小春梅、落花
眼下に小ぢんまりとした城市が見える。
小雨がちらつき、肌寒いが、もう春だ。眞暦1796年4月、山がちの遜州にあっても、朝も10時を過ぎればもう空気は温んでいる。
ただ、起輯の甲冑は馬鹿に重く、厚く、彼自身少し汗ばんでいたのだが、それはその為だけではない。
「やはり迂量山は奏同啄飯と関係ないか。」
起輯は正面5km先に相対する山系を指差しながら、傍の副官、邈舎邦に聞く。
迂量山には多くの旗幟が揺れている。だが向こうから、こちらの山、廻用山を見ても同じように見えているだろう。事実、起輯の背後には、橙の地に群青で「逓」、右には「起」と刺繍した幟が突き立って、小雨の下、近衛兵や数人の部将に守られながら、それぞれ左からの微風に靡いていた。起輯にとっての左、方角で言えば南であり、風は幾分暖かい。彼が率いる遜州軍は一万五千で山に籠って、橙に統一された旗幟を皆で立てており、それらが南風にゆらめく姿はなかなか壮観な筈である。
「そのようです。間諜が始祖:嘆全のことや、漂空の教えを聞いてみたが、キョトンとしてたそうで。何より奏同啄飯の正旗が上がってない。」
邈舎邦が、間諜が写生してきた迂量山の絵を渡す。
「朱地に黄で、『啄飯漂空』だったか。むう、一応あるが寸法はともかく色がまったく違う。いい加減なものだ。」
向こうの山には、まさに色とりどりの旗が乱立して、啄飯道をかたる私設賊軍の統制の無さを端的に示している。
絵には、筵に「隊飯道」と書いた旗も描かれている。文字が分からんか、と舌打ちしながら絵を持ち直す。その時、旗の間に花がちらついているのに気付いた。
(余計な真似をする諜者だな、山梅まで描き込むとは。)
山に立て篭もっているやつらは六千人といったところか。我が遜州王軍は一万五千だが、ひとつ判断を誤れば逆転される可能性もある。
邈舎邦が少し緊迫感のある声で言った。
「討伐軍司令、賊の旗が動いています。間諜によれば、奴等は廻黒衛を是が非でも獲りたいとのこと、山を降りるのは時間の問題でございましょう。」
「なればこその機よ。」
邈舎邦が首をかしげる。
「今、機を見ている所なのだ。」
起輯は言葉をつないだ。
「お前は若いが、早々に軍司令に就くだろう。逓操様の手元も武将が不足しているからな。
いいか、まずあちらの山のものどもは、どうせ奏同啄飯とは直接関係無い烏合の衆だ。取るもの取って撤退よ。
さて、邈舎邦。『取るもの』とはなんだ。」
「廻黒衛ですね。」
「まあな。だが、正確には『廻黒衛の富』だ。蝗のように財を没収し、蝗のように立ち去っていく。奴等は拠点を欲してない。」
邈舎邦があごを抑えながら、口をへの字に曲げた。
「なるほど。では財物を渡せば、兵を退かせるということですか。」
「そこよ。なるべく奴等との和解金を少なくするのがワシの役目。逓操様もそれをお望みじゃ。
昨年の峨帛丼准殿ならとっくに向こうの山に攻め登って、彼奴らを追っ払っておるだろう。が、三籠侯軍と我が遜州軍では規模も装備も比べもんにならん。
無闇に干戈を交えるのが将の務めではない。安価に和解する機を狙うのも、大きな役目ぞ。」
起輯の一講釈を聞かされて、邈舎邦はいよいよ口をへの字に曲げたが、ふと向こうの山を見て、ぱっと目を見開いた。
迂量山の旗が一斉に降り始めている。
(動くのが早いわ。)
起輯の舌打ちを打ち消すように、邈舎邦が大声をあげた。
「あ!ほら奴等、山を下ってきましたぞ。」
ざざざっ。山林を揺らして、賊軍六千人が降りてくる。先陣は既に平地に繰り出し、廻黒衛を目指してバラバラと走り出していた。
その時、迂量山の右から大きな喊声が聞こえた。
「む、北からも軍勢が?」
向かって右から、これもまた色とりどりの旗をかかげて、一団がやって来た。
賊の援軍である。
小雨の中、その大隊の足音が山上の遜州軍の腹に響いた。起輯は鎧の下で、更に発汗した。
「北からの軍は五千、いやそんなにいないか、あれは… 四千程度ですな。正面の軍と合わせて一万か。」
邈舎邦は興奮気味にまくし立てると、起輯の顔を覗き込んだ。
うるさいな、起輯はそう思いながらも努めて顔に出さぬよう気をつけた。
起輯の腹は、既に決まっている。
それよりも、迂量山周辺に放ったはずの斥候は何をしてたのだ。そちらに腹が立った。
「当軍は一万五千、遜州王の正規軍でもあります。数の上でも、兵の練度においても、必ず勝て… 」
「いや、一度撤退だ。」
起輯は冷たく、副官:邈舎邦を遮った。
「廻黒衛はくれてやる。造帷まで退く。」
邈舎邦は諫めようと口をパクパクさせているが、それを振り切り、起輯は背後の部将たちに撤退の指示を出していく。
「造帷城で兵を募り、雑兵まで入れれば三万にはなるだろう。そしてそれから、必勝の籠城を行なう。やつらは統治ができん、そうしている内に自然と廻黒衛は我らの手に戻る。斥候を廻用山の南に先発させよ、今度はぬかるなっ。」
一気に言い放った。
用意していたセリフでもある。
部将たちも、まだ何か言おうとしている副官:邈舎邦を尻目に、撤収の、山を降りる準備を始めた。
「総員撤退!」
起輯の、廻用山に陣取って以来、一番の大声だった。
既に賊軍の先兵は廻黒衛の西正門に取り付いている。小城だが略奪には時間がかかるだろう、遜州王軍撤退には十分だ。
綺麗に梅の描き込まれた諜者の絵地図を、起輯は踏みにじっていった。
******************************
遜州