渓谷の初冬、百七十一年の先を見透す
深山幽谷。
渓谷の松に、先日の初雪が薄く残っている。深い谷の上に開いた狭い空は青空で、鳶が翼を広げて横切ったが、その鳴き声は鋭く澄んで凍えているようだった。
崖底にへばりつくように建つ小亭に座る狎癒は、カサついた白く長い髭をゆっくり撫でながら、そんな谷の風景を眺める。ただ眺める、と言っても、その目は乳色に濁って、本当に観ているのかは分からない。向かいの断崖に冬毛に生え変わっている羚羊が現れ、ひどく大柄で立派な体躯であったが、狎癒の老いた表情はそれを見ても特に動きもしない。
「どうか、弟子にしてください。」
狎癒の足元、若者が跪いて懇願しているが、それが聞こえているのか、いないのか。青年は狎癒の木履を舐めんばかりに床を這い、土下座を続ける。
「その為に、この獺彪谷まで登って参ったのです。」
亭に壁は無く、十一月の風が吹き込み、晴れた昼下がりとは言ってもさすが山間、すでに身を刺す冷たさである。
青年も綿入れの外套をまとっているが、
「私、獅歩空めはっ。。。う。。」
陳情の途中で、寒風に耐えられず呻き声を上げてしまった。青白く痩せた平凡な面相、高くもない丸型の鼻の下についた大きめな口が軽く引きつって、唇もカサついている。
対して狎癒は、この渓谷で世捨て人としての生活に身を沈ませ、何十年経つか、白髭と薄い道服を風にたなびかせ、悠然としていた。
青年 ― 獅歩空 ― は少し恨み節にも似た言上を、だらだらと続けている。
「猟州都、狒円からはるばる原野を抜け、谷山を越え、桟道を渡って参ったのです。これこの通り、服も所々破れております。猟州の獺彪谷に神仙あり、と皆言っており、その言葉を頼りに踏破したのです。そしてあなたが、いた。狎癒様、あなたが。」
また寒風が亭内に吹き込む。獅歩空はぐっ、と奥歯を噛み締め、寒さを堪える。大きな犬歯が見えた。
「先月、州王代が誅せられました。」
獅歩空はちら、と狎癒を見上げた。だがその表情に動きはない。
「最早、三籠に大義はありません。我、下吏といえど、義憤くらいはおぼえます。官を辞し、神仙とともに山に籠ろうと思うのです。」
この前月、眞暦1815年10月。
「三籠侯」峻江彩は、崑走博を討った。崑走博は、猟州王代と三籠の交相を兼務し、二十年の長きに渡って、峻江彩を支えてきた大官である。ちなみに「三籠」とは西部山岳地帯の三州、山州、猟州、鋤州の総称であり、峻家が代々1686年からすべての州王を兼務する独立国で、「三籠侯」は正式に称号化されている。
崑走博は三籠の外交を担ってその独立性を保つとともに、猟州の治政も良好、三籠全体から敬愛を集めていた人物であった。それを三籠侯・峻江彩自ら討伐したことに、官吏も領民も嘆き、怒りを露わにしていた。
「国の長が諫言を聞かず、あまつさえその直言の忠臣を殺すなど、まさに亡国の前兆。息子可愛さに国の行く末を誤るなど、惜しいかな。」
獅歩空が言うように、峻江彩が龍眼に就けた嫡男の峻乖が、賄賂を好む問題人物であり、崑走博はこれを諫めたのである。
獅歩空は石床を拳で叩き、涙を流している。
「惜しゅうございます。峻僧炎公より約百三十年、斐界において双瘤の一方に位置付けられ、国治り、兵は精強、我が三籠に大きなる誇りを持ってまいりましたがっ。」
すっ、と狎癒が白濁した瞳を、床の上の獅歩空に向けた。わー、わー、泣く獅歩空はそれに気付かず、大きな犬歯を剥き出しにしている。この時も老人に表情はなかったが、右頬が少し痙攣するように揺れた。
「私には、恋人も無し、家族も無し、親も無し、天涯孤独の身です。私が世を棄てて悲しむ者も、なし。厭世ここに極まれり。さらば猟州、さらば三籠!」
一人激している獅歩空から、狎癒は顔を逸らし、空を見る。日が傾き、暗い灰色の雲が、狭い谷上の空を覆い始めていた。風が若干、強まったようである。
「そなたを弟子にはせぬ。」
狎癒がはじめて口を開いた。
びくっ、と獅歩空が背中を波打たせる。老人の声はしゃがれていたが、歌のように軽やかであった。
「下界に戻りなさい。」
「いえっ、私は。。。」
いいすがる青年はしかし、乳白色の瞳に射抜かれるように見据えられて、言葉を失った。先ほどの激した感情が急速にしぼんでいくようだった。
「結婚し、子を成し、財を蓄えなさい。貴方はそうした方がいい。」
くい、と神仙はあごをしゃくった。空を見ろ、という仕草で、獅歩空も床に膝を付いたまま、つられて空を仰いだ。
「雲が出ておる。今度の雪は多そうだ。下へはあなたの足でも三日はかかろう。疾く疾く発たれよ。」
獅歩空が逡巡していると、仙人は眉間に皺寄せ、
「何をしている。猟州が何ぞ。三籠が何ぞ。貴方がここにいることこそ、惜しいと言っておるのだっ。」
白く濁った眼をくわっ、と見開いてやる。山深い渓谷に、狎癒の声が鳴動した。大きくはなかったが、その喝は切り立った断崖に反響し、青年の脳を震わせた。
「あ。ああ。はい、下ります。山を下ります。」
獅歩空は憑かれたように亭をあとにした。
飛ぶように渓流沿いを走り行く、若い背中を、狎癒は見つめる。その口から洩れたため息は、安堵のものであったか。
程なく。
獺彪谷に、小雪がちらつき始めた。
****************************
猟州
三籠全図




