【正気(キョウキ)】
「――――」
メルディーナの唱える呪文は世界に語りかける。ゆえに人には聞こえず、知れず、理解も出来ない。
彼女の愛する偉大なる芸術家は、既に闇夜を織物にしたような黒い繭に包まれている。
彼女が語る度に、はるか彼方に封じた魂が呼び出され、繭の中に消えていく。
彼女が語る度に、命と命が紡ぎ合わされる。
額に汗が滲む。碧眼から、黄金の髪から、色彩が失われていく。
己が身を削り、彼に捧げる。
この儀式で彼は生まれ変わり、彼女もまた生まれ変わる。
彼女は過去の自分と決別する気だった。魔術師でありながら、魔術を求める意味を見失っていた理由。それはきっと、どこかで何かを間違えたからだと彼女は考えた。
これからの彼女は、永遠なる彼の永久なる伴侶だ。だが、間違えればまた失うだろう。
故に彼女は誓った。何より愛しい彼に誓った。
今度は正しい道を行く。そのために儀式も手段を『選んで』行った。
「―――ー」
詠唱が終りを迎える。
彼女は酷く、色褪せていた。それでも、その双眸が見据える先は眩く輝いている。
胎動する闇の揺り篭と共に彼女は降りていく。
乗り越えるべき、敵の元へ。
巳禮と愛華の拘束は、昼に恋花が語ったように儀式の魔力へと還元され解けていた。
巳禮は【顎】を、愛華は胸から抜いた直刀を構え、空より来るメルディーナと、漆黒の塊を見据えている。
近づくにつれ、メルディーナの様子が変容していることに二人は気付く。
女神のような生気に満ちた輝きは失われ、表情も人形のように固い。髪は乱れてくすみ、
目は濁っている。顔には割れかけた陶器のように、無数の亀裂が走っている。ローブから覗く指は肉が萎縮し、枯れ枝と変わらない。
弱っていることは明白だった。だが、見下ろす瞳は闘志と殺意に満ち、揺るぎがない。
巳禮と愛華は柄を強く握り締める。気を緩めずとも、目視しているだけで死のイメージ心の隙間に侵食してくる。
やがてメルディーナは闇の塊と共に、二人と同じ平面に降り立った。胎動と共に赤く光る塊はその内に人の影を映す。光るたび、巳禮も愛華も背筋に寒気を覚える。
メルディーナが、ヒビだらけの口を動かした。
「始めましょう」
刹那、メルディーナの周囲に七色の衛星が生まれた。巳禮と愛華は左右に別れる。
二人のいた足場へ衛星の一つが着弾した。音もなく風もなく、融けかけたアイスをスプーンで抉るがごとく、コンクリは筒状に削れた。
残る衛星も撃ち出される。左右にそれぞれ三つ。撃ち尽くすと同時にメルディーナの姿は掻き消える。
迫る衛星魔弾、巳禮は【顎】を振るう。斬り落とすためではない。超重量の刃に遠心力を乗せ、身を任せての急停止。魔弾は二つ空を抉り貫き、一つは爪先を紙一重で過ぎ去った。
「ッ!」
咄嗟に【顎】を縦にする。メルディーナの薙いだ槍は、こめかみ数センチ前で防がれる。ガラ開きのメルディーナの背へ、巳禮と同じく魔弾を回避していた愛華が跳びかかる。直刀を突き出す寸前、巳禮が叫ぶ――後ろだ。
叫びに愛華は反応した。その肩を細長い穂先が貫く。
「がッ!?」
愛華の背後にも、メルディーナが立っていた。影と影で繋がっている。二人のメルディーナが互いに槍を大きく振るう。烈風が吹き荒び、巳禮と愛華は身体中に細かい傷を受けながら吹き飛ばされる。
血を撒き散らしながら、巳禮と愛華は受身を取って跳ね起きる。メルディーナの追撃はなかった。二人のメルディーナは歩んで寄り合うと、重なり合って一つに戻る。黒槍だけは融合せず、彼女は左右の槍を構える。穂先の中間点に蛍色の球体が生成される。稲妻を纏い、激しく明滅する。
巳禮は極限にまで高まった直感で、愛華は吸血鬼としての生存本能と、魔術を扱う者の知識をもってして発光体の危険性を察知する。あれはマズい。生成が終わる前に潰さねば――やられる。
二人は矢弾の如く突撃する。しかし、発光体から漏れる稲妻が両者の足を狙う。
回避は間に合うだが、球体は大きく膨れ上がり――
――ざしゅ……
湿った異音と共に、あっけなく四散した。
「……?」
メルディーナは首を傾げた。何故、発光体が消えたのか理解できていないようだった。
「え?」
愛華は唖然とした。槍を持つ右腕が、目の前に転がっている。
巳禮は茫然とした。槍を持つ左腕が、目の前に転がっている。
メルディーナは両腕を千切り落とされていた。
「ッッッ?!?!??!?!?!?!?」
声にならない悲鳴が挙がる。メルディーナが悶絶する。その背後に、誰かがいる。
それは彼女を諭すように、静かに喋った。
「騒がしいぞ。メルディーナ。起きて早々これでは転生の感慨も薄れるというものだ」
「あ、あ?」
メルディーナは振り返る。巳禮と愛華は目を見張る。
見たことのない顔、それでいて知っている貌が静かに微笑んでいた。
深紅に明滅する幾何学模様の描かれた闇の衣。輝くたびに大気が冷えこむ衣装を纏った細身で短髪長身の男。口元には黒い髯が蓄えられている。
誰よりも早く、メルディーナが彼の名を口にした。
「栄、坐……? よかった、儀式は無事に成功したのですね……」
彼女は痩せこけた頬を綻ばせた。未だに自分の身に何が起きたのか。理解していないようだった。自らが生み出した吸血鬼の全身に熱い視線を送り、彼の両腕を見て首を傾げる。
「栄坐。その手、どうしたのですか? 血だらけではないですか」
「ああ、さっきやってしまった」
「いけませんよ。手は画家の命。不死身になったからと言って、無碍に扱ってはダメですよ」
「いや、いいのだ。私はもう画家ではなくなってしまったからね」
「ふふ。何の冗談です。貴方から画を取ったら何が――」
可笑しそう微笑むメルディーナ。そのローブに包まれた胴体が、ずんと揺れる。
「残、るの……?」
「失敗だよ。メルディーナ。残念だが…… 【私達】は君を殺したくて仕方ない」
栄坐の真っ赤に染まった右腕がメルディーナを貫いていた。
鮮血滴るその手には、赤黒い結晶体――メルディーナの核が握られている。
一体、何が起きのか。巳禮と愛華は状況を理解できなかった。
吸血鬼と転生した西野老人――改め栄坐が、伴侶であるメルディーナの両腕を千切り落とし、抱きしめるようにして胸を貫いている。
巳禮と愛華、二人に判る確実なことは一つだけ、栄坐がメルディーナを躊躇いなく殺害した。
茫然とする二人の視線に晒されながら、栄坐は悠々と腕を引き抜く。糸の切れた操り人形のように、メルディーナの身体は地に伏した。
「ふむ、中々に美しいな」
栄坐は手の内に残った多面の結晶を覗く。品定めするかのように様々な角度から鑑賞し満足気に微笑んだ。ボロ雑巾のように転がる想い人の亡骸には一瞥もしない。
巳禮はぞっとする。その笑顔はまだ彼が人間だった頃に見せたものと何も変わっていなかった。
「何よ、何なの……!?」
凍りつく巳禮の横で、愛華が声を震わせ叫ぶ。
「何でアナタがそいつを殺すの?!」
激昂する愛華。栄坐は心臓の鑑賞を止め、視線を愛華に向けた。目が合った瞬間、愛華が青ざめたのを巳禮は見た。
「なぜ? などと、少し考えれば判ることだよお嬢さん。彼女は/こいつは、私を吸血鬼にするために私達を殺したのです。故に憎まれ殺された。当然の帰結ですよ」
栄坐は微笑みを崩さない。黒衣の隙間から見える禍々しく鋭利に尖った足先で、メルディーナを踏みつけてなお哂う。
「私達? まさか、生贄になった人たちの意識が残って?」
「流石は同族ですね。察しが早い」
「……っ」
愛華が強張る。代わるように巳禮が問う。なぜ怨み、なぜ憎むのか。
栄坐に溶けた魂は、メルディーナと契約し救われた人間のはず。命と引き換えに家族を救う。それはメルディーナが示した正しさだった。人の法とは相容れないが、道理は通っていた。
だが、栄坐は一笑に伏せる。
「ミライくん、彼女/こいつはね、私達に猶予を与えたんですよ。すぐに殺さず、命を張って助けた家族と過ごす時間を与えたんです」
それは温情ではないのか。巳禮の返しに栄坐は憤慨する。
「ええ。だって私達だけが死ぬんですよ? 愛しい家族は絶望の縁から一転、幸せな未来を約束されて! 私達の決意と献身でです! 私達の功績です! 私達が活躍して手にした希望です! なのに! 私達だけがその幸せな世界から去らなければならない!」
ぶるぶると身を震わせる栄坐を愛華が睨みつける。
「何言っているの! それは、そういう契約で! 知っていて結んだのでしょ!」
「ええそうですよ!? でも知らなかった! 皆で死ぬより独りで死ぬほうがこんなに恐ろしいなんて! 判らなかった! 誰も教えてくれなかった!」
栄坐の貌が歪み、別人の顔を作り出す。貌に貌が生まれ、それぞれの口が泣き叫ぶ。
「もっと息子と遊んでやりたかった!」「妻に愛してると伝えたかった!」「娘の花嫁姿を見たかった!」「来月生まれる孫の顔が見たかった!」
魂が心が削られる悲壮な叫び。
想いと吐き出した貌は内に溶け、栄坐へと還る。最後に右頬に残った貌を見た巳禮の心臓が凍りつく――一姫の父の貌、彼だけは叫ぶことなく、ただ悲しそうに呟いた。
「約束が、違う……」
「約束……?」
「私が悪かった…… 娘は治してくれ…… 殺さないでくれ…… 首を…… 首が……アアアアアアアアああああああああああああああああああああああああ嗚アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああ」
狂った嗚咽を漏らし、一姫の父は溶けた。
巳禮は察する。一姫は父の目の前で首だけにされた。それを治療だと知る前に、父は殺されたのだ。メルディーナにとっては普通の治療だった。だが、人間からすれば唯の見せしめの虐殺だ。
メルディーナは、人の目線でモノを考えることが出来なかった。
故に、人の心がどれだけ揺らぎ易く、脆いかも理解していなかった。
故に、彼女の語る正しさは、本当に彼女だけの正しさだった。
「理解してくれたようで嬉しいですよ。これで躊躇いなく――君達を始末できます」
栄坐は深く礼をした。その姿が霞のように消える。
「っ! ミライ気をつけ――」
――ズチュッ
愛華の咄嗟の叫びは、何かに何かが刺さる異音で遮られた。
「え? ミラ、イ?」
横を向く愛華の紫の瞳に、巳禮と栄坐が映り込む。巳禮の首には――栄坐の指が深々と突き刺さっていた。
巳禮の口から、ドロリと血の塊が吐き出される。
「おおっと汚い」
栄坐が身体をよじり、刺さった手が軽く横に流れた。その無造作な動きだけで、巳禮の身体は真横に吹き飛び、屋上を囲うフェンスに叩き付けられる。迸る衝撃にフェンスの根元が中途半端に千切れ、だらりと外へと垂れる。手から【顎】が離れ、共に流れるように
フェンスを滑り落ちていく。
「ミライっ!」
「逃げられませんよお嬢さん」
駆け寄ろうとする愛華を栄坐が阻む。巳禮の身体はフェンスの滑り台から落ち、階下の闇に消えた。
「あ、あああ」
愛華の眼から光が消え、絶望の闇で満たされる。
「ふむ。ちょっと力を入れすぎました。まだ少しこの身体、慣れが必要です」
栄坐は涼しい顔で指先の血を払う。雫が愛華の頬に付き、滴り落ちる。
「……貴様っ! 貴様ぁアアアアア!」
激昂のままに愛華は剣を振るう。
しかし、既に栄坐はそこにはいない。後方十数メートルで手に掴むメルディーナの核を撫でた。
「そういえば何故、破滅して貰うのか。理由を言ってませんでしたね」
「っ」
「簡単なこと、囮ですよ。メルディーナが死んだとなれば一大事。しかも、その心臓を新たな吸血鬼が所持しているとなれば、お嬢さんのお仲間も黙ってはいないでしょう。だから、アナタは瀕死でここに倒れてください」
「何ですって……?」
「メルディーナからの連絡がないことを確認した組織は人を送るでしょう。そして巳禮くんの死体と、血みどろのアナタ、メルディーナの抜け殻を発見するのです。皆は思うでしょう。『吸血鬼・愛華は一般人の少年を巻き込み儀式を襲撃。少年を死なせ、儀式を失敗に追い込み、自分はメルディーナの心臓を抜き取りギリギリで生き残った』と」
「……っ! ふざけるなァっ!」
愛華は赤髪を灼熱と化し直剣に纏わせる。豪炎の魔剣と化した剣を、もち得る全身の力を込め、栄坐へと投擲する。
「【禍風】」
栄坐が呟く。手の核が脈動し、空間を歪めて引き絞る。異能の張力から開放された空間は反動で大気を弾き出し、三原色に輝く魔力を乗せた烈風を生む。
渾身の威力で撃ち出された愛華の魔剣は、赤い風の前に容易く塵に還った。緑と青の風は勢い衰えることなく愛華を包み、容赦なく全身を斬り刻む。
「ぐあ?! がぁアアアアアアアアアアアアっ!?」
青が装甲と皮膚を破り、緑が肉と骨を裂く。愛華は自らの血溜まりに沈む。
「おや、いけない。またやり過ぎました」
栄坐が苦笑いする。栄坐と愛華、二人の延長線上に並ぶビル群に亀裂が走り、一斉に倒壊した。轟音と粉塵、やがて火の手が上がり始める。
「う、あ……」
血に染まりながら愛華が呻く。痙攣する彼女を見下ろし、栄坐は関心する。
「ふむ。もう再生が始まっている、流石ですね。とはいえ、しばらくは動けないでしょう」
「ミ、ライ…… れ、んか…… ギ…… ン……」
「おやおや、何ともまあ、健気お嬢さんだ」
栄坐は微笑ましいものでも見ているような笑顔を作る。
「仕方ありません。その心に免じてミライくんのグチャグチャ死体を持ってきて来てあげます――一人は寂しいでしょうからねぇ」
栄坐は階段を一段降りるような気軽さで屋上から身を投げた。




