炯眼秋雨
庇州東部の雁豊陵を覆う草木は、もう枯れていた。
なだらかに波打つ丘陵地帯は十一月の秋色に染まり、それは深まって、厳しい冬の到来をただ待つのみである。
(ワシの目は何万km先までも見渡せる。此度もそうだったな。)
目元が涼しく、鼻筋も通った、長身の王侯が馬上、甲冑の上にまとった外套を翻している。本来なら誰もがうらやむ絵になる男だが、口が残念だった。唇は薄く、異様に大きく、それがにやりと右の端を歪めっぱなしだったから、一目で狡猾な者と知れる。
男は、姓は窶、名は房長といい、定州のれっきとした州王である。
これほど下卑た顔相の州王というのは信じがたいが、後ろに一万五千を超える大軍を引き連れ、整然と進軍させている姿を見れば、納得せざるを得ない。
並んで馬を進める冥群が、窶房長の歪んだ口元を見ながら、話しかけた。
「ここからでは、北大運河は見えないんですね。運河までは、まだ二十kmはありましょうか。」
「ふうん。そうだな。」
何がおかしいのか。
窶房長はとにかくにやついている。
雲間に現れたり隠れたり、十一月の陽は弱々しく光り、その下で庇州の丘陵は地平線の向こうまで延々と続いている。冥群は次の話題も出しづらく、周りを見るともなく見る。意志の強そうな太い眉を、ぐっと寄せて、背後の定州正規王軍一万五千を観察した。整然としてさすが直轄軍という進軍ぶりである。
「玉突きだな、冥群。」
ふいに窶房長が、大きな口をひん曲げたままつぶやいた。
「は?」
「此度の出師のことだ。州都代。」
ちなみに「州都代」は、冥群の定州府における役職で、正確に言えば、「定州都相代」。州王の親衛隊と州都・亶の治安を司るのが都相で、それに準じる次官級が都相代である。なお、大姚帝国にも都相はあるが、これは序列でいえば第4大臣という非常な高位で、有名な帝城の守護組織「都州城衛」を総括している。
「整理してみるか。」
窶房長は整った鼻を広げて、すう、と息を吸い込むと、途端に話し始めた。
「九月だから、二カ月前か。硯帝移送の協力派と妨害派の戦いが始まったなあ。まず坡州王・培梅が、壘渋の坡東地域に攻め込んだ。同じ頃に、闔州王・閥養も、閃言彫の盈橙城を囲んだ。だが閥家の虫州総督・閥野翫が閥養を裏切って閃言彫と手を結び、閥養は命からがら盈橙から本拠の閥街に逃げ帰ったわけだ。そもそも閥養にとって閥野翫は実の弟、虫州の総督まで任せたのに、これは飼い犬に手を噛まれたどころじゃ済まないな。ワシが見る所、閥野翫は野心強き生まれついての反逆児、名族閥家によくもまあ、あんな倫理道義と無縁の変わり者が生まれたものよ。」
立て板に水の如く、大きな口から言葉が溢れ出す。冥群は口を半ば開いて、州王の一講釈をおとなしく聞くしかなかった。
北から風が一条。冥群は体を震わせたが、窶房長は外套をばさり、と翻し、いよいよ興が乗ってきた。再び、「眞暦1806年秋の穣界戦記」の講義が始まった。
「閥野翫のことはどうでもよいわ。それより閥養の包囲から解き放たれた閃言彫はどうしたか。10月、坡東に出兵して手薄になった培梅の領国を狙ったんだよ。さんざ荒らし回る。閃言彫が坡西に雪崩れ込む。坡東では、朦罠の活躍で壘渋を追い込んでいたから、培梅は悔しかったろうなあ。一方で壘渋は命拾いした。あのままではさすがの『一字閃』坤斧も支えきれなかったろうよ。しかし壘渋はほっとしてる間も無く、今度は美獣たちに攻め込まれた。」
「え?」
冥群は、殆どが知ってることばかりで、退屈が顔に出ぬように緊張している風だったが、ここで少し驚いた。太い眉がハの字に開き、小さな身体で馬上少し伸び上がった。
「美獣が穣河を渡りましたか。」
「知らなんだか。しかも穂泉煎と号炸蹉蹉を引き連れてな。」
「な。渤国まで引きずりだしましたか。」
いよいよ窶房長は大きな口を歪め、さっきまで涼しげだった目も今や、悪意に満ちてあやしげに輝いている。
「うむ。美獣は穣東を制すぞ。」
「まだ分かりますまい。彼奴はつい先月州王に就いたばかりですぞ。」
「冥群、我らは庇州の尼竺を攻めんとしているな。その結果どうなる。」
「結果ですか。。。 尼竺の兵力も馬鹿になりませんから、我らも苦戦しましょう。正直、一万五千では不足。。。 あ。」
冥群はつい大声を上げかけて、口を抑えた。
「失礼しました。美獣はまだ坡東におりますか?」
「坦陸を包囲しているらしいな。」
「であれば、尼竺は壘渋に援軍を頼めませんなっ。同じ妨害派同士で頼みの綱であろうに、不憫ですわ。尼璧はダメでもいくつか庇東の砦を獲れるやもしれませぬ。」
「冥群。」
嬉しそうに破顔し、冗舌となった冥群に対して、定州王窶房長は恐ろしいほどの冷たい笑顔を向けた。
「ワシは多分、尼璧の手前で引き返すぞ。その、坦陸の戦況次第ではな。それなら、一兵も損じないしな。」
「え。」
「ふふ。しかし凄いのは美獣よ。それか軍師の嚇凛か。いずれにせよ、此度、乗ったのはまったく正解であった。」
「乗った?」
また北風が吹く。いつの間にか丘陵地帯の空は分厚い雲で覆われつつある。
「どうじゃ、わしの目に狂いなし!ふははは。」
冥群は太い眉の下、冷めた目で窶房長を見ている。
窶房長はといえば、薄い唇を震わせながら、大きな口を半ばに開き、ははは、ははは、と笑い続けている。
雁豊陵は小雨が落ち始めていたが、笑う州王と、仏頂面の州都相代は、まだそれに気づいていないようだった。
**************************
定州
庇州




