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【顎(アギト)】  作者: しおてさぎそう
5/14

【悪夢(ゲンジツ)】

 声が聞こえた。

「巳禮、巳禮…… よかった…… また会えた……」

 覚えている。これは俺が初めて聞いた母の言葉だ。

「お前の祖父、徹芯は狂っていた。狂人だ」

 覚えている。これは俺が初めて聞いた父の言葉だ。

 確かに祖父は狂っていたのだろう。

 生まれたばかりの孫を攫い、山に閉じ篭った。そこに正気など見当たらないのは、俺にも理解はできている。

 物心ついた時、俺はすでに小刀で木片を削って遊んでいた。つまりそれは、自意識が芽生える前から、当然のように刃物に触れていた証拠だった。口に入れてしまったこともあったようだ。今でもうっすら残る頬の傷が、幼い日の過ちを語っている。

 十一年間、俺は山に軟禁され剣術を叩き込まれた。祖父と世話係の茉莉、二人の他に人間と会った覚えは無い。山に近づく者は身内であろうと祖父さんが武力をもって追い払っていたそうだ。

 祖父が死んだ日、両親が俺を迎えに来た。俺の姿を見るなり母は泣いた。その時の俺は理解できなかったが、今ならわかる。再会の喜びもあったろう。だが、それ以上に俺を憐れんだ。絶え間ない剣の鍛錬は俺の全身を傷だらけにし、年不相応に筋肉を発達させた。親族の誰もが俺を憐れみ、祖父を呪った。その反応も当然だと理解している。

 だが、俺は俺で、至極幸せだったのだ。

 苦しい日々ではあった。それでも辛くはなかった。茉莉が居たから寂しくはないし、剣技をひとつものにする度、いつもは鬼のような祖父は俺を撫でた。無骨な感触だったが、たまらなく嬉しかった。達成感があった。充実した日々だった。

 所謂普通の生活に戻る際、確かに慣れるまでは時間を要した。苦労したし恥も掻いた。

 それでも俺の根幹は、祖父と茉莉の三人で過ごした日々にある。

 この身体を埋める傷は、俺が山で生きた証。小さな誇り――それを哂った奴がいた。

 気づけば俺はそいつを壊し、次のときには両親が金を積んていた。

 加害者である俺は学園に残り、特待生としての価値を失ったそいつは学園を去った。

 誰も俺を責めなかった。両親は当たり前のように祖父を憎み、教師は目を逸らし、生徒からは学年を問わず不気味がられた。

 普通を証明するはずが、逆のものを証明してしまった。

 孤立は当然の報い、誰より自分が自分を許せないでいた、あの時。

 俺の前にひとりの少女が、幼馴染をつれて現れ、そして――


 ▽ ▽ ▽


「巳禮クン! 巳禮クンってば!」

 聞き覚えのある声に俺は目を覚ます。目蓋を開けると、目の前には空色のパーカーを着てフードを被った誰か――真弓が立っていた。

「はあ、やっと起きてくれたよ……」

 真弓は深くため息を吐くと、困ったような笑顔を向けてくる。

「巳禮クン立ったまま熟睡しているんだもん。ボク十回くらい声掛けて、肩も叩いたのに無反応でさ。疲れちゃったよ」

 スマンと詫びつつ、辺りを見回す。実のところ、まだ半分寝ぼけていて、状況が掴めていない。

 ここは――新々宿駅東口前。駅口と高層ビル群の間に設けられたロータリーの脇だ。

 周囲には沢山の人がいた。ある者はタバコを吹かし、ある者は携帯を弄り、ある者はビルの壁面に設けられた巨大ディスプレイに映るCMを見上げている。

 ああ、そうだ。待ち合わせをしているところだった。俺はようやく、この場にいる理由を思い出す。


 【旧新宿区】から帰還したのが昨日、その際に来てきた真弓のメールは、要約すると『付き合って欲しい』というものだった。俺は二つ返事で了承した。唯一の男友達の頼みを断る理由はなかった。


「巳禮クン。まだ、寝ぼけてる?」

 いや、完全に覚醒した、と思う。

「ならいいけど、ところで巳禮クン、どうかな? ボクの服装」

 言って真弓はやや恥ずかしそうにしながらも両腕を広げ、俺に衣服を披露する。まあ、いいんじゃないか。

「も、もっとちゃんと見てよっ!」

 珍しく迫力のある真弓に押され、言われるままに全身に視線を這わせる。

 まず目に付くのは上に羽織った薄手のパーカー。フードには獣耳に似た飾りが付いていた。幼顔の真弓とは奇妙にマッチしている、気がする。下はホットパンツと、若干ゆるっとした膝下までのソックスにスニーカー。露出した腿は白く細く、膝のくびれも見事なものだ。

「み、巳禮クン、さすがにちょっとそれは、恥ずかしいよぉ……」

 しゃがんで膝を見たのは不味かったらしい。立ち上がって感想を告げる。

 可愛いと思う。

「ほ、ホント? ボク可愛いかな!? 変じゃない?! ボク男だよ?!」

 裏返り気味の真弓の声に、周囲で何人かが目を見張った気がする。俺としては素直な感想を言っただけだし、真弓が男なのは前から知っている。それとも、俺の反応は何かおかしかったのだろうか。

「う、ううん! そんなことない! よしんばオカシイとしても、ボクとしてはオールオッケーだよ!」

 満面の笑みを浮かべる真弓。こうも手放しで喜ばれると俺も嬉しい。

「……えへへ、ねえ巳禮クン?」

 もじもじしつつ、俺を見上げてくる。

「実はボクね。ここに来るまでに二回、知らない人に声を掛けられたんだ。『君、可愛いね。ちょっと時間くれない?』って感じで」

 それは、つまりあれか。世に聞く事案発生というやつか。

「う、うん。まあ、ちょっとズレてるけど、概ね合ってるかな? で、結構しつこくされてね――」

 言葉を一度区切ると、背伸びして真弓は耳打ちしてきた。

「もしかしたら、ここの人混みに紛れて、今もボクのこと見ているかもって」

 それは――穏やかではない。俺は目だけで周囲を確認する。先ほどから、こちらを窺う人間は男女問わずいるが、特に群を抜いて怪しい者はいない。

 俺が背格好を訊くと、真弓は一瞬目を泳がせる。

「さ、探し出すよりもその、諦めさせるほうがいいんじゃないかな。平和的に」

 確かにその通りだ。だが、具体的にどうすればいいのか。

「か、簡単だよ? 巳禮クンがボクの手を握るの」

 なるほど、つまり保護者作戦か。

「あー、うん。もうそれでいいよ。うん」

 どこか捨て鉢に言うと、真弓はさっそく手を差し出した。

「じゃ、じゃあ巳禮クン、さっそくお願い」

 そう言って真弓は右手をそっと前へ。改めて見ると彼の手は小さく繊細で滑らかで、丁寧に磨かれた陶器のようだった。血色のよい潤った地肌にはうぶ毛のひとつもない。綺麗に整えられた爪は表面に光沢を帯び、薄く桃色に染まっている。

「ど、どうしたの? ボクの手、何か変かな?」

 そんなことはない。単に、俺のごつごつした手とは大分違うなと思っただけだ。

 止めていた手を前に出す。壊れ物に触れるようにそっと指で指に触れ――

「ハイ! ダブル小手ェーッ!!」

 瞬間、何者かが真横から割り込み、手刀が打ち込まれてきた。完全に虚を突かれたが本能で回避、真弓はモロに腕を打たれ「あみゃん!?」と、奇妙な悲鳴を挙げた。

「まったく、人が待ち合わせ5分前に来てみれば、イチャ付きおってからに」

 不意打ちをかました人物は、肩の高さで切り揃えた後ろ髪を手で梳いた。桐原一姫のご登場である。とりあえず、おはよう。

「おはよー、みらっち。でも、おはようってか、もう昼だけどね。昼下がりだけどね? 昼で昼下がりでー、二人でなにホモってんじゃい!」

 再び放たれた手刀を、冷静に真剣白刃取りする。むふぅむふぅと唸って一姫は力を込めてくるが馬力が足りない。それにしても何を怒っているのやら。

「さ、さあなんだろうね~」

 小作りな唇を3の形にして、真弓はそっぽを向く。一姫は俺からばっと離れると、ぜーぜー息を切らせがなら真弓を指差した。

「みらっち。どーせまた、そこのカマトトカマ助に適当なこと言われて、スキンシップ図られたんでしょ」

「か、カマトトカマ助って何さ!?」

 涙目で抗議する真弓を無視し、一姫はずずいと俺に寄り腕を引いてきた。

「ほれ離れる離れる。いい加減、お尻が危ねーっすよ」

「む~、後ちょっとだったのに~」

 真弓は不満そうに足下の地面を軽く蹴ると、くるりと背を向けた。

 なぜか急に真弓がむくれた。時間通りに全員集合できたのだから、喜ぶ場面のような気がするが、どういうことだろう。

 これから俺と一姫は、真弓に付き合って絵画展へと赴く。なんでも、真弓を猫可愛がりしている声楽部の顧問がチケットをくれたそうだ。他分野の芸術に触れることで、感性を磨くように、との事らしい。ただ、顧問自身が絵師の熱烈なファンらしく、ちゃんと鑑賞してきた証拠にとレポートの提出を義務付けた。俺と一姫はタダで芸術鑑賞をできる見返りにレポートの手伝いをすることになっている。


 要約した『付き合う』というのは、具体的には真弓に付き合って絵画展に行くということである。当たり前だが、それ以外の意味はない。


「まあ、いいや。はいこれチケット。ボクが先導するから二人は後を――節度をもって仲よく付いて来てよね」 

 真弓は手早く絵画展のチケットを俺と一姫に渡し、さっさと歩きだしてしまった。

 取り残された俺と一姫は思わず顔を見合わせる。

「え? えーと」

 沈黙。一姫は俺の腕を掴んだままだ。

「と、取り合えず、いきまっしょい!」 

 はっとして腕を離し、一姫は真弓の後を追う。俺もその隣を歩く。こうして真弓を先頭に三角形を成して展覧会へと向かった。

 

 が。


 参った。歩き出して数分、まるで会話がない。大通りを進んでいるのに窮屈に感じる。普段は彼女から絡んでくる、いや絡んでくれるのだが今日は全然である。

 隣、というには若干距離を空けて歩いている一姫をちらりと窺う。

「あ」 

 目が合った。一姫も俺の様子を窺おうとしたところだったらしい。互いにさっと目を逸らす。ため息が聞こえた。

 何か噛み合っていない。今のように一姫と並んで歩くことはよくある。この前の登校時のように、あるいは校内でも。下らない内容の雑談を交えて教室を移動したり、昼食を取るために屋上に向かったり――と、ここに来て初めて重要なことに気がつく。よく考えたら、こうして学園外で彼女と共に行動するのは初めてだった。

 必然、彼女の私服姿も初見である。俺は足を止め、同時に一姫を呼び止める。  

「はひっ? な、何か用かねワトソン君?」 

 いつもの調子のようで、やはり全然違う一姫。俺は彼女をまじまじと観察する。

 まず目に着くのは、ふっくらしたベレー帽、桃色で桜の花びら模様が散りばめられている。細かい刺繍が施された白っぽい厚手の上着に、下はチェック柄のミニスカートとリボン付きの膝丈ブーツ。スカートの裾とブーツの境界で健康的な肌色が僅かに覗いている。  

 手に持つ小さいバックはシンプル。持ち運び安さを重視した飾らない感じが、さっぱりしている一姫に似合っている。

「み、みらっち……?? どど、どないしたし?」 

 そして俺は一姫に、真弓に告げた時と同じく感想を述べる。

「え? え?」

 可愛い。

「ぶっフォッ?!!」

 一姫が盛大に吹き、俺は顔をしかめる。ちょっとかかった。

「な、何さ! いきなり何さ!?」

 一姫の目がグルグルと回り始める。横髪から覗く耳たぶまで、顔も真っ赤だった。何と言われても服装を褒めただけなのだが。

「いや服て! 服?! あっ、ああ~服ね?! OH.YES! 理解した! だろうだろう、そうだろう! わっはっは!」

 ああ、可愛い。

「……ッッッ!!」

 一姫は固まってしまった。俯いて物言わぬ石像――もとい赤像になってしまった。

「ちょっと二人共。何で立ち止まっているのさ…… 姫ちゃん? 巳禮クン、どしたのこれ?」

 とてとて戻ってきた真弓頭に?を浮かべる。俺にも判らない。体調でも崩したか――そう思った瞬間。 

「こ」 

 こ?

「コェエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!」

 腹の底から甲高く絶叫するなり、愛華は駆け出した。やたら姿勢のいいスプリンター走りで、大通りをかっ飛ばしていく。

「姫ちゃん?! どうしたのさ?! コテって何?! 剣道のイメトレ?!」

 いや、俺にはコケーに聞こえた。鶏、トリ、そして赤い顔。そうか、あれが一昔にはやったという鳥インフ――

「多分違うよ?! ていうか捕まえないと! まるで別の方向に行っるよアレ!!」

 相分かった。

 その後、しばらく俺と真弓は暴走する一姫を捕まえるために、歓楽街をひた走った。

 一姫を確保し、落ち着かせた頃には、俺と一姫の空気はいつもの調子に戻っていため、結果的にはよかったのだが、急に走り出した理由は頑として黙秘された――なぜだ。


 △ △ △


「……」「……」「……」

 何のかんのあった俺達は今、どうにか目的地――と思われる場所に着き、やや面食らっている。真弓の案内が確かなら、俺達は展覧会の会場の目の前に立っていることになる。 

 彼が教えてくれた絵画展の内容は、一人の絵師の絵画を集めた、ビル一つを使っての展覧会。しかし、それにしては――

「……ちとデカくね?」

 一姫がごちる。俺も、おそらく真弓も同意見だった。 

 俺はせいぜい4・5階建ての貸しビル程度だと思っていた。だが、目前のビルは4、5階どころか45階はありそうな超高層ビル。入り口は三つもあり全てが回転扉。敷地内には車が出入りできるロータリー。ロータリーの植え込みには、多様な樹木が高くそびえ立ってる。豪華絢爛な外観はリゾート地の高級ホテルさながらである。

 本当にここか会場なのかと俺達は疑いつつも、一姫の「まあ間違っていたら、謝って退散すればええねん」という、エセ関西弁の鶴の一声で回転扉へと向かう。

 すると、どう見ても高級ホテルの従業員な格好をした女性が、チケットの確認を申し出てきた。

 一姫と真弓が恐る恐る絵画展のチケットを差し出すと女性は、手馴れた様子でチケットを切った。

「ごゆっくり、お楽しみ下さいませ」

 完璧な笑顔で一姫が見送られる。俺と真弓はほっと一息つき、後に続く。真弓が先に行ってチケットを渡し、その間に俺も尻ポケットに入れたチケットを取り出す――取り出そうとする――逆のポケットを探り――しばし考え――ああ走っているときにかと納得し――最後に、にこにこと微笑んでいる女性に質問する。

 券売所はどこですか。

  

 


「おう、みらっちどしたー?! はよはよこいこい!」

 ひとり遅れて回転扉を抜けてきた俺を、一姫がブンブンと手を振って出迎える。彼女は悪くない。大丈夫だ、解っている。

「姫ちゃん! もうここ会場内なんだし静かにね!?」

「いやいや、ここはまだセーフっしょ。ふっつーにフードコートあるし。展示があるのは二階からで、撮影禁止とか注意事項の適応も二階からってパンフにもあるし」

「で、でもお行儀が」

「あ、ホットドック売ってる。って100円?! 安くね?!」

「話聞こうよ自由人!?」

 仲睦まじい二人である。

「おーみらっち、見てみ見てみ! ホットドック、レタス入りで100円だってよ! 採算とれてんのかね?!」

 取れてるだろう別のところで。俺はポケットの中の使用済み入場券を握り締めつつ、辺りを見回す。

 外からは判らなかったが、一階フロアはダダッ広いフードコートになっていた。四つある円柱形の柱を中心にし、様々な店が様々なジャンクフードを扱っている。

 その他の内装も独特で、壁や床は三原色を気ままに塗りたくったような模様が描かれ、あちこちには色とりどりの風船や愛嬌のある人形などが設置されている。椅子や机は子供の玩具を大きくしたような外観、天井脇のラッパ形のスピーカーからは楽しげな音楽が流れていた。

「なんか、絵画展っていうから、もっと厳かな感じだと思っていたけど、テーマパークみたいな雰囲気だね」

 そういうものなのか。実は絵画展そのものが初めての俺には、真弓の感じている驚きはよく解らなかった。

 ただ、少し。真弓のそれとは違う違和感を、さっきから覚えているのだが。

「ぬ? みらっち、どしたん?」

 一姫に横から顔を覗かれ、俺は何でもないと首を振る。これからという時に、気のせいで空気を乱したくない。

 気のせいかもしれない違和感。結論から言えば『食い違っている』。この場は楽しげな雰囲気で統一され演出されているというのに、フードコートでたむろしている人間のほとんどが鬱げに見える。買った食べ物に手もつけず、椅子に座ってぐったりしている者。ふらふらとコート内をただ彷徨う者。

 フロアの空気と人間の様子がまるで噛み合っていない。

「まーた、ぼ~っとしてるし。はよ二階にいこうず。って訳で私が一番~」

 言うが早いか一姫は登りエスカレーターへと早足で向かっていった。

「巳禮クン。ボク達もいこ」

 催促する真弓に頷き、俺達も後に続いた。


 ▲ ▲ ▲


「思っていたより遥かに開放的な件」

 これが一足先に到着していた一姫の口にした感想だった。

 二階フロアの構造は一階と同じく敷居のない造りになっていた。四つの柱をそれぞれ囲むように大きな絵画が複数掛けられ、閲覧者が触れないよう囲いが施されている。

 天井まで続く四つ柱とは別に、人一人が隠れられる程度の四角柱がところどころに設置され、小さな絵画はこちらに掛けられていた。同じように囲いで区切られている。

 会場の様子に真弓も頷く。

「確かに意外かも。もっと狭い細い順路を一方通行に流れていく、みたいなものを想像してたんだけどなあ」

 他の入場者の様子から察するに、自由に歩いて好きなように鑑賞できるようだった。

「一階だけに留まらず、二階までセオリーを外してくるとは、なかなかにエンターテイナーな人物が運営にいるようですなぁ」

「そりゃ姫ちゃん、この絵画展は配置から内装のデザインまで、画家本人が手掛けたそうだから、エンターテイナーだろうさ」

「え、マジ?」

 驚く一姫に真弓はいつ手にしていたのかパンフレットを開いて見せた。俺も横から覗かせてもらう。両手で開いた三つ折りの固紙には、床や壁と同じように三原色で奔放な模様が描かれ、そのうえで細かい文字がびっしりと詰めるように書き込まれていた。写真や図のようなモノは端に描かれた簡易な地図以外に何一つない。なんだか目に来る。

「奇遇だなみらっち、私もこれ、視覚的凶器だと思うぜ」

「ちなみに、作品の見本写真がないのは画家さんの意向、って書いてあるね」 

 随分なこだわりようだ。それともそれが芸術家というモノなのだろうか。

「いや、ホント全力だよ。この展覧会のためだけにビルを買収して全面改装、自分の画を所有している世界中のコレクターと自ら交渉して、世に出したほとんど全ての画を展示してるんだもん。『貯金を半分溶かしました』って、これもしれっと書いてある」

「半分?! それもう半分は手元に残ってるってこと? あぁ~、格差社会っすなあ」

 あるところには、ある。この世に真理に俺と一姫は遠い目をする。

「気持ちは解るけど、この芸術の場で俗っぽい感慨に耽るのはどうかと思うよ……」

 呆れ顔の真弓から尤もな指摘を受けて我に返る。そう、考えたって悲しくなるだけだ。今からは無心に画を楽しもう。

「うん。で、どうする? 三人で一緒に回る? それともバラバラに回って、後で待ち合わせる?」

 初めての体験、少し自由に過ごしてみたいとも思った。が、

「私はみらっちと行くよ。一人じゃ寂しいだろーしね、主にみらっちが」

 そう言って一姫は横に着く。いや別に俺は。

「ぐへへ、照れるな照れるな」

「じゃあボクも。巳禮クンのために一緒に行くよ」

 笑顔の二人に挟まれる。俺に選択の自由など、なかった。


 ☆ ☆ ☆ 


 鑑賞を始めて十数分、俺は中々に興奮していた。

 現在十階。一フロアにつき三十前後の作品が展示され、階層ごとにテーマ別に分けられていた。十階フロアに飾られている画は花。過敏に生けた向日葵や、草むらの野花。紅白のバラ園、雨に濡れる生垣の紫陽花などモチーフは様々。

 画の描き方、手法もそれぞれ違う。細部まで描き込みとことん写実的な絵画もあれば、本物の以上に陰影をつけ印象を重視した画もある。白いキャンバスに黒一色のみで表現された水墨画のようなものもあれば、元が花かどうかすら不明になるほど、多種の色を用い奔放に筆を走らせた画もあった。

 芸術全般に疎い俺に技術の凄さは理解できなかったが、好きな物を好きに描いている。これだけは、はっきりと解った気がした。

 どの画からも描くことの喜びが伝わってくるようで、飽きない理由はきっとそれが原因だと思う。

 だが、十階を一通り見て周り、次の階へと繋がる昇りエスカレーターへと向かおうとしたときだった。

「ごめん、ボクちょっと限界かも」 

 そう言った真弓はふらふらだった。顔から血の気が引いてる。相談して真弓はフードコートで待つことになった。

 ただ、気になったことがある。下りエスカレーターに乗る際に真弓は言った。

「でも、来てよかった。ホンモノの芸術って、比喩じゃなく心を動かすんだね」

 虚ろな目で満足そうに微笑むその姿は、俺が一階で『食い違っている』と感じた、他の来場者とそっくりな気がした。


 さらに五階上ったとき、今度は一姫がギブアップを申告した。

「みらっちスマヌ。私もアウトっぽい」

 一姫もまた真弓と同じ顔色と表情をしていた。

「うへへ、情けないなあ私。みらっちは平気なん?」

 一方の俺は全く逆、体調を崩すどころか適度なストレッチ後のように軽快だった。もっと上へ、もっと沢山の絵画を見たいと、足を止めている時間すら惜しく感じている。

「むう、なんか悔しいなあ」

 別に競争ではないだろう。

「二人っきりだったのに全然セクハラできんかった」

 おい。

「にへへ、つーわけで下で待っているぜ。折角だし、みらっちは一番上の階まで登って、どんな画があったか後でおしえておろろろろろっと、ではサラバッ!」

 盛大にバランスを崩しながらも、一姫は自力で建て直しエレベーターを下っていった。

 


 △ △ △


 独りになって二十分を過ぎた頃、俺はエスカレーターにもう先がないことに気付いた。

 いつの間にか、最上階に到着していたらしい。これで終わりかと思うと若干残念に思えた。

 とりあえず辺りを見回し、今までと少し趣きが違うことに気づく。つい下の階までは壁と床を彩る模様は三原色で統一されていた。が、この階だけは壁も床も白い無機質なタイルが張られていた。小さな画を掛けた四角柱もなく、四つの主柱にも展示はない。

 代わりに、天井まで続く大きな壁が設けられていた。半柱状で内に凹んだそれは、フロアの中央から少しずれた場所に設けられている。今いる俺の位置からでは内側がどうなっているかは見えない。

 その壁を正面から見れるようにとの配慮か、長椅子がひとつある。三人分ほどのスペースがある背もたれ付きのそれは、公園のベンチに似ていた。

 長椅子には先客が一人座っている。

 紳士服姿の杖を手にした白髪の老人。老人はぼんやりと壁を見ているようだった。

 俺はもう一度、周囲を見渡す。他に人はいない。白い空間にいる人間は、俺と老人の二人だけだった。

 俺の視線に気付いのか、老人がこっちを向いた。目と目が合う。老人は一瞬、目を瞬かせた後で会釈してきた。俺も慌てて頭を下げる。

 老人は目を細め、尚も見つめてくる。温かみのある表情だった。俺は惹かれるように、老人に近寄る。老人は長椅子の端に座っていた。

 疲れてはいなかったが、老人が実にゆったりと椅子に身を任せているので、自分もなんとなく腰を掛けてみたくなった。同席していいかを俺は訊ねる。

「もちろんです。そのための椅子ですから」

 老人は柔和な笑みで頷き歓迎してくれた。俺はいそいそと老人の隣に座り、ここで初めて壁を正面から見た。

 凹んだ壁の内側には一面、画が描かれていた。深緑の木々と蒼白の空と湖。柔らかな陽の中で輝く自然を描いた風景画だった。

 地に根ざし天に茂る木々は力強く、木漏れ日の中に揺れる湖畔の漣は儚く。枝に停まる小鳥は、まばたけば飛び立ってしまうのではと思うほど真に迫り、晴天より差す陽は、本物以上に絢爛たる輝きで世界を照らしている。

 気付けば俺は森の中に居て、木と土の臭いを感じ、小鳥の囀りと微風に立つ小波の音を聞いていた。

 呼吸を忘れるほどに魅入られる。ここまで登って来た甲斐は十二分にあった。

 ふと視線を感じ横を向く。老人がにこやかに微笑んでいた。

「失礼しました。つい貴方の反応が気になってしまいましてね」

 老人は今日一番にこの展覧会を訪れたそうだ。最上階まで登りこの壁面の画を見たあと、、なんとなく、他の人の感想も聞きたいと考え椅子に座って待っていたという。だが、結局ここまで登って来たのは俺だけだったそうだ。

「勝手ながら親近感を抱いている次第です」

 老人は期待に満ちた眼差しを向けてくる。

 俺はもう一度、壁一面に描かれた別世界を見上げる。気を抜けば、また感覚の全てが画の中へと持って行かれそうだった。それくらい気に入っている。だが、俺にはどう凄いと感じたのか、言葉にすることが出来ない。

 あるいは一姫や真弓なら、上手く言語化できたかもしれないが。

「おや、お友達とご一緒だったのですか?」

 俺は頷く。別に隠すことでもない。付き添いで来たこと、二人とも脱落してしまったことも会話のタネにする。

「ふむ。すると貴方はこの絵画展の主催者、画家についても特に知識はないのですか?」

 ない。これっぽちも。

「ふーむ」

 老人は癖なのか口元に親指を当て、少し考えると俺に提案してきた。

「どうでしょう。良ければ、私に『彼』について語らせていただけませんか? 貴方は実に画を楽しんでいるようにお見受けします。『彼』を知ればまた別の楽しみ方ができるかも知れませんよ」

 それはとても魅力的に思えた。

 俺が是非と答えると、老人は嬉しそうに頷き静かに語り出した――その始まりに、強い衝撃を受けることになる。

「『彼』の名前は【東伊栄坐ひがしい えいざ】。今から六十年前、【旧新宿区】で起きたテロの生存者なのです」


 ◆ ◇ ◆ 


 東伊栄坐は『その日』まで普通の人間だった。ごく普通の家庭に生まれた彼は、ごく普通に成長し、ごく普通の少年となった。よく言えば平均的、悪く言えば没個性の一般人であった。

 『その日』、十六の誕生日を迎えた彼は家族ぐるみで新宿へと赴き――己が身以外の全てを失った。

 地獄から独り帰還した彼は、親戚をたらい回しにされた挙句、孤児院の世話になった。

 彼は旧新宿で何をあったのかは決して語らなかった。寡黙で暗く、何を考えているかわからない私設の鼻つまみ者。そんな彼がある日、一枚の画を描いた。

 なんの変哲もない一匹の猫と、その撫でる手を描いた、それだけの画。

 しかし、それを見た孤児院の院長は静かに涙した。  

「この一見は平凡で平和な画は、幸せへと憧憬と隠し切れない悲しみで溢れている」

 そう言った院長は彼に画の才があるとして、自腹を切って画を学ばせた。

 彼は乾いたスポンジのようだった。絵画についての技術は触れた端から吸収し、自分のものにする。

 彼に師事した者は皆、彼のファンになった。鬼才、天才、神の子と持て囃されながらも、彼は緩みも弛みもせず、ひたすら画を描き続ける。

 昼夜を問わず、取り憑かれたかのように筆を走らせる彼に、教師達は同じ感想を抱いた。「描かなければ、彼はあの日の理不尽に押し潰されてしまうのだろう。彼にとって画を描くことは呼吸であり食事であり、死闘なのだ」

 教師達はこぞって彼の画を紹介し、好事家は達は嬉々として受け入れた。

 一心不乱に描き続けてきた彼がふと周りを見ると、知らぬ間にコネクションが出来上がっていた。国内外問わず、彼の画を求めるファンは大勢いた。

 どん底から画一つで上り詰めたサクセス・ストーリーはいかにも魅力的であり、彼に対して取材や、ドキュメンタリー映画を作りたいと持ちかける者も現れた。

 だが、彼はそれら一切を拒んだ。

 理由は一つ、『画を描く時間が欲しい』。こう言われてはもう誰も口を挟まなかった。彼を取り巻く人間は、編集された言葉や演出された映像よりも、彼の画を求めているからだった。

 ひたすら描き続けた彼が世に出した絵画の数は一二〇〇点を超え、そのほぼ全ての絵画がこの展覧会に集められた。

 彼の画はどれも明るいが、常に裏に悲しみを秘めている。観る者が覆われた想いを読み取ったとき、表面上の明るさは虚しさに代わり、観る者の精神を揺さ振る。

 感情を動かす――本当の意味で感動を呼ぶ画師、それが東伊栄坐である。


 ◇ ◆ ◇


「凄惨な画、残酷な画を見せて、人の気持ちを沈ませることは容易い。だが、彼のように美しく煌びやかな画、力強く逞しい画、奔放で自由な画をもってして、人に悲しみを呼ぶことが出来る画家は、歴史上にも稀有な存在なのです」

 老人の語りは始めから終わりまで、淀みなく静かなものだった。

「どうですかな? 彼を知った感想は?」

 一姫と真弓を含め、数多の人が憔悴しながらも満足気だった理由は理解した。稀有なる芸術に触れた実感が皆を満たしたのだ。

 だが、それなら俺は――顔を挙げ、もう一度正面の画を観る。老人の視線を感じる。俺の新しい感想を期待しているのだろうか。

 しかし、俺が画から感じる印象はこれっぽちも変わらなかった。この画に限ったことではない。登ってくる間に鑑賞した画も全て。俺には秘められた悲しみなど理解できない。

 申し訳なく思う、無駄骨を折らせてしまった。

「いいえ、良いのですよ」

 老人は、なんと微笑んでいた。今まで以上に、優しく俺に言った。

「作者の込めた想い、作品が生まれた経緯に背景。これらを知ると知らないとでは、確かに芸術品の味わいは異なる。ですが、それらはあくまで鑑賞のエッセンス。長々と語った私が言うのも妙ですが、作品にどのような感情を抱くかは鑑賞者の自由なのです」

 他人とはまるで異なる感想を抱いても、それは間違いではないと老人は言う。

「心の在り方まで多数決では、流石に窮屈でしょう?」

 イラズラっぽく笑う。こんな顔も出来る人なのか。

「それに、そもそも多数が本当に『彼』の想いに応えているかという疑問も、ね」

 意味深な言葉を口にした後、老人は腕に着けた銀の時計を確認した。

「おっともうこんな時間ですか」

 そう言って長椅子から立ち上がった。俺もつい、釣られて立ち上がる。並び立ち、初めて老人の方が背の高いことに気付いた。

「ふふ、今日は良い日です。貴方のお陰で実に有意義な時間を過ごせた」

 俺は何も、謙遜ではなく本当に何もしていない。

「いえいえ、この年になるどうも思考が凝固まってしまいましてね。貴方の感想を聞けたことは大収穫ですよ」

 威圧感など微塵もない、どこまでも物腰柔らかな老人の姿勢。だからこそ、その余裕に静かな威厳を覚える。どぎまぎする俺に老人は軽く頭を下げ、

「すっかり申し送れました。私は西野雄太にしの ゆうたと申します。同好の士として、ぜひ貴方のお名前を窺いたいのですが、よろしいでしょうか」

 と自己紹介をした。当然、俺は答える。

「ミライ君、良い名ですな。希望のある響きです」

 おそらく、西野老人が思い浮かべている字面は違っている。が、それを訂正する機会は失われた。何故なら――


「あなた、お迎えに参りましたわ」


 そう言って、俺の後ろに女性が現れたからである。

 その女性は西野老人と似た雰囲気の女性用スーツを着ていた。波打つ長い金髪、泉に似た潤う碧眼。全く外国人馴れしていない俺は、もろに尻込みした。

 視線が合う。女性は長いまつ毛が揃う目を細め、薄桃色をした唇で微笑んだ。

「こんにちは」

 凝固まる俺の横で、西野老人はやれやれと首を振った。

「下で待っていて良かったというのに。わざわざ上がるのは手間だったろう、すまんの」

 俺と会話するときとは異なり、やや砕けた感じのしゃべりで西野老人は女性を労う。

「あら。愛しい殿方への道のりを苦にする、私がそんな薄情な妻だとおっしゃるの?」

 そういって女性は微笑む――今、聞き流せない発言をしたような。

「こ、これ! ミライ君が混乱しておるだろうに!」

「はて? 何がでしょうダーリン」

 だー、りん。俺は思わず、西野老人と女性を見比べてしまう。どう見ても齢六〇以上は確実の西野老人。どう多めに見積もっても二〇代後半の女性。その彼女がダーリンと西野老人を呼んだ。

 おそらく、目が白黒しているであろう俺に、西野老人は髯を触りつつ苦笑する。

「まあその、恥ずかしながらコレとはそういう関係でして」

「まあ、あなた。コレだなんて、わたくしをまるで所有物のように――」

 女性は西野老人に接すると、その艶やかな白い手で老人の皺だらけの手を掴んで囁いた。

「もっと仰って下さいな……♪」

 彼女の雪のような頬へと当て、熱く濡れた眼差しを向けている。

「よ、止さんか。人前ではしたない」

「うふふ、はーい」

 西野老人が顔を赤らめると、女性はイラズラっぽく笑って離れた。ただし、手は握ったまま、指と指を絡めていた。

「オホン。ではミライ君、私はこれで失礼しますね。また縁があれば会うこともあるでしょう。では」

 西野老人が礼をし、隣の女性も俺へと会釈してくれた。

 俺も頭を下げ――姿勢を戻したとき、既に二人の姿はなかった。


  

 ▼ ▼ ▼


 エスカレーターを下り切る。

 約1時間ぶりに訪れたフードコートは、相変わらずフロアの内装と客の空気がマッチしないチグハグな空間だった。

「うぇーい! みらっちこっちこっちー!」

 俺が探すよりも早く、一姫から声が掛かった。席の一つに陣取り手を振っている。

 待っている間に食事をしていたらしく、机にはトレイが一つ、上には半分ほど齧られたホットドックと水の入ったコップ。加えて見覚えのあるビンが幾つか乗っている。ブレないな、このサプリ漬けめ。

「なはは、サーセン」

 けらりと笑ったかと思うと、一姫は急に真面目な顔した。

「残念なお知らせです師匠」

 内容は真面目ではなさそうだった。

「まゆみん十分ほど前にドロップアウトいたしまして候。急用が出来たで候」

 それは後で謝らねばならない。

「決して待ちくたびれて逃げたわけじゃないっす。気になさんな旦那」

 ぽんぽんと肩を叩いた。誰が旦那か。

「んじゃ、次はグッドニュースをば」

 言うとひょひょいとビンをバックに仕舞い、立ち上がるなり手首を掴んできた。顔に顔を寄せてそっと一言。

「これで二人っきりね、ダーリン」

 瞬間、俺は半身を切って間合いを取った。我ながら、無駄に洗練された体裁きだった。

「え? ちょ、流石に傷付くぜその引き方は?!」

 いや、許して欲しい。最上階で色々とあった。

「なんでい。いつもみたいにムッツリ受け入れろよチクチョー」

 ムッツリでもないし、受け入れてもいない。

「へいへい。んじゃ、帰りましょうぜ」

 俺は頷き、机の上のトレイを手にして返却場所へと置く。それを見た一姫は、

「おう、せんきゅージェントルメン」

 と、おどけつつ感謝してきた。 


 


 足並みを揃え、一姫と新々宿駅へ歩く。

 歩く間、俺は最上階までに鑑賞した画を覚えている限り一姫に喋った。その度に一姫は「ふへー」もしくは「ほうほう」と、若干聞いているのか怪しい相槌を打ち、それでいてしっかり把握して逆に突っ込んだ質問をしてきた。

 ただ、西野老人とのことは、俺は話題に出さなかった。彼との関わった時間はごく僅かだが、有意義な時間だった。最上階に自力で辿り着いた報酬として、一姫には悪いが黙っておきたいと、なんとなく思った。

 絵画展の話題が尽きた頃、丁度切りの良くで西口駅口前に着いた。

「おっと、私はここでバイビーです。実はこの後、父さんと約束があるんだぜ。お詫びの豪華ディナーだそうな」

 最近は忙しく、ろくな会話を持てなかった事や、この間の朝の現場で頭ごなしに怒鳴りつけた事。もろもろの埋め合わせだそうだ。なんだかんだで親子関係は円満のようで安心半分、羨ましさ半分である。

「うへへ。みらっち気をつけなよ? 父さん、あの目が虚ろな少年は誰だ、どんな関係だって、刑事まるだしで訊いて来て大変だったんだから。マークされちゃってるぜ?」

 刑事――そういえば【串刺し事件】を担当していたか。

「いえーす。さっさと解決して、夜中に飲む酒の量を減らしてくれないと、あれ絶対に肝臓がヤバイって」

 残念だがそれは――と、心の中で呟く。

 【串刺し事件】の犯人は人ではない。化物と魔術を操るヴァンパイア。到底、普通の人間にどうこう出来る事案ではない。

 そして、その化物をどうこうしようとしている吸血鬼の少女、愛華のことを思い出し、 今日を外して二日後に迫った約束を思い出す。

 【顎】を手放すか否か。手放せば、得る対価で祖父の墓は直せるだろう。義理も果たせる。だが俺は保留した。自分で自分が解からない。次に彼女とあったその時、俺はどう答えるつもりなのだろう――いや、駄目だ。これではいけない。

「おーい、みらっちー」

 一姫の呼びかけに引き戻される。

「全く、そんなんだから目が虚ろとか言われちゃうんだぜ?」

 すまない。ところで訊きたいことがある。

「ん? なんぞ? スリーサイズ?」

 もし俺が剣道をやりたいと言ったら、本当に教えてくれるだろうか。

「えーとねえ上からは……ウェエイ!?」

 奇声を挙げるほどお断りらしい。すまなく思う。

「違う違う! マジで!? ねえマジで!? やっとっすか!? やっと私の営業がみのったんか?!」

 グイグイと寄って来る一姫の目は☆の様に輝いている。が、まだ決めたわけではなく、ただ、確認しただけである。

「むぅ、なんか煮え切らないのう。私は建前や冗談で、剣道に誘ったりせんぜよ?」

 すまない。ただどうしてもと俺が言うと、一姫はおどけた調子を収め姿勢を正した。

 真摯な眼差しが俺を見つめる。

「……私は本気だよ。本気でみらっちを、而道巳禮を誘っているよ」

 そうか――ありがとう。

「あ。パパ来たっぽい。じゃあ、みらっち。今度はしっかりと自分の気持ち整理してから話してね! バイビー!」

 一姫はそう俺に釘を刺して駆けて行った。俺は俺で駅へと向かう。

 階段前で振り返ると、遠くでは一姫が父親を肘で突いていた。本当に羨ましくも微笑ましい。俺は軽快な足取りで階段を下りた。

 



 何事もなくアパートまで帰還。茉莉は昨日のうちに田舎に帰したため、部屋にはまた俺独りだ。手洗いうがいをした後で布団の上に寝転がる。すっかり日は暮れてしまった。目を瞑れば翌朝まで眠れてしまいそうなほど、身体には心地よい疲労が溜まっていた。

 ぼんやり天井を見上げ、今日という濃密な一日を思い返す――目まぐるしい時間だったが、同時に有意義だった。

 寝返りをうち、まどろみの中で一姫を思う。彼女を培ったものを想う。

 剣道。剣の『道』。彼女の来た道であり、これからも歩む道。辿ればあるいは、俺も彼女のように輝けるのだろうか――【顎】を手放しても、俺は…… 目蓋が重い…… 俺は、目を…… 閉じ……  眠…… 

 


――リリリリリッ…… リリリリリッ……


 

 携帯の音で目が覚める。時刻は二時を過ぎたばかり。霞む目を擦って起こし、相手を確認する、真弓だった。

 こんな時間に何事だろう。ボタンを押し応対する。が、良く聞こえない。電話の相手は間違いなく真弓だ。だが、声が震えている。

 何だ、もう一度―ー。 

「姫ちゃんが、病院に…… 姫ちゃんのお父さん、殺され……」

 手から、携帯が滑り落ちた。


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