かった。この巍寸における中興の祖、崗賛在、崗禽昌父子の当時の邸宅というのは知っていて、神聖な場所だと思っていたのである。自分を雇っている家、崗家の祖の家でもある。
だが今朝、崗家の娘・衍が、厚ぼったい唇を手で隠しもせずにあくびをしながら、
「あああ、と。ねえ、墳崔申。今日、昼飯食ったら、賛禽公邸を掃除しときなぁ。」
と鍵束を投げ寄越した。崗衍は、雇い主の娘という立場もそうだが、歳も五つほど上なので、いつも墳崔申に対して高飛車な態度をとっていた。
それはともかく、墳崔申にとっては、
(なんだ、存外気安い場所なのかもな)
と、逆にがっかりしたものである。
言われた通り、昼過ぎに鍵を開けてみた。しかし、入ってすぐ、暗い邸内に墳崔申は張りつめた空気を感じた。気安い場所ではない、と直感した。
閣内の床から、しんしんと冷えが来ている。歯が鳴るが、いつまでも寒がってもいられない。怖い訳ではないが、かつて住んでいた人の心持ちの一端が伝わってきて、それが痺れるようで、体が縮こまる。寒さのせいだけではない。
「さて、と。」
あえて声を出し、おもむろに箒を動かし始める。
扉を開け放しているのにそれでも暗いが、徐々に目が慣れてくる。調度の少ない質素な家だ。一階は玄関と広間、奥に扉が一つあるがそんな程度で、広間に卓が一台と椅子が二脚、壁に棚が打ち付けられ、その他は炕が一つ設えてあるぐらいである。そのいずれも古い。
壁に何も貼ってない。
崗衍の部屋を一度、掃除させられたことがあるが、「山州五大美男」などの錦絵が所狭しと貼り込まれ、キラびやかというか、ケバケバしいというか、墳崔申のような若い男には嫌悪感を抱かせる、若い女の嗜好が鼻についた。
それに比べて、ここはただの石壁。壁一面、ざらついた飾り気のない素材である。
だが、広間の奥、別部屋の扉脇に地図が一枚だけ貼ってあった。奥まで歩を進める。暗い中、目を凝らすと、ここ巍寸の地図なのが、見て取れた。
「それは、作高だよぉ。」
ふいに、玄関から声が聞こえた。
と同時に、地図の中に無数の数字が細かく書き込まれているのが分かった。
「剋旬険公が書いた、1671年当時の巍寸の地区別生産高だね。」
振り返ると、冬の西日の中に、崗衍が立っていた。甘ったるい声色が、この邸に似つかわしくない。
「生産高、ですか。お嬢様。」
「そう。よぉく見てごらんよ。二五〇m毎の方眼に耕地を区切り、作高を入れてるのさ。数値の色は、地図右下の凡例通りに産物別で色分けしてある。」
地図に目を戻せば、確かにそうなっているようだ。
(しかし。剋旬険って誰だろう。)
墳崔申が首をひねると同時に、再びけだるい崗衍の声が、背中からかぶさってきた。
「そうか。お前はまだ十七歳だもんねぇ。まだ巍寸のことは…、歴史のことはよく知らないわよね。まあ、剋旬険公はお前も良く知っている人だよ。」
あ、崗禽昌公のことか。咄嗟に少年はぴん、ときた。
「陸島の女王だった剋馬魏公が ― 『両手の魔皇』と呼ばれてたらしいけど ― 陸島を追われ、漂白の末、ここ巍寸に逃れ着いたのが眞暦1627年。その嫡男が、崗賛在こと剋羅旭公、そしてそのまた嫡男が崗禽昌こと剋旬険公。陸島にいる桐川の奴らがしつこく剋家の嫡流を追っていたから、名前を変えなきゃいけなかったのねぇ。」
背中越しに、地主の姐さんの声を聞きながら、箒を動かす。今度は「陸島」というのが分からない。分からないが、この邸の主は異国の王家だった、というのは確かなようだ。
「剋羅旭・旬険の父子はこの山郷を豊かな土地に変えた。財は私せず、着飾らず、郷は富めど、富めば富むほど父子は多忙を極め、巍寸の民より早く起き、そして遅く寝た。」
この話は小さな頃からよく聞かされている。今の崗家の為し方とは大違いだ。現当主の崗含査は租税の上にふんぞり返っているだけの、なまぐさ領主である。この家はどこでどう変わってしまったのだろう、と前から不思議でならなかった。百年以上経つと、しょうがないのだろうか。
「しかし、陸島の桐川ってのは本当に執念深いのよぉ。1671年に、嗅ぎつけやがったのさ。この巍寸に王家の嫡流がいる、とね。四十… 四十四年かぁ。島に帰らずに四十四年も楽界に残ってたんだね。恐ろしいわぁ。だけど奴らが凱源に降り立つやいなや、剋旬険公はぱっ、と雲隠れして、消えちまったのさ。」
「え?」
思わず、墳崔申は箒の手を止める。同時に足元から、寒気が這い上ってきた。
「思い切ったご判断よねぇ。山郷とはいえ、四十年も手塩にかけた所領をさ、一夜で手放すんだから。この邸はね、剋旬険公が出て行った時、そのままの状況に保存してあるのよ。」
山郷の主としてつつましく善政を布きながらの潜伏生活。踏み込んだ桐川とかいう敵はこのガラン、とした邸を見て何と思ったか。
しかし、剋旬険がここから消えたということは。
「剋家はその後、陸島に舞戻って再び王の座に就いた。今の陸島の王は、剋旬険の子孫なのよぉぉぉぉ。」
次の瞬間、凍えた墳崔申の体は、背後からやわやわとしたものに抱きすくめられた。
「あ、あの。お嬢様。」
「分かったかい。今の崗家は、聖人君主さん達とはまったく血の繋がりが無いのよ。だからこんなことをするのさぁ。」
雇い主の娘の身体は柔らかくて、そして熱かった。背中越しにそれを感じながら、羽交締めにされながら、墳崔申は邸内を見渡して、言う。
「だめですよ。掃除が、まだ終わってません。」
言い終わらぬ内に、崗衍は墳崔申の手から箒をむしり取って、投げ棄てた。箒が石壁に当たり、乾いた音を立てて床に転がる。
「お前は、私の言うなりなんだよ。さあさあ。こないだみたいな事を、ここでするよぉ。」
小閣の冷気は一層張りつめている。少年は、邸に漂う緊迫感を濃厚に感知しながらも、雇い主の娘には逆らえない。
(ごめんなさい。)
彼は心の中で、かつての家主に謝罪した後、広間の真ん中で蹂躙された。
眞暦1816年2月。
山間の小天地は、冬の底に沈んでいる。
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山央 (山州中部)
三籠全図




