雪しずり
「このような場合、都の言葉でなんと申すのでしょう。うーん、暖簾に腕押し、糠に釘……」
「梨の礫」
「ああそうそう、それだ。ありがとうございます」
「滅相もございません。しかし、都の言葉ではございませんけれどね」
そうしてさらりと筆を滑らし、明は日々つけている日記帳に「梨の礫」と書き足した。紫苑様からの返事は本日も梨の礫。
職務上の用向きであるとはいえ、皇子から正式な通達が無いので、明蘭が紫苑宮の主人と話をするには、何よりも先に主人の許可を取らねばならぬ。しきたりに則って文をしたため、花を添えて景姫に送った手紙の数はもう記録を見なければ正確には思い出せないけれども、肝心の良い知らせは一向に訪れなかった。
恋文も花も貰ったことが無い。まして、出したことなど。
「こうも時間を無為に過ごすことになるとは……方針を変えねば」
「方針」
「しかし、女性が喜ぶものというのもわかりません。ううん」
正しい言葉を使えば、女性が男性からもらって喜ぶもの、であろう。なぜなら明は今まで、男性から女性としてものを送られたことがなかった。吐息を吐き出して顔を上げると、明蘭の開いた茶碗に茶を注ぎつつ、目を伏せていた雪隆も視線を上げた。
「そうだ、雪隆君」
「なんでございましょう」
「明日、一緒に城下へ行ってはもらえませんか。女性の喜ぶものを何か見繕って下さい」
「……そういうことでしたら、穂高様の方がお得意やもしれませぬ」
「では三人で参りましょう。三人よれば文殊の知恵」
雪隆は渋々と頷いたが、内心は嫌でたまらないのかもしれない。雪隆は邂逅の日から今の今まで、一度たりとも明蘭の依頼を蔑ろにしたりはしなかった。しかし雪隆はあまり明蘭に個人的な話をしないし、明蘭も隠し事がある以上、詳しいことは語れない。後宮に参じてしばらくの月日が流れたものの、打ち解けたとは言いがたかった。
それに、無理強いをすれば何もかも洗いざらい打ち明けてくれるような明蘭に対する忠誠は、蘭の字の重さを実感した後の明蘭には逆に恐怖の対象であった。命令すればなんでもするのか。そう考えるととても、語気を強める気持ちにはならなかった。
午前の日課は文をしたためることであり、午後の日課は書庫へ行って史料の整理をすることである。当面は香蘭の部下として香蘭から下げ渡された仕事を淡々とこなすのが明蘭のすべきことであった。目下明蘭が命じられているのは、書架を整理し誰にでも閲覧可能とすることと、書庫の史資料を整理し検索可能にすることである。これは誰かがやらねばならぬことであるし、後世の役に立つだろうから、今後の生業として丁寧に片付けてゆきたいと考えている。
もう一つ。
命じられているのは、先の一連の事件の真相を明らかにすることである。皇子が一体何を持って後宮を整理することを決めたのか。景姫が皇子に何を強請ったのか。皇子は景姫を、後宮をどうしていくつもりなのか。納得の行く説明をつけて報告せよという命が下された。皇子が景姫の色香に惑わされたという説明では、現実を受け止められぬ者たちが多いらしい。
こちらの方はどうにも芳しく無かった。あの事件について、当事者たちは語りたがらない。正々堂々と正面から尋ねれば、皆曖昧な表情で口をつぐんでしまうし、事件の中心である景姫には未だ会うことができない。皇子は景姫が愛しいからという一点張りで、それ以上は何も言わない。
このような人たちと交流を深め、関係性を構築していかねばなるまいが、秘密の露見を恐れて身の上話ができない明蘭は、会話の糸口を探すのにとても苦労していた。
「しかし、蒸すなあ。……ああ、そういえば」
口にして、思い出す。
史資料学に関する国際学会があるらしい。周辺諸国で歴史を生業とする人々が集まり、史料に関する様々な問題を討議する。それに香蘭は赴くのだろうか。もし行くのならば、理想的な史料庫の環境について、報告書と共に一筆書いてはもらえないだろうか。このままでは、脆い史料はすぐに駄目になってしまう。
梯子に足を絡ませ、器用に腰を掛けて鼻歌を歌う。こうして古いものに指を這わせてその歴史を思うことは、とても楽しく心地よいことだった。
「明先生」
下の方から、雪隆の声がする。
「少し休憩になさいませんか」
「え?」
「もう随分長い間、そうしておられます」
降りれば、書架の閲覧室に茶と菓子が用意されていた。甘いものに目がない明蘭は、こくん、と生唾を飲み込む。
「これはなんでしょう」
「はい。西の国から取り寄せた洋菓子でございます」
色とりどりの菓子は果たしてどのような味なのか。想像するだけで胸が高鳴り、明蘭は菓子に手を伸ばす。
「お待ち下さい!」
不意に。触れようとした菓子が、雪隆の綺麗な指に掠め取られた。それが雪隆の口元に運ばれ、唇に、触れる。
一口かじった雪隆は、唖然とする明蘭にむかって微笑んだ。
「大丈夫です」
「……何をしたのですか」
「毒見です。ご無礼をお許し下さい。蘭の名を持つ方に、何かあっては大変です」
「……雪隆君」
意図したよりも低い声が出た。雪隆の明蘭に向けられた笑顔が、ひきつっていく。明蘭が何に感情を荒げたのかわからないのだ。心底恐怖した表情が明蘭を捉え、それがまた明蘭を苛立たせた。
「もう二度と、二度とこのようなことはしないと誓って下さい」
青年が、傷ついた顔をする。
「不用意にお手に触れてしまったことをお怒りですか。では僕の腕を切り落として下さい」
「違います」
「では、珍しい菓子を先に口にしたことを――」
「違います!」
声を荒げた。雪隆の肩が震える。
「もう二度と、毒かもしれないものを口にするのはやめて下さい」
こわばっていた雪隆の表情が、困惑のそれに変化する。
「……もう二度と、私を独りにするような事をしないで……」
涙がこぼれた。絞りだすような声だった。
なぜそのようなことになってしまったのか、明蘭にはわからなかった。まるで女が去り際の男に懇願するようではないかと思った。これでは、何も隠し通すことができていない。
「……申し訳ありません」
雪隆が、手に持っていた食べかけの菓子を机の上に置き、新しいものを器から取って明蘭のそばに跪いた。
「申し訳ありません。お気を張っておられたのに気付きませんでした」
指先で明蘭の涙を拭うようにすると、菓子を口元に差し出す。
「甘くて美味しゅうございますよ。さあ、明先生」
促されるままに、菓子をかじる。なんとも言えない、心地良い甘酸っぱさが口の中に広がっていく。口の中に入ったかけらを噛めば、ふわりとした甘い香りが明蘭の鼻先をくすぐった。
「少女のような方ですね。このようなはずではなかったのですが」
「……このような?」
「私は、皇子殿下の側室として後宮に入ったのです。殿下が女性を嗜まないという噂が流れた時、父からそのように命じられました。王子殿下の誤解はすぐに暴かれたものの、私の誤解は暴かれぬまま。ですから、今回ついにその時が来たのかと覚悟をしました。私は男性の相手はしたことがありませんが、故郷や家族のことを考えれば、断ることなど出来ません」
「……うう」
「どうぞ泣かないで下さい。明先生は何もお望みにならなかったので、私はどうすれば職務を全うできるのかとずっと考えていたのです。しかし、職務のことばかりを考えて名先生のお気持ちをお察し出来ませんでした。慣れない後宮で、返事の無い手紙を書き続け、書庫に篭ってひとり黙々と作業なさっておられた、先生の寂しさに気が付きませんでした」
もう二度としませんから。雪隆が優しく言った。これでは明蘭のほうが諭されているようで、なんだか納得行かなかった。しかしもう一度促された甘い菓子の味に、気持ちが溶かされていくのを感じた。