追憶
幼い時の夢を見ていた。
春先に西宮と並んで電車に乗っている、そんな在りし日の古ぼけた記憶が瞼の裏に再生されていた。
西宮のもう隣にそれぞれの母親が座っていた。
俺は一番端の席、掴むところがないと怖いとかそんな感じで座らせてもらっていた。
その時もたしか江ノ島へ向かったのだったな。
まだ春だから海はやめよう、そう言う母親を二人でようやく説得して春休みの最後に連れて行ってもらったのだった。
そういえばあの時もアホみたいに晴れていたっけか、そんなことを思い出し――そこで、目が覚めた。
なんだか起きた感じがしない。
目の前に広がるのは夢の中と同じで決して綺麗とは言えないが、どことなく魅力のある海岸線だからか。
青空の下で泳いでいるはずの西宮の姿を探すも、そこに彼女の姿はなかった。
「やっと起きたね」
唐突に隣から何処か明るい女性の声がする。
横を向くと泳いでいたはずの西宮が座っていた。
相変わらず水着姿の彼女はばたつかせていた足を止め、何処か懐かしい横顔を見せる。
「奈央君は泳がないの?」
「こんな季節外れの日に泳ぐ方がどうかしてる」
そんな当たり前の返しをすると彼女は苦笑した。
「昔は奈央君も一緒に泳いだじゃん」
「そうだっけか?そんなことをした覚えはないぞ」
「絶対泳いでたって、そもそも昔ここに来たことは憶えてる?」
随分とタイムリーな話題だな。
昔のことを思い出したのは彼女が隣にいたからか。
「ああ、なんとなくだけど憶えてる。たしか今頃の季節だったかな…いや、やっぱり俺は泳いでないぞ」
俺がちゃんと憶えていることを安心したのか、西宮は唇の端を少しだけ上げた。
今まで見たことのない大人びた表情に少しだけ心臓の鼓動が早くなる。
彼女は前を向いたまま話を続けた。
「たしか行きたいって言い出したのは奈央君だったよね」
「そうだっけか?嫌がる母さん達を西宮が説得して、いや駄々をこねてようやく行くことになった気がするんだけど」
そんなわけないでしょ、と彼女はやや語気を荒げる。だが横顔が少し紅潮しているところを見るとやはり彼女が言い出しっぺだ。
そこから暫く、さざ波の音が二人を包んだ。
青い天蓋を昇る太陽がどこまでも広がる水面に輝きをもたらす。
彼女は身体を小刻みに震わせると着替えるために流木から立ち上がった。
近くにあった水道で身体を洗い、鞄から馬鹿みたいにでかいタオルを取り出して体に巻きつける。
「着替えるんだからあっち向いててよ」
「意味分からん、あそこのトイレで着替えてこいよ」
「あんなばっちぃ所で着替えるなんてあり得ないね」
そんな一悶着を終え、結局そっぽを向くことになった俺の目に海面を漂うサーファーの姿が留まった。
サーファー共は波に乗っているつもりなのだろうが、傍から見ると波に泳がされていて滑稽だ。
しかし中には本当にカッコ良く波に乗っているサーファーもいる。上手い奴と下手な奴の何処が違うのかは素人目では分からないが、それでも何故か分かる。
多分サーフィンをやったら俺は下手な方に分類される、そもそも波に乗れないかもしれないな、そんなことを考えていると後ろから声がした。
「おーい奈央君、そこの畳んである服とついでに鞄も取ってくれない?」
「あー、俺そっちむけないからパス」
「もう下脱いじゃったの」
流石に正直に従うのは癪なのでワンテンポ置いてから西宮のところへ持っていく。
その彼女はタオルに包まりどこかてるてる坊主を彷彿とさせた。
そもそもてるてる坊主なら別にそっちを見てても良かったのではないか?
「じゃあ鞄からビニールシートとサンダルを取り出して」
「西宮…幾ら何でも着替えの段取り悪すぎだろ」
そう不満を漏らしつつもせっせとシートを彼女の足元に敷き、綺麗に畳まれた服を下からブレザー、スカート、ワイシャツの順に重ねていく。
これぞ着替えの段取りというものだ。
ビニールシートの上に鞄を置き再び流木に腰を下ろす。
「ねー昼ごはん何処で食べる?」
再びサーファーに見入っていると西宮の声が聞こえた。
見上げれば太陽はいつの間にか天蓋の頂点に立っている。
その太陽を丸く囲うように鳶が弧を描く。
「そうだな…西宮は昼飯持ってきてないのか?」
前を向いたまま質問を返す。
西宮の方から呆れたようなため息が一つ聞こえた。
「タオルを準備してる私が持ってきてるわけないでしょ」
「そりゃそうだな。じゃあ何処かへ食べにいくことになるわけだが……早く着替えろよ」
「あとちょっとでワイシャツ着るからもうちょい待ってて」
まだその段階なのか、と今度はこちらがため息をつく。
何故女性はこうも準備に時間がかかるのか、などと考えているその時だった。
「ひゃあっ!?あっちょっと!!!」
彼女の可愛らしい悲鳴とともに大きな羽音が響く。
空を仰げば先ほどの鳶が白い布切れのようなものを足に持って何処かへ飛んでいってしまった。
まさかな、と振り返るとてるてる坊主が今にも泣きそうな顔をしている。
「どうしよう奈央君、ワイシャツ持ってかれちゃった」
結局俺の着ていたワイシャツを西宮に貸すことになった。
幸いにも俺は中に黒いシャツを着ていたためなんとかなるのだが、なんとなく恥ずかしい。隣を歩く彼女も同じ考えなのか、耳先が少し赤くなっている。
先程とは違う気まずい沈黙が辺りを包み込んでいた。
「あ、あのさ、この服洗って返すから」
彼女が重い空気を払拭せんと頑張りを見せた。
しかしここからどう話を広げろというのだろうか。
あいにくと俺はホストとは対極の位置にいるため話術もクソもない故普通の返ししかできない。
「そうだな、服とかに砂が付いてたら嫌だしな」
再び静寂が支配する。
そ、そういえば、と彼女はオーバーな動きで話を始めた。まだ頑張るつもりなのか。
「昔ここに来た時もこんなことなかった?」
予想外の切り出しに思わず身構える。
そんな間にも彼女は落ち着きを取り戻していく。
「完全に思い出した。あの時も私の私のシャツが鳶に盗られたんだ」
彼女のそんな言葉で昔の記憶にまた一つ色が付いた。
泳ぎ終わった彼女が服に着替えようとしたとき鳶が彼女の服を持って行ったのだ。
たしか彼女はその時何かを食べながら着替えをしていたはずだが、とそこまで思い出して一つの可能性に辿り着く。
「お前さ、もしかして飴かなんかをワイシャツの上に置いてなかった?」
「よく分かったね。食べようと思って袋ごと置いてた」
やっぱりかー、と頭を抱える。彼女には学習能力というものがないのだろうか。
まあ過ぎたことはしょうがないよと彼女は笑うが下が制服で上が普通のTシャツという俺の姿はどう考えてもダサい。
西宮は本来の調子を取り戻したのか俺の半歩先をひたすら歩いていた。
そんな彼女はふわりと振り返る。
「ねえ奈央君、今日は楽しかった?」
「そうだな…まだ半日しか経ってないけど、このまま行けば楽しい日になるかな」
そんなありきたりな答えを聞いて彼女はにこりと笑った。
その笑顔はこの世界が現実ではないことをしばし忘れさせてくれた。
しかし何故、彼女は俺の前にいなかったのだろうか、そんな複雑な感情をその笑顔は抱かせる。
今日も息絶え絶えで更新
海は次あたりまで続くよ