【日常(ヒ ニチジョウ)】
早朝、俺は備え付け電話の呼び出し音で目を覚ました。
起こした体から掛け布団がめくれて落ちる。タイミングの悪いことに、半開きの網戸から風が吹き込む。
クシャミをひとつ。春先とはいえ、曇りの日にパンツ一丁はまだ厳しいようだ。
鼻を拭きながら居間へ向かう。こんな時間に誰だろう。受話器を耳に当て、その途端。
『わ、若サマあアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!』
咆哮にも似た絶叫が鼓膜を殴りつけてきた。
『びえええええええん!! 若ァ! 若さまあああああああ!』
視界がチカつく間にも、受話器からは延々と泣き叫ぶ声が溢れてくる――よく知っている声だった。鼻でも噛んで落ち着くように言い聞かせる。あと一応、若はやめろと言っておく。
俺には而道巳禮という名があるのだし、時代劇染みた呼び方はいい加減こそばゆい。
本当にぷびーっと鼻をかむ音がした。その後で、幾分かマシになった声が帰ってくる。
『ううう、若あぁ…… お久しぶりにございますよぅ…… 平日のこんな時間にごめんなさいですよぅ……』
やはり無駄だった。こそばゆい。
電話の相手は添木茉莉、俺にとっては【姉】のような存在だ。喋り方が緩慢で、声自体も幼く、それどころか見た目もアレなのだが、年は俺より上で既に成人している。
そう、茉莉は仮にも成人女性。その彼女が泣きじゃくって電話してくるとは、よっぽどの事態であるはず、俺が何があったのかを聞くと、茉莉は嗚咽混じりに話し始めた。
えづきながら語った内容は大体、次のようなものだった。
二日前のその日、茉莉の住む山村、俺の故郷で大きな地震が起きた。
山の一部が地すべりを起こしたが、幸い里の人家や田畑に被害はなく、川の氾濫なども起きなかった。
だが、別の問題が起きた。俺の祖父、而道徹芯の墓が倒壊してしまったのだ。
祖父の墓は『ある遺恨』が元で一族の墓所から隔離され、山奥に設けられていた。その上、親族が皆揃って管理すら拒んだため墓は荒れ放題。見るに見かけた茉莉が自主的に墓守をしていた。墓の倒壊を知った茉莉は砕けた墓石の破片を持って、俺の父親へと報告し立て直すように進めたのだった。
が、しかし。巳禮の父は茉莉の進言を拒んだ。
村の復興に忙しいというのが理由だった。而道家のルーツは地方の豪族、現在も周囲の山々を所有し、村の田畑もほとんどが而道家が村民へ貸し出しているもの。名実ともに村の統括者である。管理する立場にある以上、優先すべきは一人の故人よりも、今生きている多数の村民だと父は語った。
一見、筋は通っているようだが、村に被害はなかったのだから実際は体裁の良い言い訳である。
茉莉は父に食い下がったが、その結果、反感を買ってしまい、墓守でありながら墓を守れなった事を逆に糾弾された挙句、全責任を押し付けられ『早期』に『必ず』建て直すようにと申し付けられてしまったのだった。
『――以上ですよぅ』
ショボくれた茉莉の声に何とも言えない気持ちになる。怒鳴り散らす父の姿を想像するだけで、気が滅入りそうだった。
『お墓って石だけで二百万はするですよぅ!? 高過ぎですよぅ!! こっそり山の山菜や木の実、時々野生動物で倹約生活している茉莉にそんな貯蓄なんてないですよぅ~!?』
正確には窃盗罪にあたるそれらの行為はさておき、建てる場所も問題である。木々の茂る山奥となれば墓石を運ぶだけでも手間だ。当然、人手が要る。となれば費用はさらにかさむ。
『うう、若ぁ~……』
再び泣き出した茉莉をなだめつつ、思案する。
父に墓の資金を出して欲しいと進言するのはどうか――愚問だった。祖父の『遺恨』には、俺が深く――というより俺が根幹だ。俺が祖父を庇うような発言をしたら、逆効果どころの話ではなくなる。多分、そのトバッチリを茉莉が食らう。彼女はなんというか、的にされやすい。
資金の提供を求めることが無理ならば、自分たちで金策をするしか他に道はない。
だが、俺は学生で、学園はバイト禁止である。いや、例え内密にバイトに着いたとしても、ウン百万など早々に稼げない。いくら都会近郊のバイトが時給に恵まれているとはいえ、限度という物がある。
思考の果て、俺の視線は開けたままの扉の抜けて自室へ。勉強机の下へと向いていた。 机に向かった者の足を受け入れるスペースには、白木の長箱がひとつ置いてある。
『うぇぇ……? なんですよぅ……?』
機会なのかも知れない、そんな俺の呟きに茉莉は電話の向こうで首を傾げたようだ。
俺はあえて強引に話を進めた。勢いに任せて、質問の隙を与えず、疑問を持たせないようにした。
『……はへ?! 今日の午後五時にです?! 新々宿駅です?!』
無論、茉莉は困惑した。だが、俺にいい考えがあると告げると。
『おお?! 流石は若ですよぅ!!』
と、一気に声を明るくした。
『いや~こんなにあっさり解決できるならば、さっさと相談するべきでしたよぅ』
おそらく俺と彼女では、電話越しに正反対の顔をしているのだろうが、それを悟られるわけにはいかない。年齢を証明できる物を忘れないように言い含めて電話を切る。
受話器を置き、洗面所へ向かう。まだ早いが、目が冴えてしまったので登校の準備をすることにした。
顔を洗うため、洗面台の前に立つ。薄暗い中、鏡に俺の姿が映り込む。
あいも変わらず古傷だらけだ。
※ ※ ※
茉莉の電話から一時間ほど後、俺はとくに問題もなく学園へと出発した。現在は満員電車にすし詰めにされ、具のひとつになっている。
軽く電車が揺れ、側面にいるリーマンが息の詰まった声を漏らした。俺の肩がもろに胸部を圧迫しているためだった。背の割に肩幅があることは重々自覚している。なるべく身をせばめてはいるが、骨格的な限界があった。
肩身が狭いとは正にこのことか。などと思っていると、一段と大きな揺れが電車を襲った――背後に違和感を覚える。揺れに逆らい、誰かがぐいと身体を押し込んできたような感覚があった。
後ろを確認、するよりも先に『事』が起きた。
もみゅんもみゅん、と何者かの手が俺の背中を揉んできたのである。
「うっへっへ~、兄ちゃんいい身体してまするなぁ、うっへっへ~」
なんとも言えない台詞に合わせて、背を這う指が背筋に沿って上から下へ、下から上へと往復する。
「こんな素晴らしい背筋を持つ君に、ぜひ紹介したい剣道があるんですがねぇむへへ~」
セクハラからの流れるような勧誘。淀みのない見事な連携には『馴れ』があった。そしてまた俺自身も、遺憾ながらこの事態に慣れてしまっていた。
取り敢えず訴訟の旨を伝える。
「ちょ?! タンマタンマ!!」
背後の人物の声が一転、無理して絞り出していた低音から素の高さに戻る。首をまわせばやはり、よく知った顔があった。
「ちょりっす、『みらっち』」
俺を見上げて笑む少女、名前は桐原一姫という。凛々しい目鼻立ちに肩付近で切り揃えた黒髪が相まり、一見は凛とした印象を与える――のだが。
「むふふ、にしてもこの弾力、柔らかさ。堪りませんなぁ~」
再び一姫は俺の背をまさぐり始め、途端に口が半開きに。表情を間延びさせ、ヨダレが零れそうだった。
彼女は少々、残念な部分があるのだった。
「むむ? なんぞその憐れむような視線はー?」
一姫はむくぅと膨れ、カバンとは別に肩に担いだ竹刀袋をちょいちょい指差した。
「私はただ部活の勧誘しているだけですぜ?」
実に酷い勧誘である。なお酷いことに、一姫はほぼ毎回、俺と会うたび似たようなことをしつつ剣道に誘ってくる。おかげですっかり慣れてしまった。
いつも通りの一姫に、俺もまたいつも通りお断りの意を伝える。
「えーやろうよー剣道。今なら私の予備の竹刀とか、何ならお古の剣道着もプレゼントしちゃうよ?」
それは大盤振る舞いだが、竹刀はともかく剣道着はサイズがあわないと思われる。俺と彼女では頭ひとつ分、背丈が違う。
が、俺の指摘に一姫はぬへらと口元を歪めた。
「いやいやそうじゃなくてさ、女子の着衣だよ? 肌に着るやつだよ~? 着古したやつだよぉ~? もっと、別の使い道とかありそうじゃない?」
言われて少し考えたが、道着に着る以外の使い道などてんで思いつかない。
「むーん、みらっちは真面目だなぁ」
一姫は苦笑いすると、ぺちぺちと俺の背を軽く叩いた。
「まあ、流石に恥ずかしいから胴着はNGだけど、マジで竹刀ならあげちゃうよ」
いたずらっっぽく片目を閉じて、俺を見上げてくる。
俺は返事に困り、首を戻して視界から一姫を外した。
「む、無視とな。それは許さん、許さんぞ!」
言うなり俺の両脇に何かが差し込まれる。その正体が一姫の指だと理解するのとほぼ同時に、わきわきとクスグリが開始された。
思わず声を挙げそうになる。どうにか悲鳴は飲み込んだが、顔を突き合わせている前方のOLが変なモノを見る目で俺を見た。なんだこの状況。
「煮え切らないみらっちにはお仕置きだにゃー」
何が『にゃー』か――そんな突っ込みを入れることもままならず、俺は一姫に好き放題弄ばれた。
※ ※ ※
「いやー、今日はいい事ありそうだね」
改札口から出た一姫は、窮屈な空間で凝り固まった体をうーんと伸ばす。
その隣で油の切れたラクダのようにげっそりしている奴がいる。
俺だ。
まさか最寄駅につくまでクスグリ続けるとは思わなんだ。甘くすぐったい痺れが両脇から取れない。
「あれ? どしたのみらっち。すげー老けて見えっぞ?」
一姫が俺の顔を覗いてくる。嫌味ではなく本気で不思議そうにしていた。糾弾する元気もないので何でもないと誤魔化し、学園へと歩き出す。
俺や一姫と同じ制服姿の少年少女に混じって大通りを行く。
俺も一姫も歩く速度は速い。歩いているうちに自然と他の生徒を追い抜く。その間に、何人かが一姫と挨拶を交わした。
一方、俺に声をかける者はいない。
俺がやらかした事を考えれば仕方がない――のだが。
「じ、じゃあ私、ゆっくり行くから、またね?」
と、俺と目が合った一姫の知り合いが、表情を強ばらせ露骨に歩く速度を落としたのには流石に来るものがあった。
「ダメだよみらっち」
鼻でため息を着いていると、一姫が脇腹をつんと突いてきた。
「そんなシリアスを擬人化したみたいな顔してさ、渡辺さんビビっちゃったじゃん。そんなんだから友達私しかいないんだよ」
そう言われても地顔はどうすることも出来ない。それと、彼女は眞鍋さんであり、渡辺ではない。あと、友達ならもう一人いるだろう。
「友達、ねぇ。あいつも報われない…… まあ、いいや」
何がまあいいのか、よく解らないうちに一姫は会話を進めてしまう。
「実は今の、何気にテストだったんだよね。みらっちがクラスメイトの名前覚えているかどうかのさ」
なぜそんな試すようなことを。俺の視線をしっかり受け止め、一姫は微笑む。
「覚えているならさ。馴染むの、あと一歩なんじゃないかな?」
その一歩は果てしなく遠い。しかも、彼方に追いやったのは俺自身でもある。手遅れという実感もある。
「まーたそんなこと言う。遅いなんてことは事はないってば」
一姫は自身の眉間の付近で指先をクイっと動かしてみせた。 ……メガネを直すモノマネと気づくのに少々かかった。
「剣道には後の先って言葉があるんだよ。動作では先を取らせながらも、自分は攻撃に入る気配を察しておいて、その先をいくって感じ、だった、はず? 確かね??」
急速に尻窄みする一姫。自信の無さが透けて見える。
「つ、つまりね。みらっちは『今更』って言うだけ、自分が浮いている自覚があるってことでしょう? 気づいているなら後は改善すれば間に合う、遅いなんてことはないって私は言いたかったんだよ!」
言い切ったことは評価したいが、いかんせん例え話としては苦しい気がする。
「むう、上から目線で評論された、自分でもちょっとアレかと思ったけどさ」
むーんと膨れてそっぽを向く一姫。と、彼女の二重まぶたが大きくまばたきする。
「みらっち、あれ見て」
一姫が指を差した先は斜め前方。四車線を跨いだ反対側の通りに、何やら人だかりができていた。数台の警察車両も停まっている。
事故、いや事件だろうか。
「よし! 行こう!」
は? と反応するより早く、一姫は俺の手を掴み走り出した。
俺が遅刻の心配をすると。
「だいじょーぶ! これも後の先、後の先! 遅刻の危険を感じてからでも、急いで動けばきっと間に合う!」
いや、それは先の例えよりも苦しいと思われ。
「いーから! 口じゃなくて足を動かせぃ!」
結局、押し切られる形で、俺は彼女の気まぐれに付き合うことになった。
程なくして歩道橋を渡り切った俺達は、数メートル先に見える人だかりへと近づいた。
野次馬達の視線の先にあるのは、ビルの合間に貼られた青いシート。路地を封鎖するそれの下側は、黄と黒のテープを渡したコーンが置かれ、さらにダメ押しとばかりに警官が二人、野次馬に目を光らせている。
やけに厳重な警備だった。どうも事故や軽い傷害のような事件ではなさそうだ。
ふと警官のひとりと目が合う。露骨に相手の眼が厳しくなった。
「ん? みらっち大丈夫? なんか顔が怖、はいつもの事か、顔色が悪いよ?」
相当に失礼な心配の仕方をした一姫に、俺はもう行こうと促す。こう厳重ではシートの奥を知ることなどできないだろう。時間の無駄だ。
「うーん」
だが、一姫は諦める気がしないらしく、軽く跳ねたり左右に移動したりを繰り返し、どうにかシートの先を見ようと腐心し始めた。
見るまでもないだろうに。
思いつつ鼻を押さえる。覆い隠された路地の方から微風に乗って漏れている、僅かな異臭。鉄にコビり着いた錆に似たそれは紛れもなく――
「うむ! 判らん&見えん!」
一姫は腕組みして頷くと、すすっと俺に寄って耳打ちしてきた。
「ねえねえ、みらっち。私これから出来心で許されるギリギリのところまで近づいて見るからさ、ちょっと裸体を晒してオトリやってくんね?」
断固拒否する。
「えーなんでさ。きっと愉しいよ? 癖になるよ? 新しい自分を見つけるかもよ?」
社会不適合者への道を往く気はない。ただでさえ俺は――。
ともかく、これ以上は付き合えない。俺はゴネる一姫を無視して踵を返した。そろそろ真面目に登校時刻がマズい。
歩き出せば、何だかんだ言いつつ追ってくるだろう。そう期待して数歩離れた直後だった。
「一姫ッ! 何をしているッ!」
知らぬ声が背後で響く。
振り返った俺の目に映ったものは、面食らっている一姫と、彼女に歩み寄るコート姿をした壮年の男。周囲の野次馬達は男の迫力に身を引き、なんだなんだと遠巻きに様子を伺い始めている。
「え? あれ?! パパ?! ってことは、ここって――」
「何をしていると聞いているッ!」
今にも掴みかかりそうな男の剣幕に、俺の体は考える前に動いていた。
一姫の襟を後から引っぱり、入れ替わるようにして男の前に立つ。
「のわわっ?! ってみらっち?!」
――で、ここからどうしようか。
「……なんだキミは」
怒気に満ちた男の視線が、黒縁の眼鏡越しに突き刺さる。思わず半身に構えかけた、その時。
「い、行くよみらっち!」
後ろに下げた一姫に腕を掴まれた。
「みら……? 君が……?」
男性の表情に困惑が生まれる。が、それも一瞬。一姫に抱き寄せられた俺の腕に男の視線が触れた途端、眼鏡の向こうが鈍く光った。
「ほら!」
気圧される俺を、一姫は強引に引っ張り走り出す。
「こ、こらッ! 待たんかッ!」
「待たないですー!」
律儀に捨て台詞を吐く一姫。問答無用で連れて行かれる俺。男の怒声と野次馬達の視線に見送られ、俺達はほうほうの体でその場を離脱。学園へと駆けるのだった。
◇ ◇ ◇
登校時がやや特殊だったからといって、学園内でも同じように特筆すべき事件が起きるとは限らない。
午前の授業と小休みは何事もなく、俺は希薄な意識でぼんやりと過ごした。一応、ノートは取っているものの、見返すと結構な割合で日本語に混じり象形文字が記されている。
……三大欲求には勝てなかったよ。
「ちーっす。屋上いこうぜぃ」
ヒエログリフを解読していると一姫が現れた。手にした茶色い紙袋を振り子のように揺らして見せる。しんどい作業は一旦忘れることにし、俺はカバンから弁当箱代わりのタッパーを取り出す。
こうして一姫と関わるのは何気に登校時以来だ。理由は単純、彼女の周りには自然と人が寄る。授業の合間の小休止も、誰かしらと談笑しているのが常だ。俺が混じれば迷惑が掛かる。だから、俺からは彼女に近づかない。
「――でさ、それがとっても臭くてさぁ」
なるほど、確かにくさそうだ。などと、しょうもない会話をしながら廊下を歩き、角を曲がり――ある教師と鉢合わせた。
「……む」
俺を見るなり、太い眉を片方痙攣させ、隣に一姫がいることをに気付くともう片方の眉も揺らせた。ガタイの良いこの教師は、剣道部の顧問でもある。
「桐原、少しいいか?」
いいかと訊きつつ、ほぼ強制で留まるように言う顧問――判っていない。一姫は普通に空気を理解できる人間だが、同時に読む読まないを自由に選択する人間でもある。察しろは通じない。
だから、俺は一姫が答えるより早く、先に行って待つと告げた。
「へ? みらっち?」
きょとんとする一姫を残して階段を登る。強い視線を背に感じた。足音は殺しておく。
踊り場に差し掛かったところで足を止め、二人からは死角になる位置で耳を澄ませる。
「桐原、おまえは剣道部の副部長なんだぞ。自覚はあるのか?」
「はい? もちろん、ありますよ?」
「なら何故。あいつのせいで去年男子は予選落ちしたようなもの――」
「あー、先生。一つ忘れてません?」
教師の言葉を遮る一姫の口調は、俺や友人に接する時と同じようで、真逆だった。
「彼がいなかったら私、友達を一人失っていたかも。なんですけど」
「お、大げさな事をいうな。そんな深刻な事態になるとは」
「まあ、なりませんでしたよね。彼のお陰で」
「ぐ……」
声だけで判るほど、顧問は動揺する。
「だ、だがな。部に誘うというのは理解できん。奴のやったことは十分な暴力行為。武道の理念に反するだろう」
「だからこそ彼を誘っているんですって。反してしまった彼が剣道を通じて成長する!
おお、口に出すと凄く青春って感じですね。先生そういうの嫌いです?」
ペースを崩さない一姫に苛立ったのだろう。顧問は荒く吠えた。
「その青春を賭けた生徒を一人、潰した男だぞ!」
昼休みの喧騒がにわかに静まる。
「……先生は」
静寂の奥から、一姫の声だけがはっきりと伝わってくる。
「何年も剣道に携わっていながら、強い『だけ』だった人を庇うんですか?」
顧問の返事は――なかった。澱んだ空気が流れていることが、目で見るまでもなくはっきり判る。
「じゃあ、失礼します」
「ま、待たんか!」
一姫が会話を強引に終わらせ、俺の後を追おうとしている。顧問が食い下がっているうちに速やかに階段を登り、屋上へと出た。
※ ※ ※
学園の屋上は、内側へネズミ返しに造られたフェンスで囲まれている。ボール遊びさえしなければ、昼休みと放課後は好きに使える。もっとも、ここ一年で昼休みに利用する生徒はがっつり減少した。おそらく、俺が使うせいで。
フェンスに寄りかかり腰を下ろそうとした。と、丁度のタイミングで一姫が姿を現した。
駆け足で寄ってきた彼女は、俺がきくより先に言ってくる。
「いやー、最近タルんどるって喝入れられちったぜぃ」
俺の盗み聴きには全く気付いていないようだ。
申し訳なく思う。庇ってくれたことは素直に嬉しい。だが、顧問と対立するなど一姫にとっては百害あって一利なしだ。
「どしたん? ぼんやりして」
小首を傾げる一姫、俺は何でもない誤魔化す。
「んぬぬぅ?」
疑いの視線が痛い。一姫は妙に勘の良いところがある。何か適当に言い訳をせねばバレる。そう直感したとき、ふと彼女の肩を越して、フェンスの遠く向こうにある【異物】が目に留まった。定まった俺の視線を追い、一姫が振り返る。
「あー」
一目見るなり、一姫は腕を組んで頷いた。
「そういえばみらっち、現代史で追加の課題を出されてたっけ」
勘違いをしたまま、彼女はしゃべり続ける。
「しっかし、あんなモノで原稿用紙2枚のレポートとか、ご愁傷様っす」
あんなモノと揶揄された、俺達の視線の先の【異物】。
遠く立ち並ぶ高層ビルのさらに奥にある、台形状の黒い塊。
鉄骨と鋼板で組まれた、周囲のビル群が小石に見える程に巨大なそれ。
俺や一姫が生まれる何十年も前から、外界と完全に隔離された閉鎖空間。
【旧新宿】がそこにあった。
「なんていうか、あれだね」
語り出した一姫はの顔つきは、いつになく神妙だった。
「普段は意識しないけどさ。こうしてまじまじと眺めると、現実感がないっというか、不気味というか――得体がしれないというか」
一姫が口にした感想については、俺もほぼ同意見だった。【旧新宿】は、そこにあって当たり前と思うには、何か決定的に欠落しているように感じる。
区画をひとつ覆う途方もない巨大さや、周囲の景観を無視したドス黒さも確かに異物感の一端だろう。だが、それだけではなく、もっと根本的な【何か】が違う気がするのだ。
「ちゅーかさ。ただ分厚いだけの壁で大丈夫なのかね。実は、中身漏れてたりして」
それはない。もし漏れているなら、とっくの昔にパンデなんたらが発生して、俺達も昼飯どころではないだろう。
「むー、乗り悪いなぁみらっちは。そこはさ、『なんだって! こりゃあ飯食ってる場合じゃねえ! 今すぐ俺と遠くへ逃げよう!』つって私を拐おうよ」
そういう行動は悪戯に感染者を拡げかねず、感心できない。
「……はぁ、まあいいや。ご飯にしようず」
何故だか激しく失望された気がする。
俺が座ると、一姫が隣にこぶしひとつ空けて座った。彼女は手に持つ袋の中身を次々と取り出し始める。
一姫の弁当は少し――いや、かなり変っている。
『ニンニクエキス』『トリプルビタミン』『亜鉛しっかり』『国産ウコン』『グルコサミン+』『カルシウム+』……などなど、サプリメントの小瓶がわんさか顔を出しては並べられていく。
「~♪」
鼻歌混じりの一姫が最後に取り出したものは、ミネラルウォーターと小さなコッペパンがひとつ。この二つは床ではなく膝上へと運ばれた。
大量のサプリメント、コッペパンが横たわる光景。今日が特別ではない。彼女の弁当は毎回これだ。
俺は過去、何度か普通に食べるべきだと苦言を呈した。だが、一姫は。
「これこそが竹刀裁きと足裁きにキレが出る、最高のお弁当なんだぜ」
と言って聞かない。実際、一年時に成果を出し、現在副部長に就任している彼女に言われては、どうしようもない。
俺も大人しく、自分の弁当を膝上に乗せる。
「ねえ、みらっち」
一姫がまじまじを俺の弁当と顔を交互に見てきた。
「私が言うのもなんだけど、もっとこう、普通に食べたら?」
何を言っているのか理解できない。
「いやいやいやいや!」
一姫が俺のタッパーの蓋を勝手に引っぺがす。乱暴である。糸がネットリと、盛大に引いてしまった。
「ほらまた納豆しか入ってねえ! ご飯は? おかずは?!」
県大会常連校の剣道部、その副部長ともあろう人物が甘えたことを言う。
豆は畑のお肉。つまり野菜でありながら肉。つまり一つで二つの相反する要素を持った奇跡的かつ完全なる食物である。これ以上に何を望む。
朝昼晩、あとは水だけあればいい。
「うわぁ…… みらっち、うわぁ……」
憐れみの視線が突き刺さる。ちくわぶに「お前には芯が通ってない」と言われたような気分だ。人は何故、分かり合えないのか――俺がただひたすら空虚な気分に陥りかけた、その時だった。
屋上の扉が勢いよく開いた。
「お、お待たせーっ!!」
中から一人、ちんまい人物がジャージ姿で現れた。息を切らせ、胸には小さい巾着袋を抱えている。
「体育の片付け手間取って、このまま来ちゃった!」
言って駆け寄ってくるのは、雛樋真弓。俺の二人目の友人であり、一姫の幼馴染。一姫とは小学生時代からの付き合いらしい。
やや癖っ毛で、くりんとした瞳と華奢で小さな身体が原因で、高校二年でありながら中学生と間違われる。見た目通りの愛嬌のある声をしているため、初対面で年齢を当てられる人間はほとんどいない。
「って、二人共もうお弁当広げてるしっ!? 仲間ハズレ?! 仲間ハズレなの!?」
「まだ食べてないって、早よ来い」
「う、うんっ」
真弓が一層足を早め、その身体が踏み出す途中で不自然に硬直した。見れば右足の靴紐が解け、端を左足が踏みつけている。
「あ、あわわわわっ!?」
転倒の危機、真弓は巾着を持っていない左腕を振り回し、必死にバランスを取ろうとしている――間に合うか?
「ひぇっ」
努力実らず、崩れ落ちる真弓。目を閉じ、顔面から床へ向けて倒れる。
その寸前、俺の滑り込みが間に合った。
「…………あ、あれ??」
俺の腹上でうつ伏せになった真弓は、数秒ぽかんとしていた、が。
「え、おあッ?!」
状況を理解した途端、放たれたバネのように跳び退いた。
「あ、ありがと巳禮クンっ、助かったよって臭っ!?」
真弓が思わず顔をしかめる。俺も顔をしかめる。俺臭いのか。
「い、嫌そうじゃなくてね?! 顔になんかベトベトするのが……」
見ると真弓の頬に糸を引く粒が。滑り込んだ際、持ったままの弁当から飛んだらしい。
「うう~、巳禮クンまた納豆おんりーなの? 姫ちゃんといい巳禮クンといい、どうして皆こぞって偏食なのかなぁ」
花柄のハンカチで顔を拭う真弓。一姫と一緒にされたことを心外に思いつつ、俺は立ち上がるため足に力を入れる。と、真弓が「はい」と手をさし伸ばしてきた。
好意に甘えて手を取る。俺の節くれだった指が、真弓の繊細な手を掴む。真弓は「ぬぬぬ」と唸って踏ん張るが、率直に言って非力だった。俺はほぼ自力で立ち上がる。
「え、えへへ……」
立った俺を見上げ、真弓は嬉しそうに微笑む。指は絡んだまま、もう大丈夫なのだが。
「う、うん。でもほら。また転ぶかもだし――」
「オホン! オッホン!」
ごにょる真弓を、ワザとらしい咳が横から遮った。いつの間にか、一姫が真横に立っていた。
「ウオッホンホン!! あーお二人さん? いや、主にまゆちん」
「あ、どしたのヒメちゃん? 風邪?」
幼なじみ特有の、砕けたあだ名で呼び合う二人。次の瞬間。
「ふんぬっ!」
気合一発、一姫の双拳が真弓の側頭部を挟み込んだ。
「そして喰らえ!」
掛け声と共に始まる圧迫挟撃。真弓の悲鳴が木霊する。
「あにゃああああああああ!? なにするのぉおおおおおお!?」
悶える真弓を押さえつけ、一姫はこめかみをヒクつかせながら咆えた。
「これからメシ食うって時に! ノンケの私の目の前で! 男同士でイチャついてんじゃねぇーぞォ!?!」
「痛い痛い痛いってばぁ~っ!」
「このおカマゆちんが~っ!」
「巳禮くんだずげで~!」
腰砕けになって俺に縋りつく真弓。本当に痛そうなので俺は『彼』を一姫から引き離して背に庇う。
「うが~! みらっちはまたそうやって! まゆちんを庇う!」
生まれ落ちて十と六年、人生で初めて出来た『男友達』だ。多少の贔屓は多めに見て貰いたい。などと、口に出しては言う訳にもいかないので、とりあえずドウドウと馬の要領で宥めてみる。
「私馬じゃないし! ったく、こんな変態が私のような愛くるしい少女の幼馴染とか、世の中間違ってるぜよ!」
良くわからない憤慨の仕方をする一姫に、真弓が俺の脇からちょこんと顔を出して抗議する。
「へ、変態じゃないもん! そうやってボクと巳禮くんの友情を穿った見方で捕らえる、姫ちゃんのが変態さんだよ!」
なんと、桐原は変態だった。
「ちゃうわい!」
軽い手刀をかまされた。解せぬ。
「ほら、戻って飯の続き続き!」
「あー、またボクを置いてきぼりにする気?! でも、させないよ!」
元のフェンス前まで移動し、座り直す俺と一姫。その間に、真弓は身の小ささを利用して割り込んできた。「どう?」と胸を張る小動物の右隣で一姫が歯噛みする。
「くっ、私よりスマートとか、貴様それでも成長期の男子か!」
「そうやって人の身体的特徴をあげつらうのは感心しないよー。ねぇ巳禮くん♪」
一理ある。
「な……!」
「さすが♪」
「む……! むがあああっもう! いただきます! はむはむはむ!」
どういうわけが野獣と化した一姫は、コッペパンの袋を力任せに引き裂くともっしゃもっしゃと食し始めた。その横で真弓は悠々と弁当を取り出し、開く。野菜多め、炭水化物と肉類は少なめの手作り弁当という、俺の次にまともな弁当がお目見えする。
「いただきまーす」
「はむはむはむはむはむはむっ!」
俺も手を合わせ箸を取る。
こうして昼飯は騒がしくも和やかに過ぎていった。
○ ○ ○
食事の後は、他愛無い雑談で休み時間を消費する。話題を振るのは大抵は一姫か真弓であり、俺はほとんど聞き専である。
「それにしもさ。最近、物騒だよね。ボク、ここ数日ぐっすり眠れないよ」
「まーた媚を売っとるよこの子は」
「そんなんじゃないよ?!」
物騒、とは何のことだろう。
「あれ。巳禮くんは見なかった? 登校の途中でさ、ヤバそうな現場っぽいの」
記憶にない。そう即答した俺の脇腹に、ぺちっと一姫の手が入る。
「おいこら、みらっち。今朝の私とのデートを忘れてんじゃあないぜよ」
「うぇえ?! ふ、二人でデートしてたの?! ズルイよ!」
言われて思い出した。デートではないが、確かに二人でそれっぽい現場に寄った――そういえば、その場で一姫は、既知の仲らしい中年男性に詰め寄られていた。
「おうストップだみらっち。その言い方だと、私が不潔な裏を持つ少女みたいじゃて」
「大丈夫だよ姫ちゃん。秘密の一つや二つ、女の子にはあって当然」
――ピちィ!
生易しい微笑みを浮かべた真弓の額を、手首のスナップを効かせたデコピンが弾く。顔を伏して呻く真弓には見向きもせず、一姫はややむくれて俺を見つめてくる。
「あれは私のお父さんだからね? つか、思い返せば私『パパ』って言うてたっしょ」
「じ、実は別の意味でのパパだったり」
――ピちィ!!
再び額を弾かれ転げまわる真弓。当然のように無視して一姫は説明を続ける。
「私のパ、お父さん警部やってるの。担当は殺人。だからまあ、あのシートの向こうにあるのは、ね」
言うまでもない。一姫は肩を竦める。と、痛みから復帰した真弓がおでこを摩りつつ口を挟む。
「ねえ姫ちゃん、確かお父さんが捜査に参加している事件って『例のあれ』だよね?」
「おう。酒に酔わして聞き出したから間違いないぜ」
実の父親に何やってんだと思いつつ、俺は例の事件とは何かときいた。
「ん? そりゃあれだよ。今、都内の住人を震え上がらせているあの事件っすよ」
……そう言われても。
途端、二人が顔が曇る。
「えと、巳禮クン?」
「みらっち、まさかのまさかだけれども、マジで? 知らないの?」
二人の反応に俺は何となく懐かしい気持ちになる。知り合った頃はよく似た反応をされた。あれからもう一年、月日が立つのは早いものだ。
「アカン。みらっちの目が常にも増して濁っている」
「み、巳禮クン。ほらこれ。この記事を読んでみて」
真弓から差し出される携帯端末、受け取って画面を覗くとニュースの見出しが目に飛び込んできた。
【串刺し殺人、新たな被害者か】
見出しだけで判るほど物騒で、なるほど話題をさらいそうな事件だった。
記事によると、今から一ヶ月前、今年の四月四日に都内の公園にて残惨殺死体が発見されたことが事件の始まり。死体は一様に鋼材を加工したと思われる槍で、胸部の中心よりやや左、つまり心臓を貫かれ、そのまま地面に縫いつけられていた。
この事件を皮切りに、週に一度に同じ手口の殺人が都内各所で行われ、被害者は現在六名に登る。
警察はこの前代未問の猟奇殺人事件に対し、全力で捜査に当たっているものの、未だに目撃証言一つなく進展なし。犯行現場は必ず駅の付近であることから、犯人は足に電車を使っていると分析されている。
記事を斜め読みし終え、とりあえず俺は二人に質問する。
「なーに?」「何かね何かね?」
俺はどうして、こんな大事件を知らずに生活してたのだろうか。
「……」「……」
一姫と真弓の両者は一瞬コチンと凍りつくと、次に無言で頷き合い同時に答えた。
「「それはこっちの台詞だ!」」
流石は幼馴染、息がぴったりである。などと感心していると、二人は頭を抱えた。
「みらっちの外界に対する興味が世捨てびとレベルな件、ちょっとどうなんですかこれ」
「う、うーん。でもほら、世間に囚われない浮世離れしているところも巳禮くんの個性かなー、なんて」
「甘やかすなっちゅーねん。これだからホモは」
「ホモじゃないもん!」
抗議する真弓を無視し、一姫はビシッと言ってきた。
「みらっち! そんなんじゃ高度情報化社会を生き抜けないぜ! PCあるんだからニュースサイトを見て回る! これもはや国民の義務ぜよ!」
「え、それはちょっと言いすぎじゃ、情報も偏るし――」
「黙れカマホモ!」
「カマホモでもないよっ!?」
一姫の無駄に熱いお節介。だが、ネットは嘘を嘘と見抜けない者が扱うと大変なことになるという。果たして俺は真実を見抜けるのか。
「いや、カッコつけてもダメだから。小学生からPC操作の授業があるこのご時勢。このままだと化石通り越して、オーパーツになっちゃうぜ?」
オーパーツ、何故か心の躍る響きがある。むしろ、いいかも知れない。
「……こんな調子じゃあ、もう一つの事件のことも多分、知らないよね」
「でしょうなあ、というわけでちょい失礼」
一姫は俺の手から端末と取ると、ささっと操作して再び俺へ渡してきた。
「インパクトで負けて串刺しの陰に隠れているけど、結構な被害で出てるんだぜ」
一姫の補足を聞きながら、記事に目を通す。が、これは――
「どしたのみらっち? 何か眉間の皺が干ばつした田んぼレベルに険しいっすよ」
「例えが若干わかりにくいよ姫ちゃん」
二人が何かやり取りをしている。が、俺は記事の方に集中していた。
【連続刀剣窃盗。ついに被害件数百を超える】
都内の博物館や民家の蔵に保管されていた刀剣類が消失。現場に痕跡はほとんど残っておらず、唯一の目撃証言も『白い影を見た』という曖昧なもの。
事件の始まりが約一ヶ月前、串刺し事件と被ることから、何かしら関連性があると考える専門家もいるが、警察関係者はこれを否定している。被害総額は既に――
「うぉい! みらっち! みらっちー!」
一姫の声に我を取り戻す。見れば二人共、眉毛が八の字だった。
「めっちゃシリアスな顔してどうしたん?」
不審がる二人に、被害金額に驚いてしまったと答える。他の金目のモノには手を付けていないにも関わらず、これはおかしい。そう感想を話すと、思ったよりあっさり納得してくれた。
「あー確かにねー。これ都内の一等地に一軒家立てて、戻ってきたお釣りで海外行けるもんね」
「やっぱり例えがわかりにくいよ姫ちゃん。なんていうか高校生っぽくないし」
「訂正、んまい棒を一生分買える」
「いっきに小学生レベルだよ?!」
キレの良い真弓の突っ込みに感動しつつ、俺は彼に端末を返す。
「あ、うん。ありがと。でもさ、ホントスゴイ金額だよね。いくら百件も盗んだってさ。刀や剣って、そんなに値の張るものなの?」
真弓の質問には一姫が答えた。
「んーモノに寄るけど。俗に刀って言われている『打刀』は、安いやつは20万くらい。でも、室町時代の匠が打った名刀とかは2000万近くするらしいし」
安くて20万、高くて2000万。一姫の言葉を脳内で反芻する――やはり、一種の賭けになるのは否めないか。
「博物館が目玉にしているヤツとかは、もう値段の付けようがない代物も、ってまたみらっちの額が田んぼってる?!」
「姫ちゃんその例え気に入ったの?」
真弓がため息を吐くと、ちょうどチャイムが鳴った。昼休みが終わる5分前の予鈴だ。
「おー、もうそんな時間け? じゃあ、教室戻――」
「あーッ!!?」
よっこいと立ち上がる一姫を、真弓の素っ頓狂な叫びが遮る。
「ボク、ジャージままだったよ! 急がないと着替える時間なくなっちゃう!」
そういえばそうだった。
「つーか、着替えてから屋上くればよかったんじゃね?」
呆れる一姫に弓はぷぅと膨れて反論する。
「二人を待たせたくなかったんだもん! じゃ! また放課後に会おう、って今日は声楽部の活動日だったよー!?!」
「あーもう、いいからほれ。行った行った」
しっしと追いやる一姫の素振りに、真弓はまたぶーっと膨れたが、時間が押していることもあってダッシュで屋上から去っていった。もっとも、着替える時間を作れるかどうか怪しい速度だったが。
「さて、私達もぼちぼち行きますかね、爺さんや」
まだ十代だ。
「真面目に返すとかホント、みらっちはみらっちですわ」
言いつつ一姫はゴミを仕舞った紙袋を手にひょいを立ち上がる。俺も立とうとして、
「あ、そうだ。みらっち」
その前に一姫が、俺の鼻先に人差し指を突き出してきた。
「盗み聞きは、感心しないぜよ?」
何のことだか、一瞬本気でわからなかった。
が、すぐに理解して思わず唸ってしまう。廊下でのアレは、バレていたのか。
「においでわかります、キリッ」
一姫は茶化すが俺は複雑、いや申し訳ない気持ちでいっぱいだ。俺と懇意にすることで、一姫はいらぬトラブルを抱えている。
それはおそらく、真弓も同様なのだろう。俺の目に着いてないだけで。
「はあ、みらっちは無表情のようで、すーぐ顔に出るんだから」
言って一姫の指が俺の鼻に触れた。
「そーゆー陰気な人は置いていきます。いつものみらっちになってから教室に戻るように」
いつもの、と言われても。
「あーあー聞こえぬ。聞こえぬ」
一姫は耳を塞いだまま、くるっと180度反転し歩き出した。
慌てて立ち上がり追おうとしたところで、一姫が全然進んでいないことに気づく。
「友達が曇るとさ」
一姫は振り向き、俺に言う。
「自分も苦しいってのが相場なんよ。OK?」
……わかった。
「よし!」
頷く一姫の笑顔を前に、俺は間抜けにも隙を晒してしまったのだろう。全くの無抵抗で手を掴まれていた。
「そいじゃあ。教室もどろうぜー」
いや、流石に手を繋いだまま教室に戻るのは。
「聞こえんなぁ♪」
一姫は実に楽しそうに口元を歪めた。
なんというか、彼女には本当に、色々と敵わない。
それが少し嬉しい俺だった。
※ ※ ※
放課後、俺は独りで帰路に着いていた。
一姫は剣道場、真弓は音楽室。それぞれがそれぞれの場所で、青春の汗を流している。比べて自分は――などと、横に一姫が横にいたら即座に喝を入れられそうなことを考え、気づけばアパートに着いていた。
206号室。俺は部屋に着いてすぐ、机へと向かった。
勉強、ではない。確かに早々に済まさなければマズいレポートもあるが、それよりも優先すべきことがある。今朝、電話でつけた茉莉との約束、その準備だ。
俺はちゃんと覚えている。一姫に健忘症を疑われたがとんでもない。いたって正常である。まあ、別に気にしているわけではないが。
俺は身を屈め、机の下に手を伸ばし、長い白木の箱を取り出す。
中央を結わえてある藍色の紐を解き、蓋へと手を伸ばして止まる。屋上での雑談を思い出した。【刀剣盗難事件】一切の痕跡を残さず、手口も不明。白い影。
息を飲み、箱を開ける。
中を確認し――安堵のため息を漏らした。
一旦、洗面所で顔を洗うことにする。どうも冷静さに欠けている。昨日も一昨日も俺はこれを取り出して、触れている。そもそも、博物館でも藏持ちの家でもない。ただの学生のアパートの隅に『これ』があるなどと、誰が思うだろう――普通ではない。
洗顔を終えた俺は部屋に戻り、普通ではないそれを、箱の中身を手に取った。
銘は【顎】。
柄があり、鍔があり、黒皮を巻いた鞘には刃が納められた、まごう事なき刀である。
長さ5尺5寸(約160センチ)刀身の長さのみで分類するならば、野太刀に分けられるが、違う。
まず刀身の刃幅が異なる。出刃包丁や大鉈のように刃は柄より前へ迫り出し、二の腕が隠れるほどに広く造られ、刃肉の厚みも斧のそれだ。
鍔の形状も独特だ。平面ではなく立体、肉を削いだ獣の上顎を、牙ごとはめ込んだような無骨な形状。塚側へと突き出す双牙は、ちょうど柄を握る手を守るようになっている。
俗に日本刀と呼ばれる打刀は脆いと思われがちだ。細く薄い刀身の外観から、切れ味に優れる代わり、軽く儚いと。
だが、全ての刀を一纏めにして『骨を斬ると刃こぼれを起こし、血や脂で切断力が落ちる』などと評価するのは、底辺を指して全体を評した不当なものだ。打刀は鍛えられた鋼の塊。重量は約1キロからそれ以上に達する。
振るえば刃は骨を断つ上、こびり着いた油程度で止まるような重量ではない。刀とは鋭利に斬り込み、重く断つ得物であると、俺は身をもって知っている。
そして、この【顎】はより重く断つことを目指した刀だ。重量は通常の倍以上。当然、扱いには馴れがいる。俺が【顎】をまともに振れるようになったのは――祖父が死んだその年だった。
鞘から抜き放つ。闇色の束縛から開放された刀身が、日の差す水面のように輝いた。刃肉に浮かぶ焼入れ模様は、嵐に荒ぶる波に似ている。
俺は時計を確認した。約束の時間まではまだ余裕があった。
立ち上がり、刀身を肩に担ぐ。
そうして俺は、大家が知れば青ざめるであろう抜き身での鍛錬を、いつものように始める――迷いを振り切るために。




