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【顎(アギト)】  作者: しおてさぎそう
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幕間:【初恋(ハツコイ)】

 初めは、何もかも奪い取るつもりだった。

 あの地獄から生還した人間が生み出した絵画が、多くの人間達から評価され、信奉にも近い愛され方をしていると知り、私はもしかしたらと彼の元へと赴いた。

 真夜中のアトリエにするりと忍び込み、調べて数分。私は深く失望した。

 何の変哲も無い絵描きの作業部屋、魔術の魔の字も見当たらない。

 私は私の知らない魔術が存在することを許さない。未知なる魔術を扱うものがあれば、その魂ごと奪って既知とする。こそれこそが私、『魔術師の霊廟』と呼ばれ、恐れられた吸血鬼の行動原理だ。それは何故かは――忘れてしまった。過去に何千、あるいは万に達しているかもしれない魂を溶かして取り込んだ私は、基盤となる人格が酷く薄まり、底に沈んで曖昧になってしまっていた。

 だが、些細な事だ。私は魔術師だけを喰ってきた。だから、これからも魔術師だけを喰い続ける。それだけが重要なのだ。

 故に私は落胆する。私がここへ現れたのは、画家の彼が私の知らない魔術を用いて、絵画を触媒に人を洗脳しているのではと、期待していたからだ。

 あの地獄で何かに目覚め、それが命綱となって生き延びたとしたら、魔道に関わる家系でなくとも十分有り得る、と考えた自分がバカに思えてくる。 

 無駄な時間だった。転移で帰還しようとし――ふと思い留まる。

 まだ決め付けるのは早い。アトリエが普通でも、彼自身に宿るものがありそれが絵画に影響を与えている可能性がある。ならば、実際に彼に会い、その画を観るまで判らない。

 もう一度、辺りを見回す。部屋の中央、白い布が掛けられたキャンバスらしきものがあった。

 近づいて手を伸ばす。魔力は感じない。やはりと思いつつ、気まぐれで布を取り払う。

 私はその時、哂うつもりだったし、嘲るつもりだった。

 芸術は心を写すという。あれを経験した人間がまともでいられる筈はなく、ゆえに画も狂っているはず。壊れた者のイかれた産物を、凡俗な人間達が理解できぬが素晴らしいと、群がっている。これが真相だろう。

 私は違う。凡俗でもなければ人間でもない。いかなる絶望を孕んだ絵画であろうと、人ならざる私から正気を奪うことなど不可能。

 だからこそ、哂える。こんな汚物を崇拝するのかと嘲られる――はずだったのに。


 そこにあったのは、霞の掛かった山の頂を見上げる絵画だった。


 気付けば私は、身一つで岩肌にしがみ付き、冷気と山風に晒されながら最果てへと向かっていた。

 霧の奥は薄く微かに、山吹に輝いている。あそこが果て、目指すべき終着点だと理解する。

 しかし、何故目指すのかが解らない。ひとつでも手足の置き場を間違えれば、全てが水泡に帰すような危険を冒す意味が不明。安寧を捨て、苦痛に身を置く理由が不明。

 さらに言うなら、あの果ては私が望んだ通りの終わりなのか。

 唯一、確信できることは、岩肌にしがみ付き続ける自分の心。登ることは考えず、降りることも出来ない私は、唯ひたすら縋り付く。 

 

 ああ、この画は私だ。


 来た道を忘れ、道を行く意味を見失い、向かう先が何かも解らず。それでも行動原理にしがみ続けている、私そのものが描かれている。


 我に返ったとき、私は笑っていた。お腹を抱え、涙を流し、呼吸が困難になるほどに、

大笑いしていた。

 鏡に写らない吸血鬼であるこの身が、これほど鮮明に映し出されるとは思わなかった。

 果ては私のために彼が用意したのではとすら思えてくる。無論、そんな訳はない。彼が私の来訪を何十日も前から予期していたなら別だが、間違いなくただの偶然だ。

 ただの偶然で、私は暴かれた。

 ただの偶然で、私は無自覚のうちに目を逸らしてきた、行き場のない化物の無様を、見せ付けられた。

 滑稽にも程がある。

 停まらぬ笑いとは別に、鼓膜に響く音があった。

 どうやら五月蝿くし過ぎたらしい。誰かがこの部屋へと近づいてくる。

 確か、彼は独り暮らしだったはず。通報もせずに向かってくるとは。

 面白い。このまま会おう。

 この画を産み出したのは彼で、この画はつまるところ彼の欠片だ。

 彼は人でありながら、私と同じモノの可能性がある。そう考えただけで、何故だが胸のうちが熱く滾る。

 

 生れ落ちて幾星霜。その日初めて、私は魔術以外に恋をした。 

 

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