【日常(ヒ ニチジョウ)その参】
とある場所、とある一室。
蛍色に灯る燭台の火が揺れる隣で、ゆったりとしたソファに【ふたり】が並んで腰掛けていた。肩を寄せ合い、横向きに置いたチェスを興じていた。
小柄な【ひとり】が黒のクイーンに伸ばした細指を、ふと止めた。ガラス張り壁面の向こう、人工の光が無数に輝く夜景の奥に佇む、巨大な黒い影へと視線を向ける。
沈黙する【ひとり】に【もうひとり】が話しかけると、
「いえいえ、何も。それより貴方の番ですよ?」
【ひとり】が微笑むと、【もうひとり】は、少し唸った後で嗄れた指でポーンの駒を掴み、1マス進めた。
「なら私もポーンで」
そう言って【ひとり】が動かした駒はポーンではなくクイーンだった。【もうひとり】は、はてと首を傾げる。
「いえいえ、間違ってませんよ? ポーンを動かしましたから。そ・れ・と」
【ひとり】はおもむろに【もうひとり】の頬へと手を当て、蛍色の瞳を光らせた。
「まったなし、ですよ」
◇ ◆ ◇
死ぬところだった。
屋敷の内で仰向けに倒れたまま、どうにか息を整える。
一体何が起きたのか。原理はさっぱり判らないが、【獣の少女】が跳び込んだ瞬間、閃光と共に旋風が巻き起こった。
逆巻く風に煽られた屋敷の刀剣は宙を舞い、風が収まると同時に雷雨の如く地上へ、俺のいた中庭に降り注いだ。
咄嗟に屋敷へと飛び込んだから良いものの、ほんの一瞬でも判断が遅れていたら、今頃俺は外でバラバラに散らばっていただろう。
身体を起こす。洋館の内部は外と同じく程度に薄暗かった。再び携帯を手に取って明かりにする。エントランスは一面に深紅の絨毯が敷かれているようだ。外見と同じく内部の構造も左右対処なのか、左右の壁に扉が一つずつ、二階へと繋がる階段も左右の壁に沿って二つある。
血痕は右の階段へと続いていた。赤の上に血は見難いが、見失うほどではない。息と音を殺し、慎重に階段を登っていく。
途中、折り返しになっている踊り場に差し掛かったとき、微かに何かが聞こえてきた。
――ガギッ…… ギギッ……
鋼と鋼を擦り合わせるような、鳥肌を誘う音だった。階段を登り切る。音はすぐ側の部屋から聞こえている。ドアの隙間から僅かに光が漏れていた。
ドアの前に立ち、息を整える。確信に近い予感があった。中の光景はきっとまた理解を超えるものだ。
だが、関係ない。【顎】を取り返すだけに集中する。遅れは取らない。
俺は覚悟を決め、ドアノブに触れ――背後の気配に振り返った。
次の瞬間、俺は全身に衝撃を受け、ドアを破って入室した。
● ● ●
不明瞭な意識の中、視界が赤く染まっていることを疑問に思う。
身体が重い。意思通りに動かない。
『グルルルル……ッ!!』
霞む意識の中で、聞き覚えのある唸り声を耳にする。
目を凝らす。【獣の少女】がいる。犬歯を剥き、抜き身の【顎】を構えていた。
『グルッ!!』
……妙だった。彼女は明らかに威嚇体勢を取っている。が、体の向きは俺ではなく、別方向を向いていた。俺は彼女の視線と【顎】の切っ先の延長線上を見た。
扉を失った部屋の入り口に――何者か佇んでいる。
でかい、とまず思った。入り口と比べるに身長は2メートル近い。体格も相応、巨漢というに相応しい体躯をしている。
顔は判らない。フルフェイスのヘルメットで隠れている。肌の露出も一切なく、上半身は分厚いジャケットとグローブが、下半身をレザーパンツと膝丈のブーツが覆っている。
全身黒一色、飾り気のない姿はまるで【影】そのものだった。
不意に痛みが走る。箇所は全身、特に後頭部が酷く割れるようだ。感覚からして、おそらく出血している。
苦痛に突き動かされてどうにか状況を理解する。俺はこいつに殴り飛ばされ、入室したらしい。
部屋の入り口から俺の位置まで5メートル弱はある。とんでもない腕力だ。腕の痺れ具合からして無意識ながら受身には成功したらしい。奇襲が完全に決まっていたら、普通に死んでいただろう。
襲われる理由は一切不明だが、あの【影】には明確な殺意がある。
【影】が一歩、部屋へと踏み込む。
『グルォオッッ!!』
瞬間、【獣の少女】が跳躍した。高く振り上げた【顎】が、天井をギリギリの高さから【影】の脳天へ叩き下ろされる。
が、部屋に響いたのは鈍く曇った肉を打つ音。メットに刃が喰いこむより遥かに先に、【影】の拳が銀髪の脇腹に叩きこまれた。悲痛な叫びと共に、小さな身体は真横に吹っ飛んだ。緩んだ彼女の手から【顎】が離れて飛び、俺の目前に突き刺さる。
壁に叩き付けられずり落ちた【獣の少女】は、ぐったりと動かなくなった。【影】はゆっくりとこちらへ向き直る。標的が俺に移ったのは明らかだった。
俺は軋む身体に鞭を打ち立ち上がる。【顎】を引き抜き、構えるが視界が定まらない。無理に動いた影響か後頭部の激痛が割増になる。
ぼやける目を凝らし、切っ先を【影】へと向ける。
【影】は足を止めた。ヘルメットへと手を伸ばし、脱ぐ。頭部が晒され――俺は呼吸を乱した。
そこには在るべきものが、顔がなかった。真球のガラス玉に真水を詰めたような、バスケットボール大の球体がひとつ、胴側から伸びるくびれた芯に支えられていた。
我が眼を疑う。頭を打った際、視覚の認識に障害を負ったか。だが、それだけでは説明の着かない事態がさらに続く。
【影】の右手が頭部(?)の球体に触れ、太い指が沈み込んだ。一旦は手首まで潜った後、引き戻された手は何かを握っていた。黒く長いそれが、音もなく球体から抜き出されていく。
そうして、おおよその物理法則を無視することで、【影】は自身の体内からドス黒い長槍を抜き出した。
咄嗟に半身を切る。風切り音と共に、一瞬前に心臓のあった位置を穂先が通過した。空を穿った刃は即引き戻され、再び突きが放たれる。眉間へ迫る切っ先を俺はギリギリのタイミングで【顎】の側面、鎬で払う。
【影】の連撃は止まらない。必要以上に間合いを詰めず、腰だめの定姿勢から、徹底して突きに専じる。機械染みた突き、引き、加速していく――捌ききれない。
俺はジリジリと後退させられた。一歩、二歩、三歩。【影】は俺が下がった分だけ間合いを寄せ、突き続ける。
四歩、背に硬い物が触れる。後がない、緊張が一瞬の判断を鈍らせる。刃が頬をかすめ浅く裂く。血飛沫が左目に、距離感を失った。
漆黒の切っ先が胴の中心へと定められた、刹那。
『グルァオッッ!!』
突如【影】の背に、何かが跳びかかった。巨躯が傾き、槍の狙いは大きく反れ、凶刃は足元の床を抉り裂く。
跳びかかった正体は【獣】だった。銀髪の少女ではなく、初めて目にしたときの銀の野獣が【影】の右腕に喰らい付いている。【獣】の牙は分厚いジャケットを易々と貫通していた。が、【影】は一切の苦悶も動揺も見せない。速やかに槍から手を離し、左手を握り固めて【獣】へと振るう。
頭を砕かれる寸前、【獣】は身を翻して躱し、着地と同時に再び跳躍。今度は左腕に牙を立てる。【影】は右手で払おうとし、【獣】はまたもひらりと躱す。【獣】は白銀の残像を引いて跳び回り、四肢へと爪と牙を立てる。
しかし、どれだけ数を重ねようと、【影】には通じなかった。程なくして動きを捉えた【影】の一撃が飛び掛かった【獣】の腹を突き挙げる。
【獣】の苦悶の喘ぎは半ばで途切れた。【影】の右手が【獣】の首を絞めるようにして鷲掴みに捕らえていた。【影】の腕力ならば、窒息よりも頚椎が潰れるほうが先だろう。【獣】の命は後ほんの数秒で終わりを迎える。
――その数秒、【影】と【獣】の両者が止まる刹那、俺は動いた。
【影】は【獣】を掲げるように、捕えている腕を上げている。開いた脇の下から胴へ、渾身をもってして【顎】を薙払い――だが、刃は空を斬った。
回避されたのではない。俺が外した、外してしまった。【影】は俺の動きを最初から知っていたかのように、迫る刃に対し捕獲した【獣】を突き出した。【獣】の胴をに触れる寸前、俺はとっさに腕を引いてしまった。
好機を逃したツケは当然のように俺を襲った。刃が外れると【影】はおもむろに【獣】を俺へと投げつけてきた。無理に刀身を操作し、体勢を崩した俺に避ける術はない。叩き付けられる【獣】の衝撃に、身体がくの字に折れる。抱えるような姿勢で、俺は背中を背後の壁か何かに打ち着けた。
後頭部に一際の痛みが走る。腹部から【獣】が崩れ落ちた。膝が笑い自由が利かない。
眼の焦点が定まらず、【影】も景色もぼやけて左右に分かれ、重なってはまた別れることを繰り返している。耳鳴りも酷い。どしゃ降り雨の中にいるかのようだ。
もはや構えることすらできない。【影】は再び頭部から槍を引き抜き始めた。あれが完全に抜かれたとき、俺は殺されるのだろう。訳の判らぬ状況で訳も分からぬまま、死ぬ。
そう思うと憤りに胸が焼けるようだった。が、それ以上に鼓動は煩く、目蓋は重い。身体は鉛のように強張り、寒気すら感じ始めている。
手詰まり。心が折れる。
『――……! ――……!!』
何か聞こえた気がした。
『―っち……! 後―……!』
いや、幻聴だ。この場に俺へ語る者などない。【影】が槍を抜き終えた。
『こっち……! 後ろ……!』
俺は――【影】が穂先をこちらに向けているのを目にしながらも。
振り返った。
そして、初めて俺は自分が何を背にしていたのかを知る。
俺が背を打ち付けたそれは、部屋の壁などではなかった。骨組みだけの黒い球体。
人間大の黒いそれは、音もなく浮いていた。格子の中では紅蓮の炎が流動し、隙間から漏れずに渦を巻いている。
その中心に、膝を抱えた胎児のように、何者かが存在した。
煌く深紅の長髪を炎の中でたなびかせ、紫の瞳で俺を見据えている。
『グウウウウ……』
噛み締めるような唸りに、俺は再び【影】へと向き直る。
俺へと向けられた槍の柄へと【獣】が喰らい付いていた。
とどめを邪魔された【影】は力任せに槍を振るい、【獣】の身体を天井、床へと容赦なく叩きつける。
凄惨な光景に目を奪われる中、再び声が響く。
『檻を……! 壊して……!』
【影】が全身を使い、槍を叩き下ろした。床面へ激突した【獣】は遂に耐え切れなくなり口を開く。もんどり打って俺の足元で止まった。
【影】の槍がどろりと溶けて形を変えていく。長槍は二本の短槍と化し、それぞれが【獣】と俺へと向けられた。
声がさらに俺へと語りかける――が、【影】の踏み込む音にかき消された。
コンマ数秒後には、串刺し死体がふたつ確定する流れだった。倒れた【獣】はもちろん俺にも躱す余裕も防ぐ術もない。
だから、俺はコンマ数秒のうちに最後の悪あがきを済ませた。何が起きるか判らない。何も変わらないかもしれない。それでも、止まったまま死ぬのは違う気がした。ゆえに声に従った。
絞れるだけの力を込めて反転し、【顎】で水平に弧閃を描く。
鋭く重い刀身が檻の格子に触れた瞬間――視界が鮮やかに燃え上がり。
運命を変えた。
檻の内から炎が放たれ、俺を飲み込む。
渦巻く火流に囚われながら、不思議なことに熱も痛みも感じない。荒ぶる火炎の怒涛は俺の身体を滑るように背後へと流れ続ける。
紅蓮の煌きに魅せられるまま、後ろを振りを向いた俺が見たものは、全身を火炎に飲まれ深紅に染まる【影】の姿。無傷の俺とは正反対に、【影】は炎に纏わりつかれ、焼き焦がされていく。
【影】は燃え盛りながら、なおも俺へと短槍を向ける。だが、赤き奔流はさらに勢いを増して【影】の巨体を押し始め、ついには【影】を部屋の外まで吹き流した。
僅かの後に、落下音が重く響く。手すりを突き破って消えた【影】は、一階のエントランスに墜落したようだった。それと同時に、部屋の一面を覆い尽くしていた炎も一瞬で消え失せる。
俺は――茫然とする他なかった。血と酸素が欠乏した頭で、理解できたことはひとつ。
どうも、助かったらしい。
緊張の緩みから足が哂う。体勢を保てず後ろへと倒れかけ――背をぐっと、何かが押し返した。
「何をフラついてんのよ」
同時に愛想のない呟きが鼓膜を揺らす。
振り返ると、檻は跡形もなく消えていた。代わりに一人、憮然とした表情で俺を支えている。
紅蓮の長髪、鋭く紫に光る瞳。檻の中から俺を見つめていた少女がそこにいた。
「ジロジロ見ないで」
不機嫌そうに呟かれたので、顔をそらす。彼女が割と妙な格好をしているので、つい不躾な視線を送ってしまった。朧な記憶が確かなら、檻の中の彼女は全裸だったのだが、今は不可思議なドレスを身に纏っている。
肩出しの上は、繊維の代わりに細かい鎖を編んだかのような鋼の質感をし、下の膝丈スカートは無数の刃を鱗のように重ね合わせたような外観。上下合わせて鎧のようにも見える。肘まで覆う手袋と、膝上まである靴下にも鋼板が編み込まれ、有り体にいってしまえば無骨、唯一の飾り気である逆さ十字の髪飾りも、良く見れば剣を模しているようだ。
「……だから、見んな」
横目で窺っていたことがバレ、ジトと睨まれる。
思わず一歩、引いた右足が膝から曲がった。力が入らない。
思った以上に後頭部の出血は激しいようだ。せっかく助かったというのに……
――ぺち
後頭部にそれまで感じていた痛みとは別のものが走る。思わず呻くと、後ろから肩を押さえられた。
「動かないで、ずれる」
いつの間にか、少女は俺の背後を取っていた。俺を押さえ込み、ぐいぐいと傷の上を圧迫してくる。溜まったものではない。激痛で目玉が裏返り、さらに零れそうだ。
「……終わったわよ」
少女の手が離れた。ほうほうの体で俺は彼女から距離を取る。
「ちょっと、そんな風に動いたら取れちゃうでしょ」
取れる。俺に何か着けたのだろうか。
「……ふん」
俺の質問を無視し、少女は床に倒れ伏している【獣】へと歩み寄り、血塗れの身体にそっと触れた。
「ありがとうね」
静かに声を掛け、彼女は懐から紙幣サイズの薄い紙を何枚か取り出すと、それを【獣】の傷へ貼り付け始めた。紙、いや札には赤い奇妙な模様が描かれている。
『くぅん……』
【獣】が子犬のように鼻を鳴らし、少女はそっと【獣】の顎の下を撫でた。
俺はその光景を見ながら、自分の後頭部に指を伸ばした。思った通り、傷の上に何か薄いものが張られ、出血を止めている。心なしか、痛みも立ちくらみも軽減されている気がした。彼女は、俺を治療してくれたようだった。
「何、悪い?」
以外に思う俺に、少女は不機嫌そうに反応した。
「……それ、あんま弄ると取れるから」
ぶっきら棒な物言いで忠告し、少女は立ち上がると指を鳴らした。パチンと乾いた音が響くと同時に、薄暗かった部屋に照明が灯る。仕組みは判らないが、今のアクションひとつで屋敷中の灯が着いたようだった。
「何驚いてんの? コレくらい普通でしょ」
普通の定義が乱れる。
「で、アンタ誰? 所属は? もしかしてフリー?」
少女は何の前置きもなく質問をしてきた。意味も意図も判らないが、とりあえず名前と所属している高校名、あと学年を答える。
「は?」
少女の細いまゆ毛がハの字に傾く。説明が足りなかったのだろうか。俺は部活はしていないことと出席番号が4番であることを補足する。
「いや聞いてない。って、そうじゃないわよ! え? 何? アンタまさか一般人?」
芸能人ではないことは確かである。
「あんた、ふざけてんの?」
よくあることなのだが、今回に限らず俺が真面目に返答をすると、しばしば同じような反応を返される。なぜだろうか。
少女は臭いものでも見るような顔をして、俺と【顎】を交互に見やる。その後、眉間に人差し指をあてて難しい顔をした。
「一般人……?」
何やら悩んでいる様子だった。
「……まあいいわ、ミライ。あんたは何故ここに、そしてどうやって来たの?」
何故、それは【獣】に奪われた【顎】を取り返すためであり、どうやってかは――上手く説明できない。追跡しているうち、途中に色々と理解不能な出来事にあった末に辿り着いた。
「……そ」
言うと少女は、俺を脇を抜けて部屋の出口へと歩き出した。聞くだけ聞いて放置する気なのかと抗議する。
「うっさい。いいからあんたは、私が戦っている間に出て行きなさい」
随分な言われようである。しかし、戦うとはどういうことだろうか。
「さっきの奴よ。あれ、ほとんど無傷なんだから」
有り得ない。あれだけの炎に焼かれ、高所から転落して無事なはずがない。
「ここまで散々あり得ない目に合ってきたんでしょ、それを言うの?」
そう言われてはぐうの音も出なかった。
「屋敷を出たら真っ直ぐ走って、とにかく走って。息が切れても、気配や視線を感じても無視して走って。余計なことしなければ壁にまで辿り着くから。後は入ってきた時と同じように隙間に触れれば出られるわ」
少女は説明しながら扉の消失した出入り口へ歩みを進め、途中で脚を止めると何かを拾うなり俺へ投げた。緩い弧を描いて飛来する長いそれを、俺はどうにか受け止める。
覚えのある手触り――【顎】の鞘だった。
「頭の心配されたくなかったら、今日の事は喋らないほうがいいわ」
忠告し、少女は俺に背を向ける。
「……檻から出してくれて、ありがと。じゃ」
呟きのような小さな声で、最後に彼女は感謝を口にし、駆けて部屋を出た。
焼けて失われた手すり部分から飛び降りて、俺の視界から消える。直後、鋼が克ち合う甲高くも重い音が響き伝わってくる。
呆然としている場合ではない。俺は【顎】を鞘に納め、未だ痛む身体を叱咤して彼女の後を追い部屋を出る。
一階の状況を把握するために、彼女が飛び降り場所から下を覗く。瞬間、炎が眼下から巻き上がり天井にまで達した。思わず怯む。
火炎は数秒で収った。もう一度、階下を覗きこむ。
「はぁぁアアアアアアアア!!」
裂帛の気合と共に、少女が【影】へと突撃していた。装甲付きの右手には細身の直剣が握られている。形状から突きに特化した得物のようだった。
少女を迎え撃つ【影】は、その外見が大きく変化していた。全身に纏っていた黒色の装備は全て焼け落ち、内に隠れていた身体が露出している。
球体の頭部と同じく、その全身は光を湛える半透明。外観は中世の騎士甲冑を思わせる堅牢な外観をしていた。動く水晶の鎧――頭部を見た時点で理解はしていたが、どう見ても人間ではない。冷静に遠目から観察している分、相対していた間よりも不気味に思う。
【影】は短槍とは違う新たな武器、三日月型の刃が左右対象に設けられた柄の長い斧を取り回していた。真っ正直に突っ込む少女の脳天へ、刃が叩き下ろされる。
「っ!」
迫る刃を少女は直剣を頭上に掲げ受け止めた。細い刀身が悲鳴を挙げ弓なりにたわむ。【影】は腰を入れ、さらに長斧を押し込んでいく。
「……っ! 【鬣】っ!」
重圧に耐えながら、少女は叫ぶ。刹那、彼女の深紅の長髪が眩く輝き、紅蓮の炎と化した。火炎は一瞬の内に膨れ上がり大蛇の如く荒ぶると、長斧の刃に吹きつけ強引に押し返した。柄を伝った炎に呑まれ【影】は火達磨になりながらバランスを崩した。
「ぜやアアアアアアア!」
好機と見た少女が跳び、球体の頭部へ直剣を振るう、が。
――ビギィンッ……!
折れた。細身の刀身は斧を受けた時点で限界を迎えていた。頭部を庇った【影】の腕に当たった瞬間に、刃は中程でふたつに分かれた。
「ちっ!」
舌打ちする少女の着地を狙い、【影】は片腕で長斧を薙ぐ。
「【鬣】っ!」
叫びに呼応し再び長髪が火炎の渦と変化する。吹き付ける灼熱に刃は押し戻された。少女は後退し折れた直剣を投げ捨てる。床に落ちた瞬間、剣の残骸は黒く溶けて消えた。
空になった手を少女はどういうわけか胸に当てた。すると装甲と掌の合間から黒い輝きが漏れ――胸から離したその手には、大きく反った曲刀が握られていた。
「だァアアッ!」
少女は力任せに長斧を跳ね上げ、ガラ空きなった【影】の胴へ、振り下ろし気味に刃を突く――が、あと紙一重で届かない。少女の伸びきった腕を長い柄が払う。肉を打つ鈍い音と共に、少女の手から曲刀が離れた。
「た、【鬣】ッ……!」
苦悶に顔を歪めながら、搾り出すように少女は叫ぶ。追撃よりも一瞬先に、炎と化した髪が【影】を制し、その隙に少女は再び胸に手を当て、今度は身の丈ほどの大剣を取り出す――
少女と【影】の戦い。一見は拮抗している。が、少女の扱う炎は回を重ねるごとに威力が落ちていた。少女の剣の技量と【影】の長斧の練度は、比べるまでもなく後者が上であり、その差を炎が誤魔化しているに過ぎない。もし、このまま炎が弱まり続け、果てに失うのであれば、後は【影】の独壇場だろう。地力の差が大き過ぎる。三合あれば決着するだろう。
俺は視線を屋敷の出口へと向ける。扉は大きく開いていた。狙ってか偶然か、少女は玄関口とは反対の壁際で戦っている。今ならば、容易く屋敷を抜けられる。
だが、その後、彼女はどうなる――?
『グル…… ル……』
不意に、腕の鞘が引っ張られた。
顔を向けると【獣】がいた。俺から奪うつもりなのか、鞘の端を咥え、何度も首を使って引いている。だが、俺が軽く力を込めただけで、あっさりと【顎】は開放された。
『グルルルゥ……』
獣は一度、弱弱しく唸ると、緩慢な動きで移動を始めた。向かう先は下り階段、たった数メートルの歩行ですら満足に行えず、右足から崩れて倒れた。倒れたまま、足を掻いている。
止めた方がいい、塞がっている傷が開く――言いかけて、はっとする。人外に話しかけようとした事もおかしいが、何より【獣】に対して気遣いを覚えている自分に驚いた。
こんな場所で死にかけた、そもそもの原因はこの【獣】である。恨みこそすれ情を示すなどないはず――だが。
俺は後頭部に触れる。血を止めている札はじんわりと熱を帯びていた。少女が貼ったこれのお陰で、大量出血による昏倒及び出血死は回避されている。
この礼くらいは、していいはずだ。
◆ Third person ◆
少女の息は荒く、大剣の刃は所々が欠損していた。無闇に打ち込み、やたらに受け止め続けた結果だった。
相対する【影】の長斧は無傷。どれだけ粗暴に扱い破損しようと、腕から伝わる透明な液体が端から箇所を修復してしまう。
――ギィンッ!
「あぐぅ!!」
大剣は砕け、破片の散弾となって少女を襲った。頬や肩に傷を負い、立ち竦む少女へと【影】は長斧を水平に構える。
「たて…… がみぃッ!」
苦し紛れの叫びに呼応し、少女の長髪が輝く。だが、それも一瞬のこと。細かい火の粉が散るのみで炎は生まれなかった。
「そん、な……」
紫の瞳が絶望に揺れる。【影】の薙ぎ払いはすでに放たれていた。正確無比の一撃が胸部へと迫る。
「っ……!!」
避けられない。少女は目蓋を閉じる。
――ガギャィィィッ……!
「……え?」
鋼を引っ掻くような異音。少女は目を開け、眼前の光景に息を呑む。
少女と【影】の間に、割り込んだ者がいた。
彼女の胴を狙った斧の刃は、すれすれで止まっている。割り込んだ者が両手で握る異形の野太刀、その側面で長斧の柄を受け止めたからであった。
而道巳禮が少女を守った。
「な、何をしてんのよっ?!!」
戦いに集中していた少女は、巳禮はとっくに脱出していると思っていた。ゆえに怒鳴った。が、巳禮は答えない。今の彼にその余裕はない。残る力を搾り出し、受けている刀身を反時計回りに押し倒す。【顎】の鍔と柄の境に引っ掛かけられた長斧の柄は、されるがままに下へと降りる。
間髪入れず巳禮は踏み込む。【顎】の厚き刃が長い柄の上を滑るように迸る。
長斧の自由を殺しつつ、間合いを詰めて一閃が放たれる――その刹那、巳禮の口から血泡が噴出した。
ぐらり、傾く巳禮はそのまま糸が切れたように床へと崩れる。
【影】は――何事もないかのように立っていた。
「……っ!!」
少女は咄嗟に、自身の胸に手を当てる。が、剣を抜く手は途中で止まった。
即反撃に出ると思われた【影】の様子がおかしい。胸部の装甲が、斜め一文字に斬り開かれている。
巳禮の刃は【影】に届いていた。その事実に少女が気づく――それとほぼ同時だった。
――ギィイイイ♯イイ♯♯イイ♯イイいいイ♯イイ♯♯いイイッッ!!
限界まで張った鋼線を鋸で引くような、怖気を誘う怪音が屋敷中に鳴り響く。
音の出元は【影】だった。音の荒波に合わせて、球状の頭部は歪にひしゃげて何度も形を変えていた。もがき苦しんでいる、少女にはそう思えた。
突然、【影】が大きく後方へ跳ぶ。
「っ! 待て!」
【影】が撤退する気と察した少女は再び胸から剣を抜こうとする。が、それより速く【影】が長斧を投げつけた。高速で横回転し迫るそれを、少女は抜き放った刀で力任せに叩き落とす。甲高い音とともに刃が欠けるが、構わず追撃しようとし――真上から迫る何かを感じ、とっさに飛び退く。
――ガシャアアアアアアッ!!
砕けたガラスと金属片が、四方八方へと飛散する。少女の視界の外、頭上から落下してきたそれは屋敷のシャンデリアだった。【影】は長斧を二つに割り一つを少女へ、もう一方を天井から下がるシャンデリアへと投擲していたのだった。
「小癪なッ……!」
少女は残骸を飛び越えるが【影】の姿は既になく、大きく開いた扉が揺れているのみだった。
「……っ」
少女は歯噛みし床を蹴りつける。手にした刃欠けの刀が黒く光り、細かい粒子と化して彼女の胸へと流れて消えた。
少女は振り返る。彼女の視線の先には巳禮が倒れていた。少女は彼に歩み寄ると、隣で片膝を着き、手首に触れた。脈の確認、ややあってため息を吐く。
くたりと腰を下ろし、少女は眠る巳禮の横顔と、彼の握る物騒な代物を何度も見返し、ぽつりと呟いた。
「何なのコイツ……?」