再開、再会
夕闇に満ちた空は星のドレスを纏い、木々を抜けてここまで来る風は山の向こうにある街の香りを運んでくる。
都会の一角に存在する静寂の中、俺は只々立ち尽くすしかなかった――
「……………………完全に迷ったなこりゃ」
本当に只々立ち尽くすしかなかった。
西宮奈緒、彼女のことを思い出して家を飛び出したまではいい。
だが穴に落ちた場所は整備されているとはいえ山路だ。人工的なものが人為的に排除された空間に街灯などついているはずがなく、道標となるものが殆ど見えない。
それはつまり穴に落ちた場所が分からないし、帰り道も分からない。
ロクに準備もしていないため手持ちの灯りといえば携帯位、その頼りの綱も只今電池切れだ。
何故折りたたみスコップは持ってきてマグライトは持ってこなかったのか、穴があったら入りたい気分である。
そもそも目覚めた時、人が落ちるくらいの穴なんて見当たらなかったよな、と今更なことが頭に点滅していた。
昔から衝動的に行動すると必ず大きなミスをやらかしていた。
それ故あらゆるリスクを避けるために逃げに逃げ、計算を重ねて生きてきた、そんな俺がこんな熱血系みたいなマネして上手く行くはずもない。
「はぁー…本当にどうしよう」
こういう時にポツリと漏らす独り言はまるで穴の中にいた頃の如く耳に響いた。
暗すぎてその他感覚が研ぎ澄まされたのか、山の冷気が身体の表面をこれでもかとくすぐっていく。
まずは気を落ち着けようとその場に座り込み、タバコを探すもポケットにあったのは今朝の飴のみ。
ああそういえば急いで出てきたから上着はリビングに置いてきたんだった、と記憶が蘇る。ちなみにタバコもその上着の中だ。本当に何故スコップだけは持ってきたのだろうか。
一つ大きなため息をつき、タバコの代わりに飴を口に入れる。
前にも西宮と一緒に山に入って、その時にも迷って、こうやって二人で飴を舐めたっけ、そんなしょうもない思い出が瞼の裏に映し出される。
たしかその時も俺が彼女を誘って夜の山に向かったのだ。
たしか虫が取りたいからとか、そんな感じだ。
結局そのまま夜を明かし、普段は優しいはずの両親にめちゃくちゃ怒られたのだ。
今思い出すとあのときの飴は今まで食べた中で一番美味しかった。
「それにしても、腹減ったなあ」
そんな独り言に呼応するかのように目の前に何かが落っこちてきた。
目を凝らして地べたを探すとそこに落ちていたのは、
「ネズミの死骸……うへぇ、ばっちい」
上を見てみると星空のスクリーンに黒い影が静かに弧を描いていた。遠近感が掴みにくいが影の落とし主はかなり大きい。
その影は大きさを指数関数的に増しながらクルクルと旋回を……ってことはすごい速さで近づいてきているってことじゃないか?そう思ったその時、目の前は黒で覆い尽くされた。
「シイィィィィィィィィィィィッ!!!!」
「うおおっ!何だこいつ!飛んでる時に比べてクソうるせえ!」
影の正体は巨大なフクロウであった。
フクロウに顔の前で威嚇されて思わずバランスを崩し、後ろへ手を着く――
「あれっ、地面がない?えっちょっとまだ心の準備が」
振り向くと虚へと繋がる穴が空いていた。
ああ、また二百日も落ちるのか、そんなことを考えながら落ちていった。
子供が二人、目の前にいた。
片方はぐったりと地面に体を預け、もう一人は腰を抜かしてへたり込んでいる。多分ビビっている方が俺なんだろうな、直感でそう感じた。
その子供たちを中心に広がるは血の海、倒れている女の子の血だろうか。本当に、どうしてこうなったのだろうか。
原因は知っている、俺のせいだ。だけど、理由は思い出せない、思い出したくない、自身の脳がそう我儘を発する。
少女に目をやると、何か言おうと口を開閉しているのが伺えた。しかし何も聞き取れない、恐らくはいたるところから響く鳥の鳴き声のせいだろう………………は?鳥なんてどこにもいないぞ?
「シイィィィィィィィィィィィッ!!!!」
「うるせええええええええええ!!!!」
俺の安眠は謎の鳴き声によって破られた。
音源を探すとフクロウが部屋を縦横無尽に飛び回っていた。
自分の部屋を音もなく飛ぶそいつは俺が起きたのを確認するなりふわりと俺の頭に止まった。
こいつはついて来てしまったがどうすればいいのだろうか?
そんなことを考えていると部屋の外から声が響く。
「奈央!朝からうるさいわよ!」
声は若干若く聞こえるが間違いなく母であった。
電波時計を見てみると日付は四月一日となっていた。ちなみに穴に落ちた方の世界では四月下旬のはずである。
しかし今回は前回のように二百日もの穴生活を送ったはずなのに、今回は気がついたらこの世界だ。まるで法則性が掴めない。
重い頭を支えながら下に降りるとやはりそこには記憶より若い母が朝食の前で待っていた。
つまり、タイムスリップには成功したのだ。再び孤独から解放されたのだ。
喜びを噛みしめる俺とは対照的に母は俺の顔を見るなり首を傾げた。
「何だよ母さん、息子の顔を忘れたのか?」
「奈央の顔じゃなくて、その頭の上の顔を覚えてないんだけど」
は?と間抜けな声を漏らすとシイィッ!という返答が上から返ってきた。
そういえば上にはフクロウが乗っていた気がする。
「別にフクロウ飼うのはいいけど、そういうのって国に届け出を出さなきゃいけないんじゃないの?そういうのは自分でやりなさいね」
何というか本当に大らかな人だ。
だからこそ遭難した時に怒られた記憶が残っているのかもしれない。
フクロウはそんな母の優しさを感じたのか彼女の肩に止まりピィピィと媚を売り始めた。
俺には喧嘩をふっかけてきたくせに、全くなんというフクロウだろうか。
フクロウと戯れる母を傍目に朝食を済ませ、二階の自分の部屋へと戻った。
制服に着替え、鞄に最小限の荷物を詰めて準備は完了だ。
玄関を開き、まるで前からずっとそうしているかのように顔だけを後ろに向ける。
「それじゃあ行ってきます」
いってらっしゃーい、という母の抜けた声が奥から聞こえてきた。
もう二度と聞けなかったはずの声を背に、俺の一日は再び始まった。
高校への通路の上に四月の柔らかい陽光は降り注いでいた。
その下に、女子高生はいた。
短く切られた黒髪を揺らし、牛の如くゆっくりと歩いている。
元々足早の俺は彼女との差をぐんぐんと縮めていき、そして、通学路に一つしかない信号で並ぶ。
そこである事に気づいた。西宮に会うのはいいが、何を話せばいいのだろうか?
「久しぶりだね奈央ちゃん、飴でも食べる?」
彼女はそんな無計画な俺の全てを許すかのように笑いかけてきた。
彼女の言われるがままに飴をもらい、昔のようにポケットに入れた。
だがその後が続かない。また泣かしてしまうのではないだろうか、そんなことを考えるとどう切り出していいのか分からない。
そんなぎこちない俺を見た彼女は顔を曇らせる。
「どうしたの奈央ちゃん?何時もなら『奈緒"君"は今日も可愛いね』とか言ってくるじゃん」
「あ、ああ、そうだな…奈緒君、は今日も可愛いな」
やはり西宮は顔を爆発的に赤くした。
だからそうなるなら言わなきゃいいのに。
彼女は後先考えないタイプだったな、懐かしい横顔はそんなことを思い出させる。
いや違う、彼女は俺に自分のことを思い出させようとしているのだ。
前の時も、彼女は俺に西宮奈緒という存在を思い出させるためにこんなことを言ってきていたのだ。
そんなことを考えていると信号は俺達にゴーサインを出した。
彼女の歩幅に少しだけ合わせて横断歩道を渡る。これを渡りきった時、彼女は立ち止まる気がする、そんな感じがした。
その予想はやはり当たり、彼女はふと立ち止まった。
俺は少し歩いた先で立ち止まり、振り返る。
「あのさ、奈央君…私の事、覚えてる?」
彼女から不意に放たれた言葉に心を動かされる。
私はあなたの事をひと時も忘れていないよ、そんな感じが彼女の言葉から伝わってきた。
彼女をこれ以上待たせたくない、だが俺はどうすればいいのだろうか?答えはもう知っている。彼女はもう悲しむことはない。
「ああ、やっと思い出したよ西宮。本当に久しぶりだな」
その言葉を聞いて、彼女の顔は笑顔で染まっていく。その笑顔はまるで俺の心に落ちた影を飛ばすかのように輝いていた。