プロローグ
俺は穴に落ちた。
思い返してみればただ山道を歩いていただけなのに何とも理不尽な話だ。
気づかない俺が悪いのだろうか?いや、そんなところに穴を開けるアホが悪いのだ。
穴の直径は2m位だったか、まあ大の大人が落ちるくらいだ、結構大きいのだろう。しかし今となってはそんなの些細なことだ。
穴に落ちた時、最初は誰かが仕掛けた他愛もないいたずらかと思った。底に足がつかないことから一瞬でその考えが違うことがすぐに分かった。
落ちて数秒で死を覚悟した。だが死はいつまで経っても俺の身に訪れない。
落ちてから数十分、この穴はいつまで続くの、もしかしてやばい事態に巻き込まれたのではと嫌な感じが脳裏をよぎる。
別に家族がいるわけでもないし、恋人や俺思いの幼馴染などいないのだから死ぬのは怖くない。ただ怖いのはこのままずっと落ち続けるということだ。
落ちてから数時間、どうやら俺の予感が当たったようだ。
俺の頭は早くも後悔に支配された。
何故あの時穴の淵に手を掛けなかったのか、そもそも何故気まぐれにハイキングをしようなどと思ったのだろうか。そんなことが思考の海に浮かんでは沈み、浮かんでは沈む。
落ちてから一日後、正確には眠りから覚めたとき、俺は穴を落ち続けていた。ここで俺の微かな希望は打ち砕かれた。
夢オチ、これでもなかったら俺は一体何に巻き込まれているのだろうか。
俺はこの辺りから自殺の方法を考え出した気がする。だが方法は舌を噛み切るか息をずっと止めるというなんともな方法しかないことに気づき、実行を躊躇った。
落ちてから三回目の目覚め。穴から射していた光が見えなくなった。
重力の影響で辛うじて上下は分かるのだがそれ以外何も分からない。穴だから壁位はあるだろうと思ったがどうやらそれもないらしい。
壁さえあればそれにぶつかって一瞬で死ねたのかもしれないのに。神はそれさえも許してくれないのだろうか。
そういえばお腹も空かないし喉も乾かない、そんな自身の異常に気づいたのもこの時期だった気がする。本当にここは一体何処なのだろうか?
これだけ落ち続けても底につかないところを見るとやはりここは異次元へと繋がるゲートか何かなのか、ああ、そもそもここが異次元か。
落ちてから十日目、延々と続く落下にひたすら発狂した。どこまでも満ちる闇に叫び声と思わしき音が混ざり合う。
落ちてから183日目、身の回りに起こる変化がこれしかないため日付だけは嫌な位鮮明に覚えている。
全てを諦めたからか、この生活に慣れただけか、ただ落ち続けるだけの日々に何の感情も抱かなくなった。もしかしたらこれを「悟り」と呼ぶのかもしれない。
無間地獄、俺の記憶の片隅にあったものが呼び覚まされた。
仏教にある地獄で、確かそこに落ちるまで2000年位ずっと落下し続けるらしい。
いやちょっと待て、それだと俺が大罪を犯したみたいじゃないか。
今まで真っ当に生きてきた俺が犯した罪といえば数億の命をティッシュに吐き出した位だ。
それとも大学の新歓で20歳未満で酒を飲んだあれも罪に数えられるのだろうか。
それとも中学校の卒業式でもう二度と会わないであろう女子のスカートを次々とめくって行ったことだろうか。
それとも小学生の時に好きだった幼馴染の家の写真を100枚近く撮ったことだろうか。
そうやって自身の記憶を遡って行くもやはり一番キツい地獄に飛ばされるようなことをやった記憶はない。
落ちてから190日目、やけに目が冴えている。ついに俺から睡眠さえもが奪われようとしていた。
やることといえばひたすら過去の思い出に浸ることくらいだ。
たかが22年の人生だが、思い返すと色々と楽しいものだ。
友達と遊んだり、幼馴染と一緒に登校したり、受験さえも今では良い経験であった。
そのときふと、思考の海をある違和感が漂った。
違和感の辿り着いた先は記憶の岸辺であった。
違和感の正体はすぐに分かった。俺には幼馴染がいないのだ。なのに何故、記憶に幼馴染が出てくるのだろうか?
今更そんなことを考えても仕方がないのは分かっている。だがそんなことでも考えていないとどうかしてしまいそうなのだ。
誰でもいいから、何でもいいから、殺してもいいから、俺をこの地獄から助けてくれ。
次から雰囲気変わります