穣河、少年の屈辱を傍観す
黄濁した河水、その対岸はかすんで見えない。
11月の昼下がり、薄い雲は陰鬱に陽を隠し、坡州は既に寒いが、大河の河岸は見渡す限り、北風を遮るものがない。
「一度、闔州に渡ってみてえな。」
少年は海のように広い大河を前にため息をつく。しかし、穣河を渡るには船が要る、呟くと恨めしそうに北風の来たる大河の向こうを眺めていた。河には10艘程の舟が北岸の闔州と南岸の坡州を往復していて、手前の坡州側に白茶けた桟橋が数本、河に飛び出し、舟が発着を繰り返している。荷を積み下ろしやら積み込みやらする人夫、街へ運ぼうと馬とともに待つ者、その場で買いつけに走る小商人、街で一服しようと歩き始める船頭、多くの人が動き回って、その度に足元の乾いた黄土が宙に浮く。
ここ塢宜の桟橋は、そこそこ賑やかだった。
「協半、街に戻ろうぜ。啄飯の連中がまた北から来てるらしい。」
「ああ。塢宜は緩いからな。河関守だって、見ろ、居ないもんな。」
少年は友人に協半と呼ばれたが、姓は塊という。塊協半、小城市の塢宜に住む貧しい少年で、11歳という年齢相応の背しかないが、恰幅は既に良く、全体的に丸い体格で幅広の鼻も愛嬌がある一方、ギョロリと大きな一重目と太くて硬い眉は、少しハッとさせる強さを感じさせる。この頃のヒゲは、口の周りに薄っすら産毛が生えている程度だった。
「あ。早くっ」
「堕叉?何だ、どうした。」
友人の堕叉は塊協半と違って、全体にすらりとし、青ざめた顔は少し険があったが、急にその眦を釣りあげると、脱兎のごとく街のほうへ走っていく。
「おい!」
後ろから野太い声が降ってきて、腹に響いた。あっという間に取り囲まれる。
「なんだ、てめえら。」
「ちび。口の利き方に気をつけな。奏同啄飯だ。喜捨だ、布施だ。さっさと金を出しな。」
「お。いっぱしの面構えをするじゃねえか。」
「うそだ。民を悪政から救おうとする為に起ちあがった啄飯道が、貧しい子供に喜捨を強要する筈はない。」
上背はなべて170cm中盤というところか、なかなかがっしりした男らが4人。小さな塊協半は、外からは完全に見えないだろう。だがゴロツキどもと負けない大声で切り返したので、桟橋にいる者たちは状況が分かるはずである。
「失せろ。啄飯道の塢宜支部に通報するぞ・・」
左脇にいた男が、塊協半の腹を蹴り上げた。
ずごっ、という鈍い音がして、小さな塊協半の体が宙に舞う。
警戒していたが、素早い蹴りだった為、反応出来なかった。地面に落ち、腹を抱えて苦悶の表情を浮かべて丸くなる。みぞおちを沓先でえぐられ、息が出来ない。
「口の利き方に気をつけろと言ったろう。」
「たく、生意気だ。塢宜支部が啄飯にあるんか知らんが、支部でも州警でもタレ込みゃいい。誰も相手にしねえ。」
そう言いながら、動けなくなった塊協半をがんがん、踏みつける。4人で寄ってたかって。薄眼を開け、この暴行現場の周囲を見通してみると、男らの足の向こうに桟橋が見えるが、のんびりこっちを見やってる者、指差してる者、見て見ぬふりの者、気づきもしない者がいるし、そもそもこの暴行現場のすぐ脇を、もう何人も通り過ぎている。
誰も、助けない。
寒風の下、蹴られ続ける。
「冷てえ友だちだなあ。こんなちび残して逃げちまうんだから、人道にもとる行為だぜ。」
「お。見えた。んーと。大して持ってねえな。」
蹴られたはずみで昨日の蠟売りの上がりを入れた紙包みが、懐からこぼれ、男の一人が素早く拾い上げた。
1528圓入ってる筈だ。頭は朦朧としてきたが、金額は覚えている。それで兄弟の朝夕の飯を、3日間工面する積りなのだ。博打ばかり打って家に帰って来ない父、若い男に入れ込んで家にいない母。両方あわせて家に入れる金は家賃合わせて2万、家賃引いて1万圓では自分合わせて3人の子供が食べてくには足りない。
「やめろ。弟たちの食い扶持だ、頼むから返してくれ。」
言葉を絞り出して言ってはみたが、兄弟の為に、なんて殊勝な気持ちは実はさらさら無い。さっさと弟たちを置いてけぼりにして、両親のように気儘に、どんどんやりたいことに勝負をかけたい。はっきり言って家族は、塊協半にとって足手まといだった。
10何度目かの蹴りを、うまく尻の柔らかい部分で受けて打撃を減じた、と喜んだ時、呼吸も楽になってきた。腹を抑える右手で黄土をつかむ。ふと、顔を覆っていた左手を弱々しく外し、顔をむき出しにしてみた。
「いや。この1400圓は喜捨として、億万国民の為に使われるのだ。しっかり、喜びを噛みしめることだ。弟たちも喜ぶべきなんだぞ。」
正面の男が顔を狙って、大きく足を振り上げる。
ばっ。
黄土を投げつけた。黄色い穣河の砂はあやまたず、男の顔に当たる。
左手も砂をつかみ、右の男の顔に投げつける。
「ぎゃっ」
しゃがんだまま後ろを向くと、塊協半は立ち上がりながら蹴りを繰り出した。
「ぐうっ!」
金的である。
振り向いた先には、先ほど塊協半の幼い腹部に蹴り込んだ男が突っ立っており、そいつの股間を、思いっきり蹴り上げたのである。
やり返して胸がスカッとする。
が、それは一瞬だ。
もう1人いる。
「てめえ!」
背後に憤激の息遣い、すぐ後ろ間近に感じる。
塊協半は振り返らず、一目散に逃げ出した。
どしゃっ、と砂地に何かが落ちる音がした。
最後の奴が転んだのだろう。おおかた金的を食らって地面に丸まってる奴に、蹴つまずいたに違いない。
友人:堕叉の足跡を踏んでいく。
「啄飯道はダメだ、おおもとの漂空教もダメだ。ダメだ、宗派や教えなんてモノに身を投げるのはゴメンだ。この大地をちゃんと治める者がいないとダメなんだ。」
ぶつぶつ独り言をもらしながら、塊協半は走った。足跡は塢宜の小城市に続いている。
黄濁した大河である穣河は、少年と、転んでまだ立ち上がれずにいるはぐれ者とを、無視するように流れ続けている。
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坡州