表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
73/120

渓谷の初冬、百七十一年の先を見透す

 深山幽谷。


 渓谷の松に、先日の初雪が薄く残っている。深い谷の上に開いた狭い空は青空で、(とび)が翼を広げて横切ったが、その鳴き声は鋭く澄んで凍えているようだった。


 崖底にへばりつくように建つ小亭に座る狎癒(おうゆ)は、カサついた白く長い髭をゆっくり撫でながら、そんな谷の風景を眺める。ただ眺める、と言っても、その目は乳色に濁って、本当に観ているのかは分からない。向かいの断崖に冬毛に生え変わっている羚羊(かもしか)が現れ、ひどく大柄で立派な体躯であったが、狎癒の老いた表情はそれを見ても特に動きもしない。


「どうか、弟子にしてください。」

 狎癒の足元、若者が(ひざまず)いて懇願しているが、それが聞こえているのか、いないのか。青年は狎癒の木履(ぼくり)を舐めんばかりに床を這い、土下座を続ける。

「その為に、この獺彪谷(だっぴょうこく)まで登って参ったのです。」


 亭に壁は無く、十一月の風が吹き込み、晴れた昼下がりとは言ってもさすが山間、すでに身を刺す冷たさである。


 青年も綿入れの外套をまとっているが、

「私、獅歩空(しほくう)めはっ。。。う。。」

 陳情の途中で、寒風に耐えられず呻き声を上げてしまった。青白く痩せた平凡な面相、高くもない丸型の鼻の下についた大きめな口が軽く引きつって、唇もカサついている。

 対して狎癒は、この渓谷で世捨て人としての生活に身を沈ませ、何十年経つか、白髭と薄い道服を風にたなびかせ、悠然としていた。


 青年 ― 獅歩空 ― は少し恨み節にも似た言上を、だらだらと続けている。

(りょう)州都、狒円(ひえん)からはるばる原野を抜け、谷山を越え、桟道を渡って参ったのです。これこの通り、服も所々破れております。猟州の獺彪谷に神仙あり、と皆言っており、その言葉を頼りに踏破したのです。そしてあなたが、いた。狎癒様、あなたが。」

 また寒風が亭内に吹き込む。獅歩空はぐっ、と奥歯を噛み締め、寒さを堪える。大きな犬歯が見えた。


「先月、州王代が誅せられました。」

 獅歩空はちら、と狎癒を見上げた。だがその表情に動きはない。

「最早、三籠(さんろう)に大義はありません。我、下吏といえど、義憤くらいはおぼえます。官を辞し、神仙とともに山に籠ろうと思うのです。」


 この前月、眞暦(しんれき)1815年10月。

 「三籠侯」峻江彩(しゅんこうさい)は、崑走博(こんそうはく)を討った。崑走博は、猟州王代と三籠の交相(こうしょう)を兼務し、二十年の長きに渡って、峻江彩を支えてきた大官である。ちなみに「三籠」とは西部山岳地帯の三州、山州、猟州、鋤州の総称であり、峻家が代々1686年からすべての州王を兼務する独立国で、「三籠侯」は正式に称号化されている。

 崑走博は三籠の外交を担ってその独立性を保つとともに、猟州の治政も良好、三籠全体から敬愛を集めていた人物であった。それを三籠侯・峻江彩自ら討伐したことに、官吏も領民も嘆き、怒りを露わにしていた。

「国の長が諫言を聞かず、あまつさえその直言の忠臣を殺すなど、まさに亡国の前兆。息子可愛さに国の行く末を誤るなど、惜しいかな。」

 獅歩空が言うように、峻江彩が龍眼(りゅうがん)に就けた嫡男の峻乖(しゅんかい)が、賄賂を好む問題人物であり、崑走博はこれを諫めたのである。


 獅歩空は石床を拳で叩き、涙を流している。

「惜しゅうございます。峻僧炎(しゅんそうえん)公より約百三十年、斐界(ひかい)において双瘤(そうりゅう)の一方に位置付けられ、国治り、兵は精強、我が三籠に大きなる誇りを持ってまいりましたがっ。」

 すっ、と狎癒が白濁した瞳を、床の上の獅歩空に向けた。わー、わー、泣く獅歩空はそれに気付かず、大きな犬歯を剥き出しにしている。この時も老人に表情はなかったが、右頬が少し痙攣するように揺れた。


「私には、恋人も無し、家族も無し、親も無し、天涯孤独の身です。私が世を棄てて悲しむ者も、なし。厭世ここに極まれり。さらば猟州、さらば三籠!」

 一人激している獅歩空から、狎癒は顔を逸らし、空を見る。日が傾き、暗い灰色の雲が、狭い谷上の空を覆い始めていた。風が若干、強まったようである。


「そなたを弟子にはせぬ。」

 狎癒がはじめて口を開いた。

 びくっ、と獅歩空が背中を波打たせる。老人の声はしゃがれていたが、歌のように軽やかであった。


「下界に戻りなさい。」

「いえっ、私は。。。」

 いいすがる青年はしかし、乳白色の瞳に射抜かれるように見据えられて、言葉を失った。先ほどの激した感情が急速にしぼんでいくようだった。


「結婚し、子を成し、財を蓄えなさい。貴方はそうした方がいい。」

 くい、と神仙はあごをしゃくった。空を見ろ、という仕草で、獅歩空も床に膝を付いたまま、つられて空を仰いだ。

「雲が出ておる。今度の雪は多そうだ。下へはあなたの足でも三日はかかろう。()く疾く発たれよ。」


 獅歩空が逡巡していると、仙人は眉間に皺寄せ、

「何をしている。猟州が何ぞ。三籠が何ぞ。貴方がここにいることこそ、惜しいと言っておるのだっ。」

 白く濁った眼をくわっ、と見開いてやる。山深い渓谷に、狎癒の声が鳴動した。大きくはなかったが、その喝は切り立った断崖に反響し、青年の脳を震わせた。


「あ。ああ。はい、下ります。山を下ります。」

 獅歩空は憑かれたように亭をあとにした。


 飛ぶように渓流沿いを走り行く、若い背中を、狎癒は見つめる。その口から洩れたため息は、安堵のものであったか。


 程なく。


 獺彪谷に、小雪がちらつき始めた。





****************************



猟州


挿絵(By みてみん)



三籠全図


挿絵(By みてみん)




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ