白南風
第三皇子貴明が、自分の後宮を整理してしまったという話が宮廷中を駆け巡ったあの事件から、まだそう日が経ってはいなかった。初雪の頃、さんざん焦らされようやく新しい側室の部屋を訪れた皇子は、二日間寝所から出て来なかった。三日目の朝呆れ返る家臣達に向かられ、後宮から戻った皇子は、執務室に入るやいなや、新しい側室を除いた後宮の女たちを、皆祖国に返すことを宣言した。
しかしそのような話が許されるはずがない。皇子とはいえ信頼していた結婚相手に傷物にされた挙句家に送り返されたとなれば、その娘はもう世を捨て僧になるしか無いではないか。それが皇子を相手にするような、身分の高い娘であればなおさらである。そんなことで他国や自国の要人たちと、仲違いしてはたまらない。それはもはや、若い王子一人の問題ではない。
しかし皇子は譲らなかった。景姫以外は要らぬ。他の女は皆邪魔だ、と、駄々をこねて父や兄たちを困らせた。もし聞き届けられぬのなら、すべての女を殺して後宮を空にする、とまで言った。散々揉めた挙句、側室達は兄たちの後宮に改めて召し上げられることになった。それが、丁度明蘭が宮廷に呼ばれた頃の話だった。
「ですから、大変不便を強いてしまうことになりますが、汪史官には男性の姿をして、後宮に入っていただきたいのです」
「ちょっと待ってください。私は、先生とともに史部で働くのではないのですか」
「え、香先生。もしや、説明してはおられませなんだか」
「説明をしては、きっと明が帰ってしまうと思ったのです」
「あの、」
「皇子はあの事件以来、女が増えるのは駄目だと言うのです。それでは寵を取り合って景姫が悲しむから、と。しかし、景姫がそのように皇子に強請ったのではないかと、宮廷では噂になっております」
「なるほど」
「あの先生、」
「ですからもし、女が後宮に出入りしていることが明らかになれば」
「……明らかに、なれば?」
「皇子は景姫のために、女を切って捨てるでしょう」
第三皇子の、景姫への寵愛ぶりは凄まじいものであると聞かされていた。明蘭は話の着地点がわからないものの、なんとなく嫌な予感がして不安げに師を仰いだ。しかし香蘭はなんだかよくわからない笑顔でこちらに笑いかけるだけで、なんの解決にもならなかった。
「後宮に入ったら、もう先生には会えないのですか」
「何を言っているのです。貴方は側室として入るのではなく、あくまで景姫の教育係として後宮を住まいとするのです。望めばいくらでも外には出られましょう」
「なぜ、このようなことに……」
「蘭の字は王室に捧げられたものです。王室のために死ぬのが蘭の勤め。ならば、王室のために努めるのもまた蘭の運命なのでしょう」
「先生はなにか重大なことをごまかすときに、運命という言葉をお使いになりますね」
「……明」
「我ら歴史家が運命などと軽々しく言って良いのでしょうか。このような事態になったのも、何か理由や有るはず。必ず原因が有るはずです」
どんな物事にも真実があり、客観的事実が伴い、そして必ず合理的理由がある。それは明蘭の信じるところであるが、それが明蘭の限界であることも香蘭はよく知っていた。そのままでは明蘭は一人では王宮でやっていけない。上手く立ちまわることを覚える前に、敵意の的にされ潰されてしまうだろうと香蘭は考えていた。
後宮は香蘭の考えた明蘭の城塞だった。決して誰も崩せぬ城塞。さらに第三皇子が景姫以外の女たちを皆後宮から追い出したというのは、願ってもない幸運であった。明蘭が要らぬ憎悪を受けて、云われのない悪意の的になることを避けられる。
師として悪いことをしていると判っていながらも、香蘭はこの未熟な生徒のことを可愛くて仕方がないと思っていたのだ。それは自分の姓で蘭の字を与えられてしまった幼い娘への負い目から、次第に守るべき存在としての意識へと変わっていった。
「明蘭」
「はい」
その目が香蘭自身ではなく、信頼する師を写していることを知っている。
「何かあったら、私を訪ねなさい。辛いことがあったら、いつでも後宮を飛び出していいのですよ。私が守ってあげますから」
「……先生」
「貴方がどんな運命を背負っていようと、私が必ず責任を取ります」
「……なんだか、先生」
明蘭が少しうつむいて、吐息のように吐き出す。
「女の人をくどいているみたい」
そして、ずっと昔それが恋心の色していた季節があったことを、明蘭にはしられなくて良いと思っていた。