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【顎(アギト)】  作者: しおてさぎそう
6/14

【襲撃(ゲイゲキ)】

――【旧新宿区】内部。

 崩壊したビル群に囲まれた交差点の中央で、愛華は歯を噛み締めていた。額から伝わる汗が、真新しい頬の傷に染み入る。その身に纏う鈍色の装甲衣装は傷だらけだった。両手にそれぞれ構える短刀もところどころ刃が零れている。

 彼女は今、想定外の事態に陥っていた。明日の取引を待たず、このままでは全てが御破算になってしまう。

 一ヶ月の間、放置された【旧新宿区】が生んだ【怪魔】は、互いに互いを貪りあい、一体の強大な化物と成っていた。

 怪物は今、周囲のビル陰に息を潜め虎視眈々と愛華を狙っている――愛華が自覚できる情報はここまでだ。彼女の認識能力は、不可解な濃霧に覆われていた。

 敵がいることは判る。先ほどから幾度となく襲撃しては即離脱を繰り返し、じわじわと確実に追い詰められていることも理解している。

 だが、敵の姿形と攻撃手段が思い出せない。

 隣にいる獣状態のギンも、同じように消耗している。昨日、完治したばかりの右足が再びバックリと割れていた。

(ギンの…… 右足……?) 

 愛華は脳裏に引っ掛かりを覚える。今の状況に対する重要な何か――


――ビィヤアアアアアアアアアアッ!!


「っ!!」

 大気を切り裂かんばかりの咆哮に愛華は振り向き、咄嗟に短刀を×字に構える。

 鈍い音と共に短刀は二本とも砕け、愛華の身体も大きく弾き飛ばされた。粗いアスファルトの上を転がり、血飛沫を撒きながらも立ち上がる。

「なっ!?」

 顔を上げた愛華が見たものは、上下に並ぶ黄ばんだ乱杭歯。ざらついた舌に腐臭漂う唾液を絡ませ、ばっくりと裂けた大口が彼女を丸呑みにすべく迫っていた。

「ガルゥオオオオ!!」 

 おぞましい顎が閉じる寸前、全身を弾丸と化したギンが真横から顎に激突した。捨て身の一撃に大口の軌道を逸らし、愛華の隣で傾いていた電柱を根こそぎ持っていった。

「ギンっ!」

 倒れるギンをカバーしつつ、愛華は新たに剣を取り出す。崩れかけのビルの上から感じる殺気に満ちた視線に向けて構えをとった。

「っ!!」

 愛華の紫の眼が、電柱を噛み砕く化物の全身を捉えた刹那、脳を覆っていた霧が晴れる。

(っ! こいつ妖猫かっ!)

 体毛の代わりに泡立つ汚泥と油で覆われた巨大な化け猫。軽トラック並の巨体を持ちながら体重を感じさせない機動力を持ち奇襲に長ける。武器は爪と牙。だが、何よりやっかいなのはその特性、【猫騙ねこだまし】である。

 姿を隠すことで自らの情報も隠す力。襲われる者は一撃離脱を繰り返される度に、初見の攻撃を受けることになる上、隠れている間は正体が不明になるため対策を立てることも

困難。延々と奇襲を掛け続け、弱ったところを食い殺す。

 愛華がギンの右足について考えたときに、彼女の頭を過ぎった違和感の正体。それはギンが昨日完治させた傷も、この妖猫に負わされたものだからである。

 ギンが愛華を開放するため刀集めに奔走していた際、この妖猫に襲われた。足に怪我を負いながらも、ギンは喰われることなく逃げ切った。だが、【猫騙】によって妖猫に襲われたことも、怪我の原因も忘れてしまっていた。

 結果、ギンは愛華に妖猫の存在を伝えることは出来ず、愛華は何の対策も持たぬまま、この難敵と相対することになってしまったのである。

「くっ!!」 

 愛華が片膝を着く。妖描自体とは何度も交戦した経験はある。だが、この妖猫はサイズもスピードも今まで処分してきた個体とは桁違いだった。

 全身がギトギトの油で覆われているゆえ、炎の魔術は効果的だ。だが今、【鬣】は使えない。彼女は明日に備え用意した魔術のために、体内の魔力はほとんど枯渇していた。触媒である髪があっても、着火材であり薪である魔力がなければ魔術は成立しない。

 一方、刀剣の取り出しは【ある理由】で魔力の消費はないに等しいが――いくら彼女が武器を構えようと、常に初見となる奇襲と離脱を繰り返されては、受けも返しも満足に行えない。

 瞬く間ほどの交差の刹那に、見切ると同時に敵に刃を当てるだけの腕が愛華にはない。

――シュオオオオ……

 妖猫の裂けた口が歯茎を剥き出し、下弦の月を象る。

 愛華は理解した。あれは嘲りの笑いだ。

 妖猫がビルの裏へと跳び降り姿を隠す。同時に愛華の記憶から妖猫の情報が欠落する。

 残るものは漠然とした危機感。正体不明の恐怖が彼女を呑み込む。

(マズい、マズい……!)

 謎の重圧に剣先が震える。

 乱れた心では気配を察することなど出来ない。

 愛華の背後、倒壊したビルの残骸の陰で妖猫の血走った眼が光る。

 無防備な愛華の背中に、妖猫は舌で牙を舐めた。身を屈め跳びかかる体勢を取る――

 ふいに妖猫の欠けた三角耳がビクンと揺れた。後ろへと振り向く。

 朽ちた路上を歩く人影がひとつ。道の中央を進み真っ直ぐ近づいてくる。

――シィイイイイッ……!!

 妖猫は牙を剥き、怒りを顕わにした。

 愉しい狩りに混じる不純物。なにより、影の眼が気に喰わない。影の視線は妖描の眼をへと向けられていた。眼を合わせ続けることは獣にとって敵対の意思表示。妖猫にとっても同じことである。

――ビャアアアアアアアオッ!!

 妖描は標的を愛華から影へと変え、駆け出した。

 愛華が妖描の啼き声に反応し振り返ったとき、妖猫は醜く湾曲した爪を剥いて影へと跳びかかっていた。

「――っ!?」

 愛華が叫ぶが、彼女の声はアスファルトが砕け散る音に掻き消された。粉塵が舞い上がり、妖猫の前半身を隠す。

「……え?」

 愛華は声を洩らした。妖描の爪を振り下ろされた影が、まるで何事もなかったかのように歩き彼女へと近づいてくる。

 愛華は人影の正体を知っている。だが、ゆえに混乱した。取引は今日ではないはずだ。


 ◆creature side ◆


――フシュル……??』

 妖猫は物足りなさを覚えた。振り下ろした腕には、骨肉を抉る感触も、命を潰した感覚も伝わって来ない。影の脳天へ叩き下ろした自慢の爪は、無機物を砕いただけに終わっていた。

 妖猫の嗅覚と聴覚が影の今いる位置を正確に捉え、怪物の激昂を招く。

 獲物は背後に、さらにゆっくりと離れつつある。相対するわけでもなく、かといって逃げの速度にしては遅すぎる――つまり、脅威と認識されていない。

 全身を覆う汚泥が泡立つ。

 妖猫はこれまで、見つけた他の【怪魔】をことごとく食い殺してきた。血に酔うたび力を増し、一方的な蹂躙が普通になった頃、自身が頂点だと確信した。

――シュアアアアッ!!

 王たる自身が無視されることなどあってはならない。妖猫は大口を開け、振り返り様に噛みつきの刑に処する。百を超える敵を喰らい潰してきた最も信頼する武器で、ちっぽけなくせに傲慢な影に思い知らせる――

――ドチャ……

 おかしい、妖猫のギョロついた眼でまばたきする。確かに後ろに振り向いた。だがどうして、自分は真上を見ているのだろう。

 急速に冷え閉じていく感覚の中、首の周りがやけに痒いと感じた妖猫は、舌を伸ばして毛づくろいならぬ泥づくろいをしようと試みた。

 だが、デロデロと伸ばした舌は首に届く前に動かなくなった。

 妖猫は最後まで――自分が首だけで路上に転がったことに気付かなかった。


 ◆ aika side ◆


 愛華は唖然としたまま棒立ちになっていた。

 目の前にいる人物と、その後ろで起きた光景に理解が追いつかない。

 妖猫が振り向いた瞬間、その頭が落ちた。

 なぜ? 決まっている。殺したのだ、目の前の少年が。

 初見の一撃を交わした刹那、化物の首を刎ねたのだ。その手に持つ異形の野太刀で。

 少年が探したと呟く。その声は酷く枯れていた。

「ミ、ライ?」

 愛華は疑問混じりに彼の名を口にする。一瞬、別人のような空気を感じたためだった。 だが、目の前にいる人物は間違いなく彼だった。

「え、えと、助かったわ。ありがと」

 沈黙に絶えられず、愛華はとりあえず礼をいう。なれない笑顔も作ってみる。

 だが、巳来の返答は早く短かく素っ気なかった。取引前に死なれては困るという、まるで取引後なら関知しないとも取れる発言に、愛華の顔から作り笑いが掻き消えた。

 釣り眼の仏丁面を取り戻し、愛華は髪を弄りながら告げる。 

「そぅ、取引ね…… その取引は明日のはずだけど」

 愛華が顔を背ける。と、巳禮の手が愛華の二の腕を掴んだ。 

「っ!?」

 驚く愛華を右腕で引き付けたまま、巳禮は自身の左手の親指に犬歯を立てた。止める暇などなく、彼の指から血が溢れて珠になる。それを――

「なっ、んん?!」

 愛華の唇に押し付けた。赤黒い雫が、彼女の口元をどろりと汚す。

 瞬間、彼女の瞳孔が裂けるように開き『流れ込んで来る』。記憶と光景、感情と意志をグチャグチャにした混じりものが、無遠慮に愛華の心に流入する。

 次の時には巳禮の頬が派手に音を立てていた。

「はぁ、はぁ……!」

 口に塗られた鮮血を袖で拭い去り、乱れた呼吸で愛華は睨む。突き飛ばされた巳禮は臆する素振りも見せず、ただ見返す。

「次、やったら、ブチ殺すわよ……!」

 脅しではない言葉に、それでも巳禮は無表情のまま静かに告げる。

 取引だ今すぐに、と。

「……まあアンタの身に、いえ。アンタの周囲で何が起きたのかは今ので理解したし、明日まで待てとも言わないわ。屋敷に行きましょうそこでお金を――」

 愛華の言葉の途中で、巳禮は首を横に振る。金はいらない、その代わり別に条件があると告げる。

「な、何よ? アンタ、まさか――」

 察する愛華へと今度は首を縦に振り、巳禮は殺意に塗れた瞳を燃やし宣言する。


 メルディーナは俺が狩る。 


 ★ ★ ★


 愛華は館の自室で眼を覚ました。

 ベッドの脇にはギンが丸まって眠っている。

 愛華は起き上がると右手の内を見た。メモの切れ端が握られている。

 目を通した後、細かく折畳み枕の下へ挟む。

 身体機能をチェックする――異常なし。昨晩の戦闘による損傷は全て塞がっている。

 次に体内に溜まった魔力の量を確認。経験測で時刻も把握する。

(……日が沈んでから三時間ほど、十九時半くらいかしら) 

 ベッドから降り、ステンドグラス脇のぬいぐるみの位置を正す。

 衣装を着替え、部屋を出ようとして内鍵が閉まっていることに気付く。

「……」

 つまみを回すと無機質な音を立てて鍵が開いた。

 歩きなれた廊下を過ぎ、二階の最も奥へ――巳禮が待機する一室へと向かう。その途中で少し立ち昏みを覚えた。廊下の壁に寄りかかり唇に――巳禮に嬲られた体部に触れる。まだ少し、彼の血が残っていた。

 あの瞬間こそ何事かと思った愛花だったが、彼には悪気も、おそらく余裕もなかったのだ理解している。それでも、無理やり血を読まされたことや、よりによって口に着けられたことに怒りを感じないわけではないが――それ以上に、彼の血から雪崩込んできたモノがやるせない気持ちにさせた。

 あの一滴から読み取った巳禮の記憶。後悔と悲しみ、怒りに歪んだレンズ越しにひとつの光景が映し出された。他でもない、彼が見て経験してきたものだ。

 色彩に乏しい小部屋。ひとつだけあるベッドに横たわり、点滴を打たれている誰かがいる。不安定な視界はその誰かへと駆けて寄り、その途中ではたと止まる。ベッドに寝ている誰かが、彼に気づいて僅かに顔をこちらに向けたからだった。

 一目見るなり、ぐにゃりと景色が歪む。強いショックを受けた証拠だ。ベッドの主は巳禮と同じくらいの年の少女だった。ただ、その瞳は落ち窪み、髪には艶がなく、頬はこけて精気がない。完全に死人、下手をすれば死化粧で飾られる死人のほうが、まだ見れる外見をしているかもしれない。

 すでにこの時点で、視界の主たる巳禮の意識内では無数の負の念が錯綜し、半狂乱の状態にあった。が、それでも僅かながらに理性が残っていた。それはここからほんの少しの間、彼と彼女が細々と会話を交わしたことから読み取れる。もっとも、そのほとんどが頭に染み込まず、彼女の方が何を言い、彼が何と答えているかも曖昧ではあったが。まだギリギリ、彼には人間らしい思考が残っていた――それが完全に壊れる時はすぐに訪れた。   

 彼女は唐突に謝った。約束を守れそうにない、どうにも教えてあげられそうにない。そう告げた彼女に、彼は焦ることはない、元気になってからで構わないと返した。その瞬間に、彼女の瞳から僅かに残っていた光が失せ、入れ替わるように口元が引き吊った。

 ずるり、と。ベッドと掛け布団の間から、彼の側へと何か細長いものが垂れた。視界の中心が彼女の顔から垂れたそれへと移り、奇妙な疑問が流れ込む。なぜこんなことろに白木の枝があるのか。両手で触れると白く細いそれは異様に冷たい。 

 ごめん、戻して。と彼女は言い、さらにこう告げた。動かすの、これが限界だから。  

 彼が手にしているものが何かを理解した刹那、視界は真っ白に染まり一瞬、感情そのものが消失した。彼は機械のように、それを布団の内に戻す。彼の視界はそのまま、瞬きすらせず一時停止のように固まった。

 不意にからからと音が鳴る。堅く乾いたそれは、彼女の喉から出た笑い声だった。

 彼女は言う。何もできない、けどそれは自分に相応しい。何もできなかった自分には相応しい。父が殺されるのを、自分は黙って見ていることしかできなかった。助けようと確かに思ったはずなのに、体は言うことを聞かず、微動だにせず。ただ目の前で、串刺しにされ、血を吐き、痙攣し、止まるまでを見ていただけ。次に意識を取り戻したときには、このベッドに横たわって動けなくなっていたけれど、何も違わない。

 きっとこれは罰だから。何もしなかったから、何もできなくなった。それだけのことだから――だから、気にしないで。


 記憶はここで途切れている。感情の奔流に全てが振り千切られ、砕け散った断片からは読み取れるものは自責の念の二重螺旋。

 あの時、保留せず【顎】を譲っていたならば――

 どうして、身近な誰かが巻き込まれるという考えに至らなかった――

 捻れて絡んだ罪悪感は、やがて纏まり一本のドス黒い槍へと変わる。

(復讐心…… でもそれって)

 愛華の深紫の眼が揺れる。だが、すぐに首を振り迷いを払う。

(いいえ、決めたはず。何を利用してでも成し遂げる。そのツケからだって逃げない)

 鋭い目付きを取り戻す。巳禮の待機する部屋に着き、彼女は一息に扉を開けた。

 屋敷の中で唯一の円柱形をした空間。半径4メートル弱のレンガ床には面積の3分の2を埋め尽くす魔法円が描かれている。正円を描く壁面には弧状の棚が設けられ、奇抜な色合いのビンが立ち並ぶ。

 窓はなく、灯りといえば線対称に設けられた壁の燭台で燃える二本の蝋燭のみ。

 愛華から見て右側の燭台の下に、巳禮は座っていた。愛華が出て行ったときと変わらない姿勢で部屋の中央を見つめている。

 この部屋で別れたのは日の出の二時間前だと愛華は記憶している。性質上、日の出・日の入りには敏感なので間違いない。

(まさか、ずっとあのままなの……?)

 入室しても反応一つ示さない巳禮にぞっとしないものを感じながら、愛華は努めて冷静に巳禮へと歩み寄る。途中、巳禮の脇に見慣れないものが転がっていることに気付いた。

 拾って確認した愛華の小鼻を、薬臭さが容赦なく突く。栄養ドリンク剤、その空きビンだった。散らかされたことに顔を顰めつつも、どこか内心でほっとする。少なくとも物を飲む程度には動いていた証拠だ。

 だが、愛華はすぐにむすっとして、未だに無反応を決め込む巳禮へ話し掛けた。

「ミライ。食事ならこの前の食堂に用意しておいたって、私言ったわよね?」

 巳禮は答えない。

「そもそもこういうのって、一気に複数飲んじゃ駄目なんじゃないの?」

 巳禮は答えない。

「ちょっと! 聞いてる?!」

 動かない巳禮に焦れた愛華はしゃがんで彼の顔を覗きこんだ。

「……っ!? アナタその目……!」

 巳禮の両目は落ち窪み、見て取れるほどの隈が生まれ、異様に血走っていた。明らかに一睡もしていない。

 据わった瞳がギョロリと動き、ここで初めて愛華を見た。心配は無用だと掠れた声で彼は答えた。

「べ、心配なんて……」

 一瞬、脊髄反射で言い返しそうになった愛華、が、こほんと咳払いして言い直す。

「いえ、心配するわ。万全の状態で挑んでもらわないと」

 ふんと短く鼻を鳴らし、愛華は立ち上がる。

「メルディーナの手駒が動くのは深夜の二時以降、まだ時間はあるわ。しっかり眠って」

 だが、出来ないと巳禮は言う。

「は? ……アンタねぇ」

 イラつく愛華の前で、巳禮は静かに呟いた。目を瞑ると彼女の顔が浮かぶ。

「……っ」

 愛華は言葉に詰まる他なかった。

 唐突に、巳禮は叫んだ。落ち窪んだ眼球を痙攣させ、裂けんばかりに口を開き、咆えるそれは、ほとんど悲鳴だった。

 あいつが一体何をした。父を殺され、身体を壊され、心まで踏み躙られる理由はどこにある。

「ミライ! 落ち着いて!」 

 狂乱する巳禮へ駆け寄った愛華は、彼の正面でしゃがみその両肩を掴む。彼女の二の腕を巳禮は掴み返し、獣染みた唸りを洩らす。指先が喰いこむほど強く握られながら、愛華は歯を食いしばって耐えた。

 ややあって、巳禮は落ち着きを取り戻す。

 すまない、と。巳禮は顔を伏せ、掴んでいた腕を放す。掴まれていた部分を摩りつつ、愛華は顔を背けて答える。

「別に。 ……でもこれ以上、錯乱するなら流石に考えるわ」

 巳禮は頷くと座りなおし、再び置物のように静かになる。愛華はその様子をしばし横目で窺っていた。が、

「はぁ……」

 と、ため息をつき立ち上がり、そのままつかつかと部屋を出る。

 一分ほどして帰還した愛華は、運んできたそれを巳禮の足元に置いた。

「ほら」

 巳禮の目が、皿の上に乗った塊を捉える。見覚えのあるそれに、巳禮は思わず愛華を見上げる。差し出されたのは、あのおにぎりだった。

「もう寝ろとは言わないわ。でもコレ。勿体無いから食べてよ」

 いやしかしと、巳禮は言葉を濁す。

「食べて」

 いやだからと、巳禮は渋る。

「食 べ て」

 じとりと睨む三白眼に、巳禮は根負けした。おずおずと皿へ手を伸ばす。相変わらずサッカーボール大のそれを掴み、色々と飛び出ている具の中でかじり易そうな部分を選んでかぶり付く。

「じゃあ、私は魔法円に不備がないか最後のチェックするから」

 巳禮が無事に食事を始めたのを見届けると、愛華は部屋の中央の床を確認し始めた。

「……」

 互いに無言。時折、揚げ物を噛み切る音や、床のレンガを摩る音が部屋に響く。

 と、口の中身を飲み込んだ巳禮が、四つん這いになって魔法円を修正している愛華に話しかけた。

「何よ」

 具がカツばかりで胸焼けすると、渋い顔をする。

「げん担ぎよ」

 そうかと巳禮は納得する。

「そうよ」

 言って愛華は止めていたチョークを動かそうする。が、また巳禮は愛華を呼んだ。

「……何よ」

 不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、伏せた姿勢のまま顔だけを向ける。

 巳禮はまだまだ半分以上ある塊をかじりつつ――すまない。そう礼を言った。

「!」

 一瞬、愛華はぴくっと反応したが、すぐにまた作業に戻った。そうして若干の時間を置いた後。

「……そういうときは、ありがとうって言うものよ」

 ツンと、ごちたのだった。


 ☆ ☆ ☆


 深夜1時過ぎ。

 巳禮と愛華は作戦の再確認に入った。現状を整理しつつ、作戦の手順に誤解がないかもチェックしていく。

「【串刺し殺人】による儀式の詳細は、等間隔に生贄を捧げる形で、巨大な魔法円を描きつつあるわ。現場が常に電車駅近くになるよう調節し、あたかも犯人は電車を利用している、そんな印象を与える細工までしてある」

 無論、メルディアーテの手駒が電車など乗るはずもない。転移魔術を使い、直接現場に現れる。

「また、人の意識を逸らす結界も発動しているわ。今までの被害者の配置から、警察もとっくに真円を描きつつあると理解しているのでしょうけど、この魔術はそもそも魔術の存在を知らない限り、目的地に辿り着けない」

 だが、知っているなら問題ない。愛華はもちろん、魔術の知識のない巳禮でさえ、知ってしまえばそれまでの強力な反面、酷く脆い代物。

「だから、私たちは問題なく現場へ向かえる」

 愛華は地図上に記された複数の赤い点を指差す。それらは全て、今まで起きた儀式殺人の現場である。解説通りに円を描きつつあった。

 点の点の合間のうち他と比べて間が広い地点が二つ。愛華の細い人差し指と中指がその両方を差す。

「次の殺人はこのどちらか、或いは今夜のうちに同時に行われる可能性もある」

 愛華の声が微かに沈む。

「後者の場合、片方は完全に見捨てることになるわ。なぜなら……」

 その先を、巳禮が代りに口にした。俺達の目的は被害者の救出ではない。

 目に迷いはなかった。

「……そう。用があるのは手駒、手駒の持つ情報よ。吸血鬼である私の特性のひとつ、血に触れる――より正確には、体液に触れることで記憶を読む力を利用する」

 手駒が生贄を手にかける瞬間、奇襲を仕掛ける。巳禮が【駒】斬り、切り口から流れた体液に愛華が触れる。愛華は【駒】の情報からメルディーナの居場所を突き止める。

「倒すことは考えないわ。情報を得たら即撤退、位置を突き止めたら即再出撃。メルディーナの根城で今夜のうちに終わらせる」

 奇襲・撤退・再出撃。これらを可能にする作戦の要が、部屋に描かれた転移魔法円と、端末である複数匹の鴉の使い魔。

「【駒】への奇襲・即時撤退・再出撃を可能にするのが、この部屋に描いた転移魔術用の魔法円と鴉の使い魔。現場候補である二箇所にそれぞれ六羽。計十二羽がすでに空から偵察しているわ」

 愛華が左目を指差す。紫の瞳が常以上の輝きを湛えている。

「私の左目は彼らの見ている光景が三秒置きに切り替わって映っている。今の所、それらしい変化はないわ」

 手駒が現れたら愛華が転移魔術を発動。鴉を触媒に魔法円と現場を繋げる。

「一度に三羽を消費。行き帰りで六羽」

 メルディーナの居場所を突き止め、使わなかった残りのグループを向かわせる。

「そこで蹴りを着ける……!」

 愛華が胸に当てた拳を握り閉める。

 巳禮は壁まで下がり、もたれ掛かる。常以上に顔が険しい巳禮を、愛華は少し不安げに見つめたが、直ぐに気を取り直して自身の胸に手を当てる。

 触れた部分が鈍く輝く。勢いよく離すと同時に胸元から鋼色の繊維が幾本も溢れて、繭のように彼女の身体を螺旋に包む。

 次の瞬間には、愛華は刃を重ねて紡ぎ合わせた、独特の戦闘衣装に変化していた。

「ふぅ……」

 愛華は髪を掻き上げ、巳禮に訊く。

「アナタは、本当にその格好でいくの?」

 頷く巳禮は学園の制服、紺に近い黒の学ランを着ていた。

「せめて下に鎖とか鉄板とか ……倉庫にフルプレートもあるわよ?」

 愛華の申し出を、巳禮は【顎】を満足に取り回せなくなると言って断る。

「……わかったわ。じゃあコレ。その服の胸にでも仕舞っておいて」

 ぽいと、愛華が巳禮へと何かを投げ渡す。巳禮が受け止めた物は、赤黒い液体が詰まった透明のパックだった。サイズも手触りも市販のゼリー飲料とほぼ同じ。魔法円に使用されている文字と、似た雰囲気の文字が無数に描かれている。奇妙なことに、微かに脈を打っていた。

「私の血を触媒にした魔道具よ。日に当たらない限り、所持者の実像は黒く深い霧に包まれる。つまり、認識を阻害する魔術が掛けてあるの。人間限定だけど」

 人にしか利かないなら無意味では、巳禮に疑問に愛華は呆れたと首を振る。

「アナタは路上でその物騒なモノを振り回すのよ? 深夜かつ結界で人はいないけど、万が一のエラーが起きて、人の目に触れたらヤバいでしょう? 今も警察、巡回中だし」

 愛華は鴉と繋がっている左目を指差した後、巳禮の携える【顎】にも指を向ける。

「それに【顎】の刃は結界殺しと言ってもいい代物なんだから。最悪、振った弾みで人払いの結界が――」

 ふいに愛華の動きが止まる。

 巳禮が問うより早く彼女は叫んだ。

「……来たわ!」

 愛華は短く呟いた。

「そのまま! 円から離れていて!」

 壁から背を離した巳禮を制し、愛華は自身も魔法円の外へと出る。

「今、映すわ」

 左目の縁に左手の薬指を添える。一滴、赤い雫が指先に伝わり、愛華は弾くようにして雫を魔法円へと落とす。

 深紅の粒が魔法円の中央に落ちる。瞬間、波紋が伝わるように魔法円が波を打ち燃えるように輝きを放った。白いチョークで描かれた模様は紅く変化し、円内の灰色のレンガは見る間にガラスのレンズのように透明度を増し、やがて一つの光景を映し出した。

 それは、愛華が使い魔を通して見ている景色。空から見下ろす俯瞰風景だった。

 暗い三叉路の中央、寝静まった住宅地には不釣合いな何者かが佇んでいた。

 全身を黒革の衣服で包んだ巨体――偽装された【駒】だ。右腕に槍を携え、左肩には薄汚れた長い麻袋のようなものを担いでいる。

「ミライ、準備を――」 

 愛華は巳禮へと振り返り。

「……ッ」

 息を呑む。

 巳禮は既に抜刀していた。露出した無骨な刀身を右肩に担ぎ、魔法円を見据える双眸には漆黒の影が揺れている。

 まだかと、低くドスの利いた声で問う巳禮。背筋に冷たいものを感じつつも、愛華は前へと向き直り首を横に振る。

「タイミングはちゃんと指示するわ。今、と言ったら迷わず飛び込んで。私も後続する」

 巳禮は頷き、二人で魔法円を凝視する。

 鴉はの視界は眼下の【駒】を中心に旋回し続けている。

 獲物を狙う鳶のように、機を見計らう。

 【駒】が動いた。

 肩から麻袋を下ろし毟るように剥ぐ。内からぐったりとした男性の頭が覗いた。

「近づくわよ……!」

 愛華の言葉と同時に魔法円の映像が旋回を止め、【駒】のほぼ真上を陣取る。

 次の瞬間、凄まじいブレと共に地上へと迫り始める。鴉が全身を弩弓と変し、真下へと急降下し始めのである。

 酔いを呼びそうなほどに振動する映像の中心で【駒】が槍を持ち上げた。切っ先は横たわる男性の胸へと向けられている。

 愛華の合図はまだない。

 巳禮は眼を見開き【駒】の頭部へと集中し続ける。

 【駒】の持つ槍が一層高く掲げられた、その刹那。

「今ッ!」

 愛華が叫び、巳禮は跳ぶ。

 巳禮の足が魔法円の内に触れる寸前、耳をつん裂く金きり声が木霊した。三羽の使い魔が触媒となった末期の叫び。ガラスが砕けるように魔法円の虚像が鋭利に滅裂する。遠く離れた二つの空間がに円という門によって通ぜられた。

 門を抜けた巳禮を、身を切る様な冷気が襲う。

 だが今、巳禮の集中は極限まで高まっている。内と外の気圧さ程度で動揺するような精神状態ではない。

 巳禮は【顎】を振り下ろした。

 全体重と跳躍の加速を乗せ、【駒】の後頭部へと刃が迫る――


『はい。そこまでですわ♪』


 ふざけたような、おどけたような、愉し気な声だった。

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