農奴の指
眞暦1808年。冬も近づく十一月、闔州の荒野は見渡す限り何も無く、曇天の午後にひどく寒々しい。
「門靴分の街はまだ見えんのう」
「はあ。」
右の方から、力の無い夫婦のやりとりが聞こえてくる。
監笠は、少し夫を思い出したが必死に打ち消した。また涙が止まらなくなったら厄介だ。
とぼとぼと、乾燥した黄土を行く貧民たち。
群れず、列も為さず、ばらばらと行く。
見えるだけで二十人ほどか。きっと皆、腹を空かせ、のども渇いていてるのだろう、足どりに力は無い。それでも休まず歩くのは、夜になる前に宿場に着かねば、この荒野で流賊に殺されてしまうからだ。
「まったく疲れるのう。民家の一つも無いんかのう。」
「はあ。」
さっきの夫婦は、男の方がぽつぽつと女に話しかけ、女は生返事を返している。たまに男が手を動かしてしゃべるが、ごつごつと節くれだった指が見える。恐らく監笠と同業だ。
夫婦どちらも痩せっぽちで、顔はすすけ、シワだらけ。監笠にとっては親近感が湧く。しかし、女の方が感情に乏しく、少し気がかりだ。体調が悪いのか、夫婦仲がささくれているのか。
監笠は、十m前を歩く貧民に視線を移す。
女が一人。
ボロをまとってすっぽり体を覆っているから、よく分からないが、歳はいってそうだ。だが、腰が曲がってなく、ふと露出した白い右手は荒れもせず、きれいだった。
(農民ではないな。)
さっき振り向いた時、目だけ見えたが、卑屈で生気のない空洞のような瞳に、ひどく受動的な性格を感じた。商人ではなく、邸の女中ではないか。どちらにしろ、そこそこいい暮らしをしてたはずだ。
(だが、今はボロをまとうただの貧民。)
にやり、と監笠は笑う。
結局、あたしと一緒じゃないか。いい服を着てたんだろうけど、ほら、同じようなボロをまとい、恥ずかしい身の上を必死に覆い隠そうとしている。でも、人生に落差がある分、あの女の方が不幸かもね。夫が死んで以来、久々の楽しい感情であった。
直後、自分の醜悪な感情に、監笠は慄然とする。
そもそも。
と、振り返る。
六月に、冷たい北風が延々と吹き、太陽が顔を出さなかった。昨年同様の「低温初夏」である。この大事な時期に気温も日照時間も足りず、その影響は夏秋に出て、壊滅的な収穫高となった。租税を払えず、商品がなく、食うものがなく、身を売る先すら無い。闔州にそんな民衆があふれた。農民、商人、職人、零細なものたちの多くが、流亡するしかなかった。
(その結果がこれなのね。)
黄ばんだ荒野に散らばる流浪の者たち。傾き始めた弱々しい太陽を見て、ただ焦っている。
監笠に行くあては無い。
なんとなく南へ、穣河を目指しているだけ。右の男が言うには、その途中に門靴分とかいう町?があるらしいが。彼女に地理的な知識は皆無だ。生まれてずっと、一つの農村に暮らしてきたのだから。
「穣河か。」
ふと小さく口から言葉が出た。大陸一の大河を、当然彼女は見たことが無い。対岸が見えないほど太い流れだという。村の小川しか知らない監笠には想像もつかぬ。
穣河を渡れないか。
魅力的に感じた。向こうにはまったく新しい世界があるのではないか。
「『坡州夢郷』というらしいぞ。何でも去年坦陸を獲った褐剣髯の領地は、こっちの半分の税で済むらしい。」
「はあ。」
右の男の声が耳に飛び込む。
我が手を見る。夫は節くれだった監笠の指を愛してくれた。閨でしつこく舐めまわしてきた。前の女がまた振り向いて、卑屈で光のない目でこちらを見る。夫は私の目を、大きくていつも濡れて光って、いきいきしていると誉めてくれた。真正面から、恥ずかしくなるほど目を合わせてきたものである。
遅い。
そんな夢のような世界があるなら、愛した夫と二人で行きたかった。夫は飢饉で病が悪化し死んだ。この話、今聞いたって遅い、遅すぎる。
でも、監笠の足はその噂の後を追うように南に向かっていた。少し足取りに力が出てきた。なぜか涙が出ない。
「流賊に殺されればすっきりする。運良く穣河を渡れれば新しい世界に行ける。どっちでもいいや。」
口に出してみる。
右の夫婦と前の元女中に聞こえたか、どうか。三人ともびく、と体を震わせたようだから、聞こえたんだろう。
さっさと死に、冥界で夫に会う、というのが一番の希望だが、口に出して言ってみたら、穣河を渡るのもいいような気がした。
黄色がかった荒野が、夕日で真っ赤に染まる。貧民は日が暮れても歩き続けるのだろう。彼らの命がどうなるか、徘徊する流賊だけが知っている。
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闔州東部




