【日常(ヒ ニチジョウ)その弐】
約60年前のこと。東京都新宿区にて、テロに起きた。
新宿の一角で未知の病原体が散布され、二次災害の火災がビル風に乗って螺旋を描ぐ。そのあり様はこの世の地獄だったらしい。
辛うじて新宿駅は範囲を免れたが、新宿御苑前駅、新宿三丁目駅、千駄ヶ谷駅、四谷三丁目駅といった周囲の駅が軒並み使用不能になった。人的被害も経済的損失も過去の大震災と匹敵したという。
病原体の解析は困難を極めた。唯一、日光がなければ緩やかに死滅することがのみが判明し、1メートルを超える圧さのコンクリート壁が病原体に犯された一帯を覆った。
事態が一応の収束を見せた後、使用不能となった駅と接続していた線路は全て引き直され、改めて新宿駅へと再連結した。
数十年を掛けた復興が終わったその日、痛ましい過去を乗り越え、人々が新しく踏み出した記念として新宿駅は【新々宿駅】と改名した――と、俺は授業で聞いた気がする。多分。
復興10年を記念した式典が、近々開かれる【新々宿駅】。その地下道、JR線に繋がる改札口前に俺はいた。絶えず流れる人波から時折視線を感じるのは、腕に抱えた長い包みが目立つからだろう。
その視線の中から、チラ見ではなくガン見のものを感じて顔を挙げる。改札口の向こう側、こちらへと歩いている着物姿で小柄な女性がいた。目と目が合うとぴくんと反応し。
「っ! っ!!」
こっちだと言わんばかりにブンブンと手を振り出した。と、着物の袖が隣を歩く中年サラリーマンの顔面にべちんと当たった。人ごみの中で手を振れば当然そうなる。眼鏡と頭髪がじいさんズレたリーマンに睨まれ、彼女はぺこぺこ頭を下げる。
頭を下げることで突き出した尻が、横を通り抜けようとした別のサラリーマンに当たった。反動で女性の身体は頭から前へつんのめり、中年サラリーマンの鳩尾目掛けてロケット頭突きが放たれる。「うップ!?」とリーマンが苦悶の表情を浮かべたのが、遠目からでも窺えた。片膝を着き、うめくリーマンの頭髪がさらにズレて、肌色の半月が晒されている。女性が慌てて彼の頭へと手を伸ばした。おそらく元の位置に直そうと、とっさの行動だったのだろうが、女性の指が毛の端を摘んだ瞬間、狙ったかのような間の悪さでリーマンが顔を挙げた。結果、怒れるリーマンの表情は、完全にズレ落ちた頭髪で覆われ――
数秒後、何が起きたか理解したリーマンの悲鳴が、改札口いっぱいに反響した。
× × ×
「うう、とんだ迷惑をかけてしまったですよぅ……」
駅直通の地下街、その一角のハンバーガー屋で、俺は着物の女性――茉莉を慰める。
「できれば助けに来てほしかったですよぅ、保護して欲しかったですよぅ……」
年齢を考えろと言わざるを得ない。
俺と比べ頭二つ半は小さい上に、顔つきも声もおっとりしている茉莉。外見年齢こそ十代前半だが、実年齢は二十歳を過ぎている。年長者としても、幼少期から自分の面倒を見てくれた姉代わりとしてもう少し、本当に後ほんの少しで良い。しっかりして欲しい。
「あうう、若が冷たいですよぅ。都会の荒波は若から温かみをそぎ落としてしまったのですね。しくしく、さめざめ、はみはみ」
泣きながらパテとチーズが増し増しなバーガーに喰らい付き、
「ごっきゅん」
三口で終えた。早い。俺はコップの水にすら口を着けていない。
「ご馳走様でした~ですよぅ」
ぽんっと手を合わせ、茉莉は頭を下げる。聞いちゃいない。
「ふぃ~、村にはこんなお店ないですから、ついガッついてしまったですよぅ」
先ほどの落ち込みようは何処へやら、すっかり機嫌は元通りである。まあいい。良くも悪くも相変わらずで安心する。
「そですか? えへへ、でも最近、ちょっとバストアップしたですよぅ」
ん、んんっん。と、俺は何も食べていないのに、むせかけた。
「若ったら、じっと見るのはえっちですよぅ」
茉莉は一人で盛り上がっているが――いや、和服は身体のラインが目立ち難い。バストアップしたと言うのだから信じようと思う。それに、茉莉を呼び足したのは、顔を見るためでも、ハンバーガーをご馳走するためでも、ましてやどうしようもない胸を拝むためでもない。
倒れた祖父さんの墓、その金を工面する。これが本題だ。が、
「本題?」
茉莉は首を傾げた。
「あ、ああ! も、勿論ですよぅ! ちゃんと判子と保険証。持って来たですよぅ!」
素で忘れてきたかと心配した。杞憂だったようだ。
「し、心配っていう目つきじゃなかったですよぅ……」
俺は何か、と問う。
「な、何でもないですよぅ?!」
ブンブン手を振るって否定したあとで、茉莉は再び首を傾げて質問してきた。
「あの~、若? 徹芯サマのお墓の費用、当てがあるのですよね?」
肯定する。
「それで、茉莉の判子や保険証が必要になると?」
肯定。
「う~ん???」
頭を捻る茉莉。さてどう切り出したものか。頭を整理しつつコップに口をつける。
冷えた水を口に含み、嚥下する瞬間。
「ま、まさか身売りですぅ?!」
茉莉が素っ頓狂な声で、とんでもないことを言い出した。
他の客、定員の視線が殺到する。俺は俺で咄嗟に手で口を押さえたが、健闘むなしく鼻から噴水した。
「あうあう?! 茉莉はこれから都会の闇に沈むのですよぅ?! いい、いくらお胸大きくなったからっててって見知らぬ殿方を相手をするのはあわわ泡、泡ですようぅ?!」
有り得ないので落ち着くように言い聞かせる。
「え、ないのです? ええと? え、えとえと??」
実に心外である。流石にそこまで鬼畜外道に堕ちた覚えは無い。飲めなかった水を今度こそと口に含む。
「茉莉は売られない……? それじゃあ、若が沈むですよぅ!?」
再噴射。鼻と口、両方から満遍なく飛び散った。
「たたた、確かに若の若々しくも鍛え抜かれた肉体は、一部の需要を満たしまくっているとは思われますですぅがががががが?!」
いい加減にして欲しい。人差し指で茉莉の額を小突く。
「あうっ。ち、違うですか? でも、じゃあ何のために判子いるですよぅ?」
俺はちらりと、側の壁に立てかけた包みを見てから答える。
「え? 物を質に入れるですか?」
頷く。未成年の俺だけだと色々問題がある。だから茉莉を呼び出した。
「なるほど、茉莉は大人のれでぃですからねぇ」
茉莉は納得したようだったが、すぐに腕を組んで「うーん」と唸った。
「若の考えは判りましたですよぅ。ただ、お墓は石だけでもウン百万とかするですよぅ?
そんな纏まったお金になるもの、どこでどうやって手に入れたですよぅ?」
俺は――僅かな沈黙の後、脇にある包みが何か判るかを訊く。
「へ? それはもちろんですよぅ。布で包もうが箱の中にあろうが茉莉にはちゃんと判りますとも。徹芯サマの形見、【顎】ですよぅ」
その通り。俺がこちらに来る際、茉莉が家族には秘密で俺に譲渡した品。小難しい届出などは済まされ、所有者の名義は俺になっている、はずだ。
「はい。徹芯サマがお隠れになる一年前に。茉莉が色々手続き頑張ったですよぅ」
確認が取れて安心した。俺はぐっとコップ中身を呷り、空にする。
「……あの、若?」
茉莉は笑顔だ。ただ、少しぎこちない笑みで俺に訊ねた。
「今日、この場に【顎】を持って来ているのは、その、あれですようね? 都会の夜は物騒ですし、いざという時のための備え、ですよぅ?」
俺は首を横に振る。多少は危険もあるだろうが、少なくとも『あの森』ほどではない。
「で、でも、こわーい人達、いるですよぅね?」
近寄らなければ基本、無害である。
「でもでも、あっちからインネンつけてくる可能性も」
素手で事足りる。
「じゃ、じゃあ……」
茉莉は引き攣った顔で、消え入るように言った。
「なんで…… お金を工面する相談の場に…… 持ってきたですよ……?」
俺は茉莉の目を見た。それだけで、茉莉には伝わる。伝わってしまう。
空気が急速に冷えていく。
「ダメですよ」
茉莉は伏せ顔で頭を左右に振る。
「イヤですよっ」
耳を塞ぎ、更に激しく拒否を示す。
「絶対にダメですよぅ!!」
茉莉が叫ぶ。同時に彼女の腕がテーブルの上を薙いだ。弾き上げられたトレイが、俺の顔へと迫る。
鼻先に当たる寸前で受け止めた。だが、その隙に茉莉はテーブル越しに身を乗り出し、包みを抱えると椅子を吹っ飛ばして駆け出していた。
拒絶はすると思っていたが、ここまでとは。俺は急いで後を追った。
茉莉は小柄な身体を活かし、人と人の間をするりするりと抜けていく。大きな荷物を抱えているにも係わらず、改札前で見せたドン臭さは微塵もない。ほぼ365日、山中で生活を送っている茉莉の足腰は強靭だ。一方の俺は茉莉には通れる人と人の隙間が、肩幅の差で通過できない。追いつくどころか、引き離されなず踏ん張ることで精一杯。
と、いきなり茉莉が大きく左へと曲がった。近くの改札口から人が溢れるように流れ込んできている。流石に抜けられないと判断したのだろう。地上へと繋がる、細く急な階段を茉莉も俺も2段飛ばしで駆け上がって行く。
出た先は繁華街の外れだった。日はすでに暮れている。照明だらけの地下道や、ネオンで溢れる繁華街のど真ん中と違い、ぽつぽつ並ぶ街灯とビルから漏れる照明のおこぼれだけが灯りで、薄暗い。
茉莉は横断歩道を渡り、両側面に植え込みが設けられた緑道に入った。だが、緑道は人もまばら、障害物を抜きにして純粋な脚力なら、俺に分がある。それにそろそろ――
「うっ!? うう……」
突然、茉莉は苦しそうに呻き速度を落とした。走りは歩きに変わり、それでも懸命に足を動かしていたが、
「お、お腹が…… 痛いですよぅ……」
言って茉莉は腹部を押さえ屈みこむ。丁度、胃袋の辺りである。食べてすぐ走ればそうなる。水だけの俺とは違う。むしろよく持ったほうだと感心しつつ、歩いて近づく。
「っ! こ、こないでくださいですよ!」
振り返り茉莉が言い放つ。
「これ以上、寄ったら思い切り叫ぶですよ! ここは森でも村でもないから、茉莉のような除け者の叫び声でも、誰かが110番くらいはしてくれるですよぅ!」
涙を浮かべ包みを抱える茉莉の目は本気だ。足を止める。
「若は本当に変わってしまったのですよ! 徹芯サマの形見を質に入れるなんて! お金は必要ですよ?! でも、でもっ! これはダメですよっ!」
茉莉の頬に涙が伝う。
「若は! 若は! 徹芯サマのこと嫌いになったのですか!?」
俺は首を横に振る。
逆だった。今も昔も祖父への気持ちは変わらない。だからこそ、金にする。
その金を墓にして、祖父へと返す。
「で、でも! そしたら【顎】は見知らぬ誰かの物になるですよ!? 茉莉はそんなの嫌ですよぅ!」
それについては思うところもある。だが、そもそも俺自身、【顎】を所有する資格があるとは思えない。一年前に自信を失った。
「一年前、ですよぅ……?」
茉莉は覚えているだろうか。俺が田舎を出て都会の学校に通い、独り暮らしを始めた理由を。
「それは、勿論ですよぅ…… でも……」
茉莉は辛そうな顔をした。当然か、俺が里を離れ、一人で生活をした理由とその結末を彼女は知っている。どうしようもない結末を知っている。
俺は失敗した。たった一ヶ月で。あるいはその失敗がなければ、父も今よりは祖父に寛容だったかもしれないと、そう思えてならない。だからこそ、俺は責任を果たすためにも【顎】を――
俺が説得の長丁場を覚悟した。その時だった。
直ぐ右、緑道の植え込みから葉の擦れる音がした。無風だというのに。
「ふえ?」
茉莉との会話が途切れた。
再び茂みが揺れる。気のせいではなかった。街灯の灯火が届かない草木の奥で、横に並ぶの何かが二つ。月色に光っている――目が、茉莉を見ている。
瞬間、俺は茉莉に掴み掛かった。全身を使い引き倒し、俺も地面に倒れこむ。ほぼ同時に、頭の上を大きな何かが、細かい枝葉を撒き散らして通過した。
「っ!? あわわわわっ?!」
俺の上にうつ伏せになった茉莉は、呑気なことに顔を真っ赤にして目を回していた。
「ななっ? 若っ! いきなり押し倒すとかそんな場合じゃ?! 今なにかがガサガサいってたですよぅ?!」
その【何か】から守れたようで何よりだ。立ち上がり、茉莉を引っ張り挙げる。本当にどこにも怪我がないか確認をしたいところだが、今は無理だ。
『グルルル……』
獣だ。俺達の目の前で、四足の獣が牙を剥いている。銀色の毛を逆立たせ、血走った瞳を燃やしている。
「わ、若?! オオカミ?! オオカミですよぉ!? こっち睨んでるですよぉ!?」
いや犬、のはずだ。ニホンオオカミは絶滅している。仮に現存していたとして、東京のど真ん中にいるとも思えない。
だが、獣の発する威圧感は確かに犬のそれではなかった。異様だった。体長およそ1メートル強と、さして大きいわけではないにも関わらず、鋭い双眸から向けられる視線にさらされているだけで、まるで脳天に爪を掛けられたているような、血の気の引く感覚に因われている。
鋭い三角耳が神経質にヒクついている。剥き出した爪を路面に喰い込ませ、食らいついたら千切るまで離れないであろう牙の隙間から、荒く息が漏れている。
圧倒的な獣性、犬とも狗ともつかぬ、正に【獣】だった。
「あ、あの」
嫌な汗が俺の頬を伝う中、背に匿った茉莉が極力声を抑えて耳打ちしてくる。
「その子、足を怪我してないですよぅ……?」
茉莉の指摘は、その通りだった。【獣】の右前足は不自然に赤黒く変色し、体毛を伝った鮮血が地面を濡らしていた。
『グルォオオオッ!!』
気を取られた刹那、獣が跳躍した。剥き出しの爪を振り上げ、被さるように飛び掛ってくる。
背には茉莉が。避けることはできない。
左腕を横に、肩と肘の関節を固めて顔面を庇う。右手は人差し指から小指までを伸ばして束ね、貫手を形作る。
あえて差し出した左腕に、獣は裂けんばかりに口を開いた。噛み付く瞬間、その喉元を貫手で突き上げる――が、貫き手は空を切った。
左腕には確かに感触があった。それは牙に肉を挟み潰される激痛でも、爪で縦に裂かれれるそれでもなく、重しを乗せられたかのような――
極限に高まった集中状態、緩慢に流れる時間の中、俺は宙を見上げた。
月明かり背に、俺の左腕を掴んで逆さに立つ『者』がいた。俺が『支えて』いたのは銀の毛並みを持つ獣ではなく――夜の風に銀髪をなびかせた――
目を疑った刹那、俺は後頭部に強い衝撃を受ける。視界が泥のように混濁する。
【獣】――のはずのそれは、俺の固めた左腕を踏み台に、軸にして前転したのだった。下から迫る貫き手から逃れると同時に、回転の勢いを乗せた後ろ足、俺の後頭部を蹴り付けた。それが俺が鈍る思考でギリギリ理解できたことだ。
「きゃう!!」
―ーガラッ……
背後から聞こえる茉莉の悲鳴、続けて何かが落ちた音。立ち眩みを堪えて振り返り、血の気が引いた。
茉莉が倒れている。俺は彼女の体を抱え、呼びかける。
「あ、あうう……」
茉莉が締りのない声で呻いた。外傷はない。単に倒れただけのようだ。
胸を撫で下ろす。が、強い視線を感じ俺は振り向いた。そして、もう一度青ざめることになる。
俺がみた『者』は単なる誤認でもなければ、月光が見せた幻とも違う。
信じ難い真実だった。
腰まで伸ばした銀髪を揺らし、真っ白な肌に純白の薄着一枚纏った少女が、俺の【顎】を胸に抱き、こちらへと視線を向けている。
俺が叫ぶよりも先に、確かに【獣】だったはずの少女は反転し、駆け出した。【顎】の重量を感じさせない、素早い走りで瞬く間に離れていく。
「ふ、ふへ、若? あ、あれ? オオカミは? 夢だったです?」
帰って待機しろ。俺は茉莉に言いつけアパートの鍵を押し付けた。
「え? 若!? 若ぁ!??」
茉莉の叫びが背に当たる。
俺は独り、夜闇の奥へと消えいく【獣の少女】の後を追った。
※ ※ ※
夢であってほしい。
そう思ったことは数あれど、今回ほど切実なものは1年ぶりだ。
いや、本当に夢以外なんだと言うのか、誰でも良いから説明して欲しかった。
両道で【獣】に襲われ、【獣】が少女に変化し、【顎】を奪って逃げ去ったので、俺はその後を追っている――状況を整理してこれだ。むしろ混乱しそうだ。俺が走りながら思考しているからいけないのだろうか。そんな些細な問題ではない気がする。
少女の足は異様に速かった。それこそ人間と野獣の差、生物としての埋められない違いを感じずにはいられない速度だった。それでも追跡ができたのは少女の残した痕跡、滴り落ちた血痕のおかげだった。
とにかく【顎】を取り戻さなければ、その一心で路地を駆ける。どれくらい走り続けただろうか、周囲の風景が変わってきた。闇夜の補正を抜きにしても物寂しい、都会の住宅地と思えぬ粗雑な、あるいは単に安っぽい家々が目立ち始める。
ほとんど人の気配すらない。薄汚い路地の角を曲がった途端、目前に鉄条網が現れた。
見れば下部が破れ、その下を血痕が通り抜けている。先には舗装されてない砂利と、枯れ草の荒れた地、その先は一層に濃い闇が広がっていた。
俺は迷わず金網を抜けた。が、数十歩で足を止めざるを得なくなる。
俺はひとつ誤解していた。先に広がる無間の闇と見まごうたそれは、重厚という言葉が陳腐になるほどの、視界に収め切れない巨大な壁だった。頭を挙げ、倒れるほどに身を反らしても終りが見えない。
巨魁。こんな代物はこの都市に、この国に、いや世界に一つしかないと言い切れる。
【旧新宿区】。俺は少女を追ううちに、隔離地域の目の前にまで来ていたのだ。60年前に病原体に汚染され、封鎖された区画。その内側は、今もおそらく――
俺は唾を飲み、足元を確認する。血痕は真っ直ぐ続いていた。辿ると血は壁面で途切れている。辺りを見回しても、横に反れた痕跡はない。
まさか登ったのか。この垂直に近い上に、見る限り指をかけれるような窪みはおろか、傷も見当たらない壁を。
俺は壁を調べるため、携帯を取り出し、画面の明かりをライト代わりにした。普通にライトの機能もあるらしいのだが、よく解らないので仕方がない。
上下左右、周囲を照らして見つけられたものはひとつだけ。壁の下側、幅1ミリ長さは5センチ程の亀裂が走っていた。だが、別に気にするほどのものではない――いや、妙だ。
壁に他の傷がないことは先ほど確認したばかりだ。何故ここだけにあるのか。
しかも、よく見れば定規で引いた線のように、直線かつ地面に垂直に割れている。自然発生したにしては不自然で、亀裂というより隙間だった。
屈んで手を伸ばし――戦慄する。
指先に、僅かだが、風の流れを感じた気がした。
ありえない。あってはならない。もし、風が通っているのなら【旧新宿区】は完全には封鎖出来ていない。つまり、閉じ込めている病原体が漏れている可能性がある。
勘違いであって欲しい。その一心で俺はもう一度、隙間に指を伸ばし、触れた。
……何も、感じない。
胸を撫で下ろす。気のせいならそれで良い。俺は再び獣の少女を探すため、立ち上がって辺りを見回そうとし――できなかった。立つ途中で、右腕がつっかえた。指先が隙間から離れない。
左に持った携帯で右手を照らす――俺はまばたきをして、より明かりを近づける。見間違いを疑ったためだ。
薬指の先端が爪の根元まで、隙間に入っている。1ミリほどの隙間に。
何を悠長なと自分でも思うが、痛みはない。触れたときと変わらず、違和感も何も感じない。感覚もちゃんとある。
不意に体が傾く。抗い難い力で、薬指からいっきに隙間の内側へ引かれた。バランスを崩した瞬間、隙間はその狭さのまま、俺の手を呑み込んだ。
隙間に挟まった端から、俺の体は骨肉などないゴム管のように変形し、それでも痛みは微塵もない。返って恐ろしいが、俺の心情など一切無視して事態は進展していく。すでに肘まで消えた。膝を付き、前屈みになり、下手な土下座に似た姿勢になる。
飲まれればのど、吸引力は増していった。ものの数秒で肩まで隙間へ。抵抗は、無意味だった。
その後は一瞬、まるで満杯の浴槽の栓を抜いたが如く、俺は螺旋に捻れて、隙間の奥へと消えてしまった。
※ ※ ※
――ズンッ
鈍い音と衝撃が背骨を伝う。背中から勢いよく叩きつけられた。肺から空気が押し出され咳き込む。苦痛を噛み潰し、俺はどうにか起き上がる。
辺りを見回す。薄暗い、が周囲が見えないほどではない。俺は今、土の上に尻を付けている。周囲は膝丈くらいの柵で囲われ、その先には石畳が見える。さらに少し遠くには、植物のツタが巻きついたアーチがあった。
何がどうなったのか理解が及ばないが、俺は花壇の中に、それも庭園のような場所にいる。
ここは、どこだ。俺は――信じ難いが、壁の隙間に呑み込まれた。ならば、順当に考えればここは壁の内、【旧新宿区】内部ということになるが。
俺は土を払って立ち上がり、脇に落ちていた携帯を拾う。携帯の明かりは付いていなかった――おかしい。仮にここが【旧新宿区】だとしたら、僅かでさえ視界が保たれている説明が付かない。が、俺の疑問はすぐに晴れた。もっと別の、より度し難い疑問と入れ替わりでだが。
俺は見上げ、光源を見つけた。天高く、遥か上空には星空に似た、確実に違う何かが無数に瞬いていた。形容し難いが、敢えて例えるならば、藍と蒼が斑に散り填められたステンドグラスを越して眺めた天の川。透けた二色に明確に区切られた背景を背に、一等星を模した輝きが一面に広がっている。
しばらく俺は天上、いや天井を見上げ続けた。おそらく視線は定まっていなかっただろう。立て続けの理解不能な事態に、脳が処理限界を迎えた結果の忘我。自意識を取り戻したのは、数秒後か数分後か、時間単位ではないと信じたい。
我に返った俺は自分に言い聞かせた。俺の目的は【顎】を取り返すこと、その他は一切考える必要などない――そうでもしなければ、再びどうにかなってしまいそうだった。
柵を跨ぎ、生垣の迷路を抜けて石畳を進む。アーチを潜ると、芝の広がる空間に出た。右手側には赤茶のレンガ造りの塀が続き、少し先には門らしきものも見えた。
音を立てぬよう気をつけて駆け、門へと近づく。その途中で足元の石畳に見覚えのあるものを見つけた。血痕だ。門の内へと続いている。
どうやら【獣の少女】もこの敷地にいるらしい。門を抜けて、石畳を進むと噴水らしきモニュメントに行き当たった。血をなぞって右回りに迂回し、半周し――見つけた。
十メートルほど先、生垣の合間に設けられたアーチの奥に、【獣の少女】はいた。俺には気づいていないらしく、こちらには背を向けている。
俺は駆け出していた。頭の中はほぼ真っ白だった。無防備な背中を見た途端、具体的な手段は一切考えず、ただチャンスだと思った。
だが、アーチを潜り【獣の少女】が『何』を前にしているかを視認した途端、俺の意識は再び停滞を余儀なくされた。
彼女の前には古めかしい洋館があった。石柱と重々しい煉瓦で組まれた、窓の少ないその外観は小さな城のようだった。が――問題はそこではない。
俺は我が眼を疑った。屋敷は、ありえないことに、無数の剣が突き立てられていた。
無数というのは誇張ではない、数え切れない刀剣が、屋根に、壁面に、柱に、窓に、扉に。至る所に突き立ち――さらに何の冗談なのか『刺さってはいない』のである。
見間違いではない。全ての刀剣は切っ先が屋敷に触れるか触れないかの位置で固着していた。支えの無いまま、微動だにせず浮いている上、それらは仄かに、だが確かに、薄緑に明滅していた。
少女の髪が揺れる。一瞬、彼女の視線を感じた気がした。
動けない俺の目の前で、【顎】が鞘から抜き放たれる。
獣染みた咆哮が響く。少女は【顎】を高く掲げ、屋敷の扉へと跳躍し――
瞬間、眩い閃光と身を裂くほどの烈風が迸った。