【吸血鬼(アイカ)】
温い。
まどろみから半覚醒し、違和感を覚える。敷き布団も掛け布団も妙に柔らかい。枕不用派の俺がどういうわけか、焼きたてパン並にふかふかの枕を使用している。
そしてなにより、全身痛いところだらけだ。身体を起こそうとした途端、頭の先から踵の裏まで鈍痛と鋭痛が入り乱れて、嗚咽が漏れた。
痛みが収まるまで一旦待つ。十数秒置いて、今度は努めて静かにゆっくり身体を起こす――よし、気を使って動けば我慢できる程度の痛みで収まる。
辺りを見回す、までもない。見覚えのない部屋だ。間取りは四角く、広さは六畳ほど。天井は立って手を伸ばせば届くくらいの小部屋。薄い水色の地に細かい花模様が散りばめられた壁紙が張られている。俺が寝ていたのは敷き布団ではなく、足突きのベッドだった。こちらは白よりの桜色で彩られている。ベッドの右側は窓付きの壁に面し、レースのカーテンが閉じていた。
部屋の隅にはクローゼットや鏡台と思しき家具も見当たる。ベット脇の小さいテーブルにはチューリップに似たステンドグラスと、何がモチーフか判らないヌイグルミがひとつ座っていた――何となく居辛い。全体的に空気が甘いし、何より畳成分が足りない。
何故このような洋室にいるのか。昨日、何があったのかを思い出そうとして――頭を抱える。
掘り起こした記憶はあまりに奇天烈すぎた。が、衣服の擦り切れや、身体中の痛みが夢ではないと物語っている。
ところで、だ。
先ほどから気になっていることがある。下半身に妙な重みを感じる。
何かが下腹部を圧迫していた。布団も妙に盛り上がっている。この温もりは――湯たんぽだろうか。暖房のない山での生活では重宝したが、何というかこの部屋の雰囲気に合わない。
では一体何が。布団を上に開けてみる。
「クゥ…… クゥ……」
閉じる。
何かいた、ような気がする。寝息を立てていたような。
もう一度、ご開帳。
「クゥ……♪」
小さな身体を丸め、自身の長い銀髪で体を包み、俺の『股』に頬を乗せて、無防備な寝顔を晒している誰かがいる。すやすやと――全裸で。
「キュ……♪」
全 裸 で。
――トントン
軽いノック音が、ドアで鳴る。
「入るわよ」
呼びかけの後、数秒待ってから誰かが入ってきた。
「ギン、ミライはまだ寝て…… あら、起きてるじゃない」
聞き覚えのある声、赤髪の少女のものだった。喋りながら入室した彼女はベッドの横に立つと、いきなり不機嫌そうな口調になった。
「……何よ。一瞥もくれないって失礼じゃない? ってか、どうして布団の中を見て固まってるのよ?」
いや、これを見て固まらない奴はいない。
「は? ……あ! アンタまさか漏らしたの!?!」
どうしてそうなる。俺が遺憾の意を告げるより早く、赤髪の少女は布団を取っ払う。当然、中身がお目見えする。
「クゥ~……」
股枕した――獣の少女がお目見えする。
「何よギンじゃない…… ってギン?! 何しているの?!」
赤髪の少女の顔が、彼女の髪と同程度まで赤く燃え上がった。取り乱した彼女は、何か言語のようなものを口走りながら、ギン(おそらく獣の少女の名前)の肩を激しく揺すりだした。
ギンは俺の股ぐらで寝ているので必然、俺の股も擦れて揺れる――擦れて、揺れる。
「ちょっと! アンタも何をされっぱなしに…… 何を変な顔してんのよ?」
「ワゥ……?」
俺が返答に困っていると、割と助かるタイミングでギンが目を覚ましてくれた。
瞼を擦りつつ身体を起こし、のんきに欠伸をする彼女に、赤髪の少女が人差し指を突きつけ怒鳴った。
「ギン! こ、コレはどういうアレよ?!」
「ワウッ」
「見張り? いやいや、寝たら見張りにならないでしょ!」
「……ワゥ~~」
「こら二度寝するな! あと! そ、そんなところに顔を乗っけない!」
赤髪の少女は問答無用でギンをベッドから引き摺り下ろす。ギンはマッパなので色々見えそうになり、俺は顔を背けた。
「ハァ…… 全く、こんな疲れたの久しぶりよ」
赤髪の少女はうんざりとした様子で、部屋のクローゼットから長袖のTシャツを一枚取り出してギンに被せた。彼女が着るように言うと、思いのほか素直にギンは袖を通した。
シャツのボタンを留めるのに苦労するギンを、赤髪の少女は手伝いつつ、俺に質問してくる。
「ミライ、でいいのよね名前は。身体はどう? 歩けそうかしら」
試すが手っ取り早いだろう。俺はベッドから降りて、毛足の高い絨毯に直立する――多少、痛みが走るが問題ない。許容範囲だ。
「そ。じゃ、ついて来て。色々、話したいことがあるの」
そう言って彼女はギンを伴い、俺をこの妙に可愛らしい部屋から連れ出した。
赤髪と銀髪の二人に案内された俺は、長い廊下をしばらく歩いた後に、長テーブルを中心に据えた洋間へと着いた。
テーブルには純白のテーブルクロスが敷かれ、鮮やかな花を一輪だけ生けたガラス瓶が飾られていた。目に着くその他の備品もこれと言って奇抜な物はなく、全体的に落ち着いた雰囲気の部屋だった。ただ、八人ほど着けるサイズのテーブルに、設けられた椅子が三つだけというのが、少々不格好ではあった。
赤髪の少女は俺をまず席に付けさせ、隣にギンを座らせた。その後、彼女は何やら手の中の紙切れを確認し。
「ちょっと待てって」
そう言って、入ってきた時とは違う扉から出て行ってしまった。良く解らないまま、俺はギンと二人きりになる。どうしたものか。
「ワゥ~ン?」
ギンは俺を見つめてくる。その丸い瞳は好奇心に輝いているようにも思える。ともすれば跳びかかってきそうな雰囲気さえある。じゃれつくことをガマンしている犬のような空気を醸し出している。尻尾も揺らしている――尻尾、あったのか。
「ワゥッ!」
俺の視線が尻尾に行っていることに気づいたのか、ギンは軽く咆えると前後逆に座り直し、尻尾を俺の方へと向けてきた。
シャツの下側から出ている銀毛でふっさふさの尻尾は、布地の盛り上がりから察するにちょうど尾てい骨の辺りから生えているようだった。
それにしても見事な毛並みをしている。俺はもっと尻尾を観察しようと顔を近づける。
と、そのタイミングで赤髪の少女が帰ってきた。
「待たせたわねって、何でギンのおしり凝視してんのよ……」
彼女の俺を見る目は、屑を見るそれだった。酷い誤解である。確かにシャツの下側からは尻尾だけでなく、小ぶりな桃尻も少々はみ出てはいたし、毛並みの豊かな尻尾とは対照的につるんとして綺麗なものだと思わなかった訳でもないが――ともかく、別にそういうあれではない。
「……まあ、良いわよ。それよりこれ」
少女は部屋を出る前には持っていなかった大皿を二つ、テーブルの上に置いた。
一つはギンの前に、湿っぽくテカった赤茶の塊――生レバーのようなものが盛られている。ギンは一目見るなり尻尾を振って貪り始めた。
もう一つは俺の前へ、皿の中央に据えられているものは白いボール状の何か――しかも色々と内側から突き出て、湯気を揺らしている。
「遠慮しないでいいわ、食べなさい。お腹空いているはずよ。丸一日、寝てたんだから」
言われみれば確かに空腹感はある。が、別に俺は遠慮していたわけではなく、初遭遇した物体に唖然としていただけである。
彼女が言うにはこれは食べられるものらしい。確かにいい匂いはするが、箸もなければナイフとフォークもない。手づかみでいくタイプの料理なのだろうか。
「え? アンタ、おにぎりにお箸使うの? 変わっているわね」
おにぎり。この、皿に鎮座しているバスケットボール大のこれが――おにぎり。
いや、英語ではライスボールと言うらしいし、大きさもアメリカンサイズと思えば納得できなくもない。が、そこかしこから彩り豊かなモノが頭を出しているのはどういうことだ。
よく見ればどれもこれも見た事はあるものばかりだった。赤くカリッとしたこれは海老天の尻尾。細く茶色で束になって刺さっているこれは――チョコポッキーか。こっちのバナナは皮がついたままだ。ウマい棒の穴の中には練乳らしき粘体がたっぷり詰められ、隣のちくわ&ちくわぶにも何か注がれている。
俺は無言で赤髪の少女の顔を見た。
「……な、何よ。別に普通よ? 奮発とかしてないわ」
違う、そうじゃない。
しかし、手の込んだ嫌がらせではないようだ。
致し方なし。頂きます。
「ど、どうぞ」
◎ ◎ ◎
二〇分程かけて完食した。感想は、あえて言うなら――メロンは驚いた。
「お、お粗末さまでした」
少女はぶっきら棒に呟く。彼女は俺の食事を最初から最後までガン見していた。
「ワウッ」
先に食事を終えていたギンが、水の入ったコップを置いてくれた。ありがたい。非常にありがたい。
「どう、お腹膨れたかしら? 何なら――」
俺は即遠慮した。彼女は少し不満そうにした後でテーブルに着いた。
「じゃ、落ち着いたところでお話をしましょう。聞きたいこと、沢山あるんじゃない? 答えられる範囲で答えるわ」
確かに色々ある。彼女達は何者か、あの【影】は何か。ここは本当に【旧新宿区】の内部なのか等々。
しかし、今真っ先に知るべきなのはやはり――目の前の彼女の名前だろう。
「私の名前? ……そうね、確かに私だけそっちの名前を知っているのは不公平よね」
彼女は頷くと胸に手を当て、自己紹介をする。
「私の名前はアイカ。愛するの愛に、華々しいの華。呼び捨てで構わないわ。私もあなたを呼び捨てにするから、ミライ」
どうして俺の名を。と、そういえば俺の自己紹介は件の修羅場の合間に済ませたのだった。どうも記憶があいまいで困る。
「ワウッ」
「その子はギン。で、ここからが重要なのだけど」
彼女は姿勢を正すと、真剣な表情で俺を見つめて告げる。
「私、吸血鬼なのよ」
そうなのか。
「……え、何よそれ。反応薄くない? 吸血鬼よ? 解る? ヴァンパイアってやつ。血を吸うことで魂を奪い、血を与えれることで肉体を支配する。そういう闇に生ける化物よ?」
本当にいるとは知らなかった。驚きだ。
「いや、驚いている顔に見えないし。何かあっさり信じてるし、飲み込みが良すぎよ。
こういう場合もっとほら『有り得ない』とか、『非現実的だ』とか――」
そういう疑念や感想を抱くには俺は少々、不思議な経験を済ませ過ぎた。隣で犬の尻尾を生やした少女がいて、違和感を感じない程度には慣れてしまっている。
「ち、ちょっと待ちなさい。え、えーっと…… こういう場合は……」
愛華は一旦、席を離れた。こちらに背を向け、壁際でごそごそと何かし始める。
「ええと…… あ、あった。さすが…… うん、大丈夫」
十秒ほどで愛華は席に戻った。キリッとした顔で言ってくる。
「お待たせ。問題ないわ。説明が省けて、むしろやり易くなった感じよ」
それはなにより。
「じゃあ、お話を続けましょう。何でも聞いて。それで聞きたいことがなくなったら、次は私の番をちょうだい。ミライ、アナタに提案があるのよ」
愛華の提案とやらは気になるが、ここはお言葉に甘えて現状の整理をさせてもらう。俺はとりあえずここが何処か。本当に【旧新宿区】なのかを聞いた。
「ええ。そうよ。ここは【旧新宿区】よ。だいたい六十年前に地獄と化し、今も尾を引く穢れた土地ね」
あっさり肯定したのち、彼女はとんでもないことを付け足した。
「――もっとも、バイオテロなんて嘘だけど」
一週間ほど前に俺が受けた現代史の内容を、愛華は真っ向から全否定してしまった。
「呪いよ」
【旧新宿区】が隔離されている本当の理由、彼女はまず【呪い】という結論を提示してから説明を始めた。
六十年前、【旧新宿区】で具体的に何が起きたのかは彼女も知らないらしい。ただ、世界規模で類を見ない【怪魔】による大惨事が引き起こされたという。
「【怪魔】が何って? まあ端的に言ってしまえばオカルトな存在全般のことね。当然、私も【怪魔】に属するのよ」
そう言って愛華は八重歯を見せびらかしてきた。どうだと言わんばかりの視線を送ってきたので立派なモノだと褒めたのだが、返事としては不出来だったらしく、機嫌を損なわれた。
俺が謝ると、彼女は無視して【怪魔】と人との関係について話した。
「【怪魔】は人に知られ、意識されることで存在を増し力を得るの。だから、人類は舞台裏で【怪魔】を潰し、表の世界に出ないよう隠匿してきた。対処する人員もなるべく少数精鋭でね」
【怪魔】が引き起こした事件は隠蔽され、人知れず解決されるか、或いは未解決のまま風化していく。それが有史以来、延々と繰り返されていた。
だが、【旧新宿区】の一件は単に隠匿するには被害の規模が大きすぎた。
「知っていると思うけど、万を超える一般人が死んだわ。生き残った者が目の当たりにした真実を話しても、気が狂ったと思われるだけ。だから、【怪魔】の存在を隠す工作自体はどうにかなったのよ。でもね――」
地獄の釜底と変わらぬ絶望に染め上げられた新宿の地は、根深い【呪い】を帯びてしまった。【呪い】を帯びた土地は夜が訪れるたびに【怪魔】を生み出し、二次災害を引き起こした。
【旧新宿区】に設けられた外壁は病原体ではなく、生まれ続ける【怪魔】を封じ込めるための堤防。これが彼女の語る真実だった。
「でも、ただ閉じるだけじゃいずれ【怪魔】が飽和して壁は破られる。そうならないために間引きを行う者が必要だった。そして選ばれたのが私よ」
【旧新宿区】が封鎖されたその日から今日まで、なんと彼女は六十年間もの間、【怪魔】が外に出ぬよう内で狩り続けていたという。
ふと疑問に思う。それはつまり同族殺しなのではないだろうか。
俺の疑問に愛華はつまらなそうに答える。
「生まれる【怪魔】は理性のない化物ばかりよ。何の躊躇いもないわ。それに、私は管理を請け負うことを条件に、生存を許されている身だし、わがまま言えないのよ」
愛華も【怪魔】である以上、人にとって危険な存在らしい(個人的にはそうは見えないが)。彼女は【旧新宿区】の管理と引き換えに【怪魔】を討つ者達の討伐対象から外れているそうだ。
また、愛華の仕事は基本【怪魔】の間引きだが、人間の保護もやっているらしい。
土地が【呪い】を帯びること自体はままあることで、それを祓うことで元の土地に戻す技術もあるそうだ。土地の浄化を生業にしている人間もいて、そういった輩が年に何度か【旧新宿区】を清めようと乗り込んでくるらしい。
「それが出来るなら、私なんてとっくに用済みよ」
愛華はそう言って鼻で笑っていた。曰く、無謀だそうだ。
そういった無謀な者達を保護し、関連組織に引き渡すのも【旧新宿区】管理人であるの愛華の仕事だ。俺と始めて会話した際に、名前と共に『所属は?』と聞いたのは、俺をその類の人間だと勘違いしたからだった。俺としてはそんな胡散臭い人間として扱われるのは心外なのだが。
「は? 一般人が太刀を携えて【旧新宿区】に単身で乗り込んでくるとか、誰が想定するのよ」
怒られた。解せぬ。
というか、そもそも俺が【旧新宿区】に入ることになったのは、ギンに【顎】を奪われたからである。
「う、それについてはその、謝るわ。ごめんなさい」
「ワウ……」
愛華とギンが頭を垂れる。ここまで素直に謝罪されるとは思わなかった。肩をすぼませ二人共、心底申し訳なさそうにしている。
俺も別に糾弾する気はない。頭を上げてもらう。ただ、【顎】は今どこにあるのかそれが気になる。
「大丈夫よ。ちゃんと鞘に納めて保管してあるわ。ギン、取ってきて」
「ワウッ」
下された命令に、ギンは元気よく反応すると駆けて部屋を出て行った。愛華は視線でギンを見送り、俺に向き直る。
「さて、他に聞きたいことはある?」
あとは、あの俺達を襲った【影】についてくらいか。
「……あれは駒よ。私のことを檻に封じた上、ご丁寧に屋敷ごと結界で囲んで、そのさらに保険として待機させてたのね。嫌われたもんだわ」
愛華は露骨に苛立ち、歯噛みして答えた。いまいち要領を得ないが、話の内容から察するに、【影】はあくまで何者かの手下で、彼女はその何者かと敵対しているらしい。
「この話はまた後にしましょう。私の『提案』には、この件が深く関わっているから。そのときに詳しく話すわ」
【影】とその黒幕については一旦終わりになる。となると、もうほとんど聞くことはなくなってしまった気がする。
それでも強いてあげるなら、そう。愛華の髪について聞いてみようか。
「え? 別にいいけど。ふふん、なーに? 綺麗で見蕩れたとかそういうのかしら?」
愛華は急に鼻高々となった。が、申し訳ないがそういうあれではない。俺が聞きたいのは手入れの方法ではなく、戦闘中に何度も頭髪を火炎に変化させたことについてだ。
「……何よ。そんなこと? 魔法よ魔法。あ、正確には魔術か。まあどっちでもいいでしょ。詳しく説明したって素人には解らないだろうし」
何故か急に投げやりになった。
「それとも魔法を使いたいとか? 無理よ。人間の場合、生まれた時から色々と調整をして脳を慣らさないと、理論を理解しようとしたりするだけで偏頭痛になるし、無理して魔道書を読もうもんなら爆ぜるわ。それと――」
その後しばらく愛華は、魔法使いのエグい実情をしゃべり続けた。俺はそこまで魔法に興味はなかったので、途中から右耳から左耳に聞き流していたが、途中で転機が訪れた。
「ワウッ!」
ギンが元気に帰ってきた。腕にはしっかりと【顎】を抱えている。
「であるからして――て、ギン? じゃあ魔法についてはこんな所でいいかしら?」
俺は頷く。聞いたところで彼女の言った通り、理解が及ばないとよく解った。
「そ、それじゃあ本題。私の提案についてだけど」
愛華はギンの手から【顎】受け取るとテーブルに置き、はっきりと告げた。
「これ、私が買うわ。売ってちょうだい」
俺の目は多分、点になっているだろう。もう一度、言ってくれと頼む。聞き間違いかもしれない。
「この刀が欲しいの。言い値で買うわ。いくら?」
聞き間違いではなかった。愛華は【顎】を欲している。いきなり過ぎて困惑する俺に、愛華は小首を傾げた。
「いきなり? 提案があるって言ったじゃない」
その漠然とした前置きから連想できる内容ではないうえ、安易に決められることでもない。
「何よ。迷う理由がないでしょ。そもそも、ミライは【顎】を売るために新々宿へと来たのだから」
確かにその通りだが――待て。なぜ愛華がそれを知っている。俺は話した覚えはない。
「え? そんなことない、あれ? あっ……」
俺の反応に愛華はしまったと口を押さえる。
「ち、ちょっと失礼」
愛華は席を立つと、また壁を向いて何かを確認し始めた。ただ、今回は「やばっ」とか
「しまっ」といった全体的にダメな感じの独り言が漏れている。
結局、何度かこちらを伺ったあとで、愛華はすごすごと戻ってきた。俺が説明を求めると、愛華は顔を逸らし、しどろもどろに言い訳しだした。
「その、ワザとじゃないのよ? ヴァンパイアの特性というか、生態というか……」
詳しく頼む。
「えと、ヴァンパイアは血に触れると、血の持ち主の記憶を読んじゃうのよ。意識しなくても、流れ込んでくるの。アナタを治療している間に、結構な量の血に触れたから」
吸血鬼も冷や汗をかくらしい。左右の人差し指とつんつんと合わせ、あちこち視線を散らせている。
見ているこっちが居た堪れなくなってきた。放置せず治療してくれたこと自体は、素直に感謝すべきだし、わざとではないらしいし、ここは心を広く持つべきだろう。
「そ、そう? 怒ってない、のよね?」
心底ほっとした様子を見せた後、すぐに胸を張って姿勢を正した。
「そうよね。わざとじゃないのだから仕方ないもの。うん」
切り替えが早いことはいいことだ。で、【顎】を求める理由はなんだろうか。
「必要だからよ。目的を達成するために」
愛華は手を組み、両肘をテーブルに立てた。声のトーンを落とし語る。
「私の目的は、私を封印した奴を止めることよ」
言うと愛華は一枚の紙切れを提示した。新聞紙の切り抜きだった。小見出しには見覚えのある文字が並んでいた。
【串刺し殺人、新たな被害者】
「……知っているみたいね。この事件、人間の仕業じゃないわ。犯人は吸血鬼、そしてただの猟奇殺人でもない。大規模な魔術の下準備、儀式殺人なの」
儀式殺人、おぞましい響きだった。
「私達が戦ったあれは、元々は【旧新宿区】で生まれた【怪魔】なの。それを加工して手駒に変え、その駒に人を殺させているわ」
身体中に残る傷が疼く。あの化物との修羅場は、脳裏にはっきりと焼き付いている。
得体の知れない化物に殺される。それが、どんな気持ちなのかは――実際に殺されかけたから、少し判る気がする。殺された被害者のことを考えると、傷とは違なる疼きが胸に生まれた――その奴とは何者か。
「……【生ける万編魔道書】【啜る史書】【魔術師の霊廟】。他称はそれこそ色々あるけれど、あいつが自称する名はひとつよ。大魔導メルディーナ。私と同じ吸血鬼で、全く異なる正真正銘の怪物よ」
メルディーナ。不思議な響きをした名だった。吸血鬼というよりは神話の神のような――が、俺には愛華のいう正真正銘の怪物という言葉がいまいちピンと来ない。『違う』とは具体的にどれくらい違うのか。
「そうね。私の生殺与奪権を握って【旧新宿区】を管理させている組織が、メルディーナ個人とは不戦協定を結んでいる、って言えばちょっとはヤバさが伝わるかしら」
愛華はしれっと言ったものだが、【顎】ひとつで埋まる差とは考えられないのだが。
「それでも1%の勝率が10%にくらいにはなるの。10倍よ?」
それでも1/10だ。分が悪いことには変わらない。
俺の反応に、愛華はやれやれと首を振る。
「あのね、あれを相手にして1割も勝ちが見込めるって相当なのよ? ていうかミライ、アナタはこの刀のがどれくらい規格外の存在か、まるで理解していないようね」
規格外。確かに打刀としては厚みも刃幅も異様だが。
「やっぱり。私が言っているのは呪術的な話よ」
呪術? 【顎】に?
「さっきも言ったけど、私は二重に封印されていたの。一つは屋敷の全体を包みこんでいた【壁】。もうひとつは純粋に堅牢な【檻】。どちらもメルディーナ独自の魔術理論で組まれた魔法のようね」
愛華は話しながら、隣にいるギンへと視線を向けた。
「ギンは私が封印されたとき、たまたまその場にいなかったの。おかけでメルディーナの手にかからずに済んだけど、【壁】のせいで屋敷に入れなくなってしまった。だから、この子は【壁】を破壊するために、都内中から刀剣を集めては結界を斬ろうとした」
そういえば、初めて目にしたときの屋敷は、至る所に刀剣が突き立てられていた。あれらは全てギンの仕業だったのか――それと連動して、俺は【連続刀剣盗難事件】のことを思い出した。もしかするまでもなく犯人はギンだろう。
「ちゃんと持ち主に返すわ。しばらくは忙しいから、事が終わってからになるけど」
釘を刺す愛華。それは当然の事として、気になることが他にある。【壁】とやらを破壊するための道具を、どうしてギンは刀剣に限定したのだろうか。障害物の破壊が目的ならば鈍器でもいいはずだし、工事現場から爆発物の類を奪うこともギンなら容易いだろう。重火器だってあるところにはある。やっていいことかどうかは別として、なぜしなかったのかが疑問だった。
「……単なる物理障壁なら、ギンだってわざわざ博物館のアンティークを奪ったりしなかったわよ。ミライ、刀剣ってのは人間の発明した武器の中では最も魔術や呪術と相性がいいのよ。数多ある神話や伝説には、いくつもの神剣・魔剣の存在が描かれている。今の世の中にも西洋東洋を問わず、儀礼用の刀剣類は無数に存在する。おそらくは時の果ての世界にも、刀剣以上に魔に馴染む兵器は存在しないでしょうね。生身の生物を殺すならともかく、魔術や呪術を破壊するなら、重火器よりも刀剣。ギンそれを理解していたからこそ刀剣類に限定して結界の破壊を試みたのよ」
ただ、と愛華は付け加える。
「やっかいなことに【壁】は一撃で破壊しないと、自らを傷つけた物を取り込んでより強固になる特性があったみたいなのよ。ギンは何度も失敗して、その度に壁は刀剣を吸収して、逆に堅牢さを増していったわけ――でも、その【顎】は違った」
愛華の語りに熱が入る。軽い身振りを交えた解説を、俺はただ黙って聴き続ける。
「破壊できたの。ただでさえ強力なメルディーナの結界が、百数振りの刀剣によってさらに強化されていたのに。たったの一撃でよ? その結果が偶然の産物ではないことも実証されているわ。アナタが振った【顎】は、私を閉じ込めていた【檻】を破壊したし、あの手駒にも一太刀で重傷を負わせた。私もそれなりの数の刀剣を持ってはいるけど、【顎】ほどの名刀はない。だから必要なの。メルディーナの結界を正面から破壊できる武器が、どうしても」
愛華は言い切ると、一旦深く呼吸をして息を整えた。姿勢を正し座り直すと、真っ直ぐに俺を見据え、再び話し始めた。
「私が【顎】を必要としている理由は説明したわ。次はミライ、アナタの番よ。具体的な値段を提示して。言い値で買うわ」
言い値とはまた大きく出られた。しかし、失礼なことを聞くがそんな備蓄があるのだろうか。
「まあ、扱き使われている分、必要経費ってことで貰う物は貰っているわけよ」
不敵に笑った後、愛華は真顔に戻る。
「それでも足りないというのなら、そうね……」
愛華は言葉を区切り、手の中をちらちらと見た。これで三回目、さっきから気になってしょうがない。
不審とまではいかないが、不思議に思う俺へ、愛華は告げた。
「私をあげる。何でもするわ」
……聞き逃した、もう一度頼む。
「何でもすると言ったのよ。ミライが望むことを叶えるために動く、そのためだけの奴隷になるわ。比喩ではなく、本当に何でもよ」
愛華は淡々と言葉を紡ぐ。
「笑えといえば笑う。泥を飲めというなら許されるまで飲む。殺せというなら、いつ・どこで・だれを・何人でも殺す。邪魔だから死ねと言うなら邪魔にならないところで死ぬ。そんな感じの従順な下僕になるわ」
冗談でも笑えない内容を愛華は無表情で言い切った。正気か。
「必死なのよ、私も。串刺し殺人がメルディーナの儀式殺人だと知っているのは、今のところは奴と直接に関わった私だけよ。私を利用している組織も、ただの猟奇殺人は管轄外だから捨て置いている。けれども、もしこのまま殺人が続いて儀式が完成、魔術が発動すればあいつらも動くわ。そうなれば遅かれ早かれ、メルディーナが【旧新宿区】で生まれた【怪魔】を加工・使役して殺人を行っていたことにも辿り着く。結果、私は管理者として責任を取ることになる。その結果はいうまでもなく『こう』よ」
愛華は自身の喉元を、立てた親指で真横になぞる。それは職務だけに限るのか、それとも生命にまで及ぶのか――表情からするに、後者だった。
「まあ、化物だもの。そんなもんなのよ。私の待遇って」
愛華は自嘲すると、まだ聞きたいことはあるかときいてきた。 俺は少し考え――儀式が成功したら何か起こるのかと質問する。
「……さあね。ただ、人を殺して行う魔術にまともなものは一つもないわ。他には?」
俺は首を横に振る。
愛華はふうと息を吐き、最後の確認に入った。
「ではミライ、言って。いくら必要? いくらで【顎】を譲ってくれる?」
しばし、俺は考える。
願ってもない展開だ。新々宿にある質屋全てを回っても、好きな額を提示してくれなどという所はないだろう。値切られた挙句、祖父の墓が一回り小さくなることくらいは覚悟していたが、愛華と取引すればむしろ前よりも立派なものを建てられそうだ。
断る理由はない。俺は快諾するつもりで口を開き――ふと、ある光景が目に浮かんだ。
それはまだ記憶に新しい、愛華が【影】と戦っていた時のもの。愛華は(おそらくは魔法で)刀剣を取り出し【影】に斬り掛かり、いなされては得物を損壊し、損壊しては新しい得物を取り出していた。
折れ、刃が欠け、砕かれていく刀剣たち。そのひとつひとつに【顎】が重なる。
「ミライ? ねえ、ねえってば」
はっと我を取り戻す。愛華が怪訝そうな顔で俺を見ている。
「どうしたのよ、ここに来て何を悩んでいるの?」
彼女の言う通りだ。悩むことなんてない、ないはずだ。
テーブルに置かれた【顎】を手に取る。彼女に手渡しするためだ。
野太刀の域を超えた重みが手に馴染む。俺がこれを扱えるようになったあの日、あの瞬間の祖父の顔が目に浮かぶ。姉替わりの少女に苦しいくらい抱きしめられる俺を見る祖父の表情は、常と変わらず荒削りな岩のようで、それでも口元は僅かに綻びを見せていたと思う――祖父がこの世を去ったのは、その年だった。
胸が熱い。焼けるようで、熔けるようで、燃えるように熱い。
それからまた、しばらくした後。俺はどうにか返事を絞り出した。
● ○ ●
重い足取りでアパートの階段を登る。本調子ではないため億劫だが、帰ってきたのだと思うと、同時に妙な安心感があった。
自室の前に立ち、ポケットから鍵を――ない。まさか、落としたのか。
あれだけの修羅場、鍵を落としたことに気づかないでも仕方ない。とはいえ、管理人さんの嫌そうにする顔が目に浮かび、本格的に億劫な気持ちになる。
だが、背に腹は変えられない。キーを借りに行こう。そう思い踵を返した時、ドアの先に気配を感じ――次の瞬間、ドアが開け放たれ、何者かが踊りかかってきた。
疲労の残る身体は反応に遅れ顔に抱きつかれる。咄嗟に殴り払おうとし、はたと手を止めた。覚えのある香りと感触だった。
「若ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
故郷の臭い。キンキン響く声。なにより無いに等しい胸。間違いなく茉莉だった。
「えぐっ、おがえりなざいでずよぉ若ァ」
なぜ茉莉がここに。と一瞬思ったが、そういえば鍵を渡して待機するように言いつけていた。すっかり忘れていた。
「なんで若ぜんっぜん連絡くれないですよぉ?! 携帯に電話かけても留守番だったり電波とどかながったり、心配しでだでずよぉ~!」
茉莉の嗚咽混じりの指摘に、携帯を放置していたことも思い出す。懐からちり紙を取り出して鼻をかんでいる茉莉の脇で、携帯を取り出し確認する。
『着信あり 99件』
悪いと思いつつも若干引く。確認すると5件目辺りから、文面がパニック丸出しにあんり、10件目からは目も当てられないことになっていた。
と、着信の他にメールも来ていることに気付く。メールボックスを開くと、意外にも茉莉ではなく真弓からのものだった。内容を読む――これはまた、唐突な。
「若? 若?! 何をほっこりニヤついているです? 話を聞いているですか?」
すまない。なんだろうか。
「何だじゃないですよぅ! 【顎】は!? 【顎】はどうなったです!?」
ああ、それなら――
― aika side ―
「疲れた……」
私はベッドに身を投げ出し、仰向けに横たわる。額に手を当ててみる、ジンワリと火照っていた。馴れないことをした結果だった。
「ホント何年ぶり、あんなに人と会話したの」
ころりと寝返りを打ち、ステンドグラス脇に座らせているヌイグルミを手に取る。スローロリスをモチーフにした【ろーろ君】を胸に抱く。この香り、【あの子】はこれが大好きだから、これは【あの子】の匂いだ。そんな気がする。
ひとしきり休憩し、落ち着いたら愚痴を言いたくなった。が、今私はぼっちだ。ギンにはアイツが【旧新宿区】を抜けるまでの護衛をさせている。日が出ているうちは【怪し魔】は沸かないし、既に沸いている奴も日中は活発に動かない。それでも迷子になられたら面倒なのでギンに送らせた。
【旧新宿区】を覆う天井が、実は陽光まる通しと知ったアイツの顔は傑作――というには表情に乏しかったが、驚いてはいたと思う。ああ、何だかあの仏頂面を思い出したらムカムカしてきた。
「なによアイツ。私、頑張ったのに」
【あの子】の立てたプランは完璧のはずだった。まず腹を膨らませて胃を掴む。聞かれたことには全て答え真摯さを見せる。ごり押しで捨て身の覚悟があることまで伝えた――これはプランにはないアドリブだけれど。途中、口が滑ってミスもしたけど。
「わ、私は悪くないし。あの答えが男としてどうなのって話だし」
誰に聞こえるでもない言い訳をし、腕の中でろーろ君がひしゃげる。
アイツが出した答え、それはYESでもNOでもなく、保留だった。
「即答の流れでしょ、切羽詰ってるの伝わらなかったのかしら」
まあ、引き伸ばしを認めてしまった今、ブツクサ言っても仕方ないのだけど。
実際、あの場で【顎】を手に入れていたとしても、即戦えるわけではなかった。メルディーナの潜伏場所を突き止めなければならない。その方法はあるけど、準備に三日は掛かるし、一ヶ月ほど封じられていた間に沸いたであろう【怪魔】も掃討しなければ。まあ、こっちは一日でこと足りる、と思う。
だから、私はアイツに四日の猶予を与えた。どんな答えにせよ四日後には来る。そしてきっと、たぶん、おそらくアイツは私へ【顎】を譲るだろう。
ちゃんと釘を刺しておいた。そこらの人間には【顎】の価値は判らない。二束三文で買い叩かれるだけだとネチネチ言ってやった。アイツが真剣に金に悩んでいることは確かだったから大丈夫のはず。その原因までは伝わってこなかったが、読み取った感情は確かなものだ。
ただ、NOを突きつけてくる可能性も低くない。アイツと【顎】には、どうも只ならぬ因縁があるようなのだ。その証拠に、アイツは旧新宿区の内外を繋げる魔術、【狭道】に吸い込まれた際、一気に屋敷まで飛ばされてきた。これは普通では有り得ないことだ。
【狭道】は触れることで発動し、対象を外から内へ、内からは外へと移動させるもの。その際、人物だけが移動して装備が剥がれるような事態を避けるため、ある機能が働いている。魂を認識する機能だ。
物には魂が宿る。人が物を使う時、僅かずつだが確実に、指紋のようにこびり着く。その着いた魂を識別することで、【狭道】は所有物を人物の一部として移動させる。この機能のおかげで、通る度に真っ裸になることは避けられる。が、欠陥がないわけでもない。例えばギンが刀剣を運んだ際、まずギンは刀剣を【狭道】に押し込んでから、改めて自分も【狭道】に入った。持ったまま入ろうとすると、ギンと接触期間の短い刀剣は魂の繋がりが薄い『異物』と判断され、外に残ってしまうのである。
ところが、巳禮の場合この誤作動と真逆の事態が発生した。巳禮のほうが先に通った【顎】の一部と判断され、追従して移動させられたのである。
座標が完全に一致しなかったのはあくまでワープが誤作動の産物であったためだ。それにしても信じ難い。確かに長い年月を共に過ごし、より強く意識され続けた物品には、より濃く魂が積み重なる。だが、魔術が人間の魂だと誤認するレベルまで濃く宿るなど聞いたことがない。六〇年の管理生活でも、今回のような事態は初めてだ。
アイツと【顎】は互いが互いの一部になるほどの絆と言っても過言ではない、そんな何かがある。四日後のアイツがNOを突きつけてくる可能性は低くない。もし、もしもそうしたら、私は――
「……いえ、ありえないわ。だってアイツ、どう考えてもお人好しだもの」
私はちゃんと見ていた。メルディーナの手駒に襲われ、傷ついて切羽詰まった状態にも関わらず、ミライはギンを盾にされた瞬間、咄嗟に刃を退いた。【顎】を奪った泥棒でしかないギンを、おそらく彼ならばギンごと手駒を両断できたであろう彼は慮ったのだ。これをお人好しと言わず何と言うのか。
「それに、出てけっていったのに。私を、助けちゃうしさ……」
なぜだか独り言が尻すぼみになる。突き放した私を手駒から守った上、血痰を吐きながら一太刀浴びせ撤退させた。あの瞬間の彼の後ろ姿は、満身創痍のはずでありながら、とても逞しく、頼もしく、10代の少年のそれとは思えなかった。
「……ていうか、あんな一般人がいるかっての」
反対側へと寝返りを打つ。
実際、アイツは異常だった。気絶した後、死なれても胸糞悪いので治療をした時、見てしまった。
常人を遥かに凌ぐ鋼めいた肉体と、全身を埋め尽くす無数の古傷を。
【顎】という規格外の野太刀を扱うために積載された過剰とも言える筋肉は、おそらく骨格の成長を妨げている。目測で一六七cmがアイツの今の身長、これ以上は伸びないだろう。
痛々しい古傷は刃物による鋭利なものから、獣の爪で抉られた粗い痕跡。あるいは擦過傷の名残。あるいは刺突痕――まるで拷問を受けた敗残兵のような惨い身体。身体機能こそ損なわれていないものの、寿命や精神に多大な影響を与えている恐れがある。頭部の傷はおそらく脳にも。アイツの表情が凝り固まっているのは、もしかしたら。
「いや、あれは多分生まれつきね。うん」
何となくそんな感じがする。そこくらいは自然な部分が、残っていて欲し――いや、残っていても別にいいと思う。私には関係ないけど。
――キィ……
「わうっ」
ぼーっとしていると扉が開き、ギンが顔を出した。見送りを終えて戻ってきたようだ。出て行ったときと同じく獣形態、ハッハッと舌を出して呼吸している。
私はベッドに座り手招きする。早足で寄ってきたギンの喉を撫でると、目を細めふさふさの尻尾を激しく揺らした。
「くぅ~ん」
「お疲れ様、よしよし……」
「きゅう?」
「え?」
ギンの問いかけに少し驚く。私の血で使い魔になっているとはいえ、触れるだけで心の内を読み取るとは。獣の感とはここまで鋭敏なのか。
「そうね、アイツのこと考えていたわ」
「わぅん?」
「な、何言ってるのよ!? 私、そんなちょろい女じゃないわよ?!」
「わぅぅ?」
「え、いや、まあ確かに嫌ってるわけじゃない、わよ? その、助けてくれたことも感謝しているし、私とまともに会話してくれたし…… で、でもそれだけ! それだけよ! たったそれだけで贔屓するほど私は安くないんだから!」
「……わぅ」
ギンの視線が痛い。哀れんだ目をしている。
「大体、私がそーゆー気になったら、迷惑なのはアイツのほうじゃない。私は吸血鬼よ、【怪魔】なのよ」
「わうっ、わうっ」
「……違うわ。アイツの反応がイマイチ薄かったのは、私にたどり着くまでの間に、異常に触れすぎて感覚が麻痺していたからよ。決して私を受け入れたわけじゃない」
そう、四日後に会うときのアイツはきっと冷静だ。真っ当な世界で普通の生活を送り、普通の価値観を取り戻した状態で私と話す。
肉体の一部を火炎と化し、体内から剣を取り出し振るう吸血鬼。化物として私は見られる。それが自然だ。
「だいたい、私。アイツを騙しているのよ?」
「くぅん……」
私を見てギンが顔を俯けた。両の手でそっとギンの顔を挙げ、目を見て話す。
「私の目的はたったひとつ、そのためにメルディーナを討つ。だから、私はどんな手でも使うわ」
ギンに語りながら、私は自身にも言い聞かせる。
「これは千載一遇のチャンス。【あの子】を開放する絶好にして無二、二度とない機会」
私はベッドから離れ、立ち上がる。休息はもう十分だ。
「まずは鴉の使い魔ね。メルディーナの奴が勝手に逃がした分、補充しないと。ギン、1ダースほどお願いね」
「わうっ!」
私の命にギンは駆けて部屋を出る。二時間もあれば調達し終えるだろう。私の血を摂取させればそれで使い魔は完成、楽でいい。
面倒なのは作戦の根幹である転移魔術、こっちは手間が掛かる。【あのコ】の手も借りつつ、並行して【怪魔】の掃討もしなければならない。鏡台の棚からメモ帳を取り出し、伝えるべきことを書く。
さあ作業に集中しよう――それでも、ふと思ってしまう。
ジドウ ミライ。一体どんな人生を送れば、アイツのような人間が出来上がるというののだろう?