鷺飛来せる楽河、淡庚原にて
ゆっくりと流れる緑の河水、対岸は遠く霞んでよく見えない。泳州では11月でもたまに今日のように暖かい日もある。
眞暦1795年。海のように広い大河、楽河の河畔に、1人の女と男が座っている。
「昼も近いのに河原には誰もいないわね。」
「そうですな。でもお嬢さんにはその方がいいのでは。筆が進む。」
「うふ。そうね。秋晴れの楽河、無数の鷺飛来す。於淡庚原。ってところかしら。」
大判の紙に竹墨で、流れの寄せる汀、水平線の輪郭だけを引いていたが、俄かに河面に十数羽の鳥を描き込んだ。
その時、一羽だけ白い水鳥が河面に降り立った。海のように広い巨大な楽河の流れの上に、その様はひどく繊細で頼り無げに見える。
「しかも本当に鳥が降りたわ。よし、もう色を塗り始めよう。」
女は姓が水、名は杯。近くの小城:淡衙の領主で、今日は公務が無さそうだから、古株の従者である淮久掣を連れて趣味の写生をしに来たのだ。
「お。舟が来ちゃいましたな。」
「あらあ。邪魔ね。せっかくの鳥が飛んでっちゃったじゃない。」
小さな漁船で、がっしりした男が二人乗り、網を投げている。
「お嬢さん、あれは泳村家の舟ですぞ。」
「じゃあ、州龍牙の覆面警邏船ね。穣界ならいざ知らず、こっちはそこまでしなくても大丈夫でしょうに。」
「穣界の有様を知れば不安にもなりましょう。またそこが泳村勸様、穣界の怠惰で粗暴な州王達とは違って、見えない所で手を打たれてるのですよ。」
「そうなんだろうけど。」
ぐううう。
腹の鳴る音がした。
淮久掣が包みを差し出す。
「そ、そうだろうと思いましたわい。」
「笑いたいなら、笑いなさいよ。変に我慢しないで。城監と同じだわ。」
「ほ。水柴前様も。いや、お嬢さんは水柴前様の前でも腹を鳴らしますのか。」
「仕方ないでしょう。城監は入り婿だし、うるさい事言わないし。」
ただ、笑うのは我慢するのよね。
笑いをこらえる夫の顔を頭に浮かべながら、水杯は包みをあけ、小さな餅を頬張った。
咀嚼しているうちに腹が落ち着いてきたので、もう1個を口に放り込むと、絵筆を取り上げ、紙に色を落としていく。
河水の緑、秋空の青、鳥の白と黒。紙に鮮やかな絵具が載ってどんどん絵が出来ていく。
しかし、水杯は舟を描かない。
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泳州