亜熱帯雨林の行商
四月。
他所なればいまだ肌寒さも残る季節だが、ここ蝶佳島は亜熱帯の気候下にある。
「あっついな。夏が思いやられるぜ。」
春とはいえ、密林を二時間も歩けば汗が滴る。
南兇子季は、均整のとれたしなやかな筋肉に麻の薄衣をまとい、汗をぬぐいながら、素早く歩く。はるか頭上、大きな羽ばたきの音がして見上げてみたが、鬱蒼とした樹間に何かの尾羽が丁度隠れるところだった。
「くうっ。ちょっと、欲張りすぎたかな。」
背に負う葛籠にはたばこの葉が入っているが、いつもより一割増しで持ってきてしまった。背中も汗びっしょりで、担ぎ紐が肩に食い込む。褐色の顔に青筋を浮かべ、ぱっちりした二重、大きな黒い瞳はイライラと良く動く。
眞暦1807年。蝶佳島南部の阿叙山。
亜熱帯雨林は深く、春の陽光を受けた密林の緑はすでに濃い。時刻は十三時を回ったくらいか。
南兇子季は独り、カッカとイラつきながら、次々に首に落ちてくるヒルを引き剥がして、地に叩きつける。血の気は多いし、この若い男、ヒルに少し吸われたくらいが丁度いいのではないか。
猿の甲高い声が、密林に響くと。
「うるせー!」
南兇子季は叫んだ。彼の声の方が猿より大きかったろう。樹々にこだまする怒声に、南国の生き物たちは恐縮したはずである。
猿に怒った彼自身、その身のこなしは猿そのもので、道無き道を、横たわる倒木、山猫などの屍体、大きな水溜り、小さな川、密林の様々なものを翔ぶが如く越えていく。
ぶん、と急に、耳元で羽音を聞いた。
彼は咄嗟に飛びのいて身構えた。同時に懐から三十cmほどの若竹を出し、右手に持つ。
スズメバチが、羽ばたいて、目の高さに居坐っていた。
蜂の縄張りに入ったなら早々に逃げるべきだが、これははぐれた個体か。しかし、その体は拳大。黄と黒の紋様が鮮やかに過ぎ、威圧的である。噛まれたり、刺されたり、この密林の深奥でやられたら、死ぬ可能性は十二分にある。
「蜂か。ちっ、びっくりさせやがって。おお、やろうってのか。よおし、そっちがその気なら。しかし、おとなしいこの俺に無闇な殺生をさせるたあ。。。
ぶん!
南兇子季のだらだらした独り言に業を煮やしたかのように、スズメバチは空中を急発進した。
しかし虚を突かれたもののスズメバチから目を離してなく、だからこそスズメバチを間合いのギリギリまで引きつけて、その鎌の如き双の牙や、複眼までも、見た。南兇子季は、蜂の攻撃的な黄色い顔相を確認してから、地を蹴って横へ跳んだのである。
スズメバチは、南兇子季の急な動きに付いて行けず、虚しく宙を泳いだ。それは一瞬のことだったが、南兇子季には十分な時間だった。
右手の若竹を素早くしならせ、振り下ろす。うまく当たらず、右翅をかすった。しかしそれで体が傾き、飛行が困難になった。
「今度こそっ」
間合いを詰め、再度若竹を振った。
びしっ、と手応えがあった。
スズメバチの体の中心に、うなりをあげて、若竹が打ち据えられる。とどめであった。凶暴な蜂は、力無く地に落ちた。
チチチ、という小鳥の鳴き声が、つつましく樹々の間に響く。
「それ見ろ。蜂の分際で俺様に喧嘩売るから、尊い命を落とすことになる。」
二筋ほど、右頬を汗が伝い、緊張感ある戦いだったとみえるが、南兇子季は威丈高に蜂の亡骸へ唾棄した。
再び歩き出す。
すぐに速度を取り戻し、先程のスズメバチが乗り移ったか、今度は低空飛行で羽ばたくかのように、密林を行く。南兇子季の背には、今や重いタバコの荷ではなく、透明で強靭な翅がはえたが如く感じられた。
むっ、とする春の草いきれを越え、数km行ったか。
樹々の間から人の声が遠く聞こえてきた。
「そろそろ阿叙池だな。」
阿叙池。
阿叙山の二合目あたりに口を開けた池で、黄緑に濁り、直径五百mほどの大きさがあった。
やがて南国の樹々がふいに途絶え、視界が開けると、阿叙池が眼前に広がった。汗を拭く。
「おお。いるね、いるね。皆さんお揃いだな。」
池のほとりに高床の萱小屋が十戸ほど並ぶ。池の水は飲用に適さぬが、泥を吐かせれば絶品の淡水魚がビチビチ泳いでるし、池に流れ込む二本の渓流がなかなか澄んでいたから、住むには良い土地だった。
「あ!兇子季だ。来い来い、早く。みんなあ、一服するぞお。」
肥満した爺さんが里に踏み入った南兇子季を目ざとく見つけた。褐色の、ほぼ全裸で、申し訳程度に小さな麻布で股間を隠している。いい客である。
「どうもお。爺さん、この季節からそんな裸じゃあ、夏はどうすんだい。これを取っちまうのかい。」
南兇子季は近づくなり老人の股間の布を指差したが、触れてもないのにハラリとそれは落ちた。
「何すんだ、昼間から。脱げちゃったじゃないか。」
「いや、脱げたっていうか、自然に落下したぞ。着るなら着るでちゃんと着とけよ。明らかに、紐の結びが緩んでたぞ。俺、触ってねえもん。」
「うむ。質問に答えよう。夏はな、お前の言う通り、こんな感じで股間の布を取ってしまうのだ。ご明察だ。」
そうこうしている内に、南兇子季と全裸の爺さんを、村の男女がわらわら取り囲む。
「さっき森でスズメバチを倒したぜ。」
「ええ?ケガはなかった?大したもんねえ。多分、ウチの旦那さまが怖がって取り逃がしたヤツだよ。」
「いかんね、旦那にゃこれを買ってやりな。薄荷みたいにな、頭がすうっ、とするぜ。どんな場所に居ても落ち着くぜ。蜂とやりあう前にこいつを一枚ふかせば、きっとばっちりよ。」
客の囲みの背後から、美味い匂いが漂ってきた。村の山側にある豚屋の匂いだ。香草で豚を煮ている。この調子で売れたら、豚屋で汁を飲もう。あれは絶品だ。
「ザザッ」
頭上をサイチョウが飛ぶ。さっき森で樹間に姿を隠したのはこいつか。大きい。
鮮やかな羽が手に落ちる。村の連中は珍しくないのか、買うなり火を点けたタバコに皆んな夢中で、サイチョウの羽根には興味を示さない。
「さあて、兇子季よ。俺には、頭がぐらつくようなキツイのを売ってくれ。」
落ちた股間のあて布を拾うこともせず、ぼーっとそのまま棒立ちだった肥満の褐色爺さんは、得意げに注文してきた。ほらよ、と望み通り一番キツイのを売ってやる。
「ぷっふー。」
一糸まとわぬ爺さんは、紫煙を吐き出し、幸せそうに白目を剥いて本当にぐらつき、何とか倒れずに踏みとどまった。タバコ好きの村の男女は、それを見てにやにや笑っている。
南兇子季はしゃがみ、羽根を拾う。
(縁起が良さそうだ。)
極彩色のサイチョウの羽根。
中空から照らす太陽に透かす。黄と黒と紅がはっきりと主張する。羽根の向こうに、阿叙山が見える。新緑に全山彩られた山は円錐形で、春の青空の中に頂を屹立させていた。
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蝶佳




